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狐が来たりて鈴を鳴らす  作者: 荻原もも
卯月の頃

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09 呼び出し


 鏡台の前に座った鈴音は、螺鈿らでんの櫛で髪をく。乱れ、傷んだ髪は簡単に櫛を通してはくれない。香油を馴染ませて、ゆっくりと、一房ずつ丁寧に。たっぷりと時間をかければ、いつも通りとはいかないが艶やかな黒髪に戻った。

 次に髪を一つに束ねると、まとめ上げてかんざしを飾る。一本の乱れなくまとまったのを鏡で確認してから、鈴音は考えに浸った。


(あの方は、いったい誰なのかしら……)


 鈴音を屋敷まで送り届けてくれた女性は、最後まで名前を教えてはくれなかった。分かっているのは、食材を届けに来ているということ。毎日、あの場所にいるということ。山奥なのに、登山に向かない和服姿だったことから家が近いのだろうか。


(明日にでもお礼にいけたらいいのだけれど)


 櫛を鏡台の引き出しにしまうと、衣桁いこうにかけてある打掛を見つめる。深い群青色に染められた打掛には名も知らぬ小さな花がいくつも咲いていた。花びらと葉を金糸が縁取っていることから一目見て高価だと分かる代物だ。


(それにしても、あんな霧が酷い場所に住んで不便ではないのかしら。……霧?)


 こてん、と首を傾げる。朝目覚めた時も屋敷を抜け出した時も周辺に霧は出ていなかった。空も透き通るような青空が広がっていた。記憶を遡るが、いったいいつから霧が立ち込めていたのか思い出せない。

 悶々(もんもん)と考えにふけっていると襖が勢いよく開け放たれた。ずかずかと入り込んできた人物を見て、鈴音は急いで袖で目元を覆い隠した。


「お面はしっかりと着用を。そんな気味の悪い眼をさらけ出すなど、正気ではありませんね」


 辛辣しんらつな物言いに鈴音は何も言い返せない。自室だからとお面を外していた自分に非がある。小さな声で謝罪をすると急いでお面を装着した。


「これを」


 目前に置かれた盆の上には握り飯が二つと漬物が置かれていた。桔梗は鈴音の世話を焼くことはない、と確かに言っていた。鈴音自身も自分で身の回りのことをするつもりでいた。それなのに、なぜ食べ物を差し出すのか分からず、伺うように桔梗を見つめる。

 すると、桔梗は心底不服とでもいいたげに唇を歪めた。


「ご命令です。早く子を作り、真宵さまを解放するために栄養はしっかり摂ってもらわなければなりませんもの」


 だから、と桔梗は両目を細めた。


「とてつもなく嫌ですが、食事のみはわたくしが用意いたします。はやく、お食べになってください」

「あの、ありがとうございます。けれど、その、食欲が……」


 昨夜からまったく食べていないのに不思議とお腹は空かない。作ってもらえたのは嬉しいが食欲が湧かないため、後でいただくと言うと桔梗は両目尻を極限にまで吊り上げた。


「真宵さまがお呼びです。体力不足で倒れられでもしたら困ります」


 その名前に、鈴音は固まった。真宵が自分を呼んでいる。つまり、まだ昼過ぎなのに昨夜のような行為をするということだ。


「わ、私は、その」

「まさか、断るおつもりですか? 真宵さまはお忙しいのです。さあ、早く食べてください!」


 桔梗に急かされ、無理やり食べ物を喉奥へと詰め込むと急いで薄藍の寝巻に着替えた。緊張と恐怖から胃の中に無理やり収めたものを吐きそうになるのを我慢して、先を行く桔梗の後を追いかける。


(大丈夫、すぐ終わるわ)


 心の中で自分に何度も言い聞かせる。ここで逃げ出して、後でどんな目に遭うか考えたら、今は大人しく付き従うことが賢明だろうと。


(大丈夫。大丈夫よ。殺されることはないから、大丈夫)


 真宵の希望は子を作ること。子が無事に産まれる時まで、母体である鈴音の命は保証されたも同然だ。


(痛いのは心と身体だけ。耐え凌げはいいだけ。そう、それだけのこと。だから、大丈夫。我慢できる)


 ふいに桔梗が足を止めた。目的地に着いたことを悟り、鈴音は生唾を飲み込む。拳を握りしめるが荒立つ感情は抑えることができない。


「真宵さま。花嫁御寮(ごりょう)を連れて参りました」


 菖蒲しょうぶが花開く襖の向こう側に、桔梗は声をかけた。今まで聞いたこともない。柔らかく、蜂蜜をかけた砂糖菓子のように甘やかな声で。


「下がれ」


 それに対して襖の向こうから投げ返された声は酷く冷たい。


「はい。失礼いたします」


 桔梗は頭を深く下げる。不意に見えた横顔は傲慢ごうまんさは微塵もなく、代わりに悲痛さを帯びていた。

 横顔を観察していた鈴音に気がつくとキッと睨みつけて、早足でこの場を去っていく。

 一人残された鈴音は襖に手をかけたまま、入るかどうするか迷った。

 この屋敷の主人は真宵だ。彼が呼んでいるなら鈴音は向かうしかない。

 けれど、自分に何度言い聞かせようが昨夜の恐怖は簡単には去ってくれない。身体中の痣と足の傷を理由に明日に延期してもらえないだろうか。


「入れ」


 迷っていると不機嫌な声が投げかけられた。

 覚悟を決めた鈴音は一言断りを入れてから襖を開ける。西日が差す部屋は十四畳ほどの広さで文机や箪笥たんすが置かれている。その中央には布団が敷かれており、さっと鈴音は顔を青くした。

 思わず一歩後ろに下がる。このまま逃げ出したい気持ちと務めを果たさなければという義務の狭間で揺れていると、真宵が立ち上がり、近づいてきた。

 また、一歩下がる。ぎゅっと拳を握りしめて、真宵の視線から目をそらすように顔を俯かせた時、つん、と鼻を異臭がついた。


「……血?」


 鈴音は無意識に声を漏らす。真宵の身体からは微かに鉄の臭いがした。どこか怪我をしているのだろうか、まじまじと見つめるが怪我をした箇所は分からない。


「あの、どこかお怪我をしていませんか」


 真宵の目尻がぴくりと動く。眉間に皺を寄せて、いかにも不機嫌そうな表情を作る。

 発言の謝罪と撤回をするため、鈴音が言葉を重ねようとするが「黙れ」と昨夜と同じ、冷ややかな声で命じられた。

 鈴音は唇を固く閉じた。吐息ひとつ漏らさないように。


「俺の前で一切、声を出すな。不愉快だ」


 ——不愉快だ。

 その言葉が矢となって、鈴音の胸を射抜く。何度も存在を否定し、投げかけられた言葉は、鈴音の意思を奪うのには十分な効力を発揮した。

 真宵の手が自分の手首を掴み、乱暴にしとねに投げられても。帯を解かれ、寝巻を剥ぎ取られようとも。鈴音の身体をおもんばからない手つきで、ことを進められても。


 覆いかぶさってくる獣の怒りを買わぬように、鈴音は声を殺して耐え忍んだ。


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