10 熱に魘され見る夢は
目を覚ますと、そこは闇に包まれていた。
何度か瞬きをするうちに目が慣れて、部屋の輪郭が朧げに見えるようになると、鈴音はすぐさま獣の姿を探した。衣桁掛けの裏、文机の前、窓際——座敷の隅々を入念に。
しばらくして、獣——真宵がいないと知って、心の奥底から安堵のため息をつく。どれだけ闇が濃くても微かな光すら弾く銀の髪と青玉の瞳は、隠れるのには適していないはず。座敷には隠れる場所など存在しないし、これだけ探しても見当たらないのだから自室へと戻っていったのだろう。
「……生きてる」
胸に手を当てると、とくとくと心臓が脈を打つ音が伝わる。鈴音は大きく息を吐きだすと瞼を下ろして、全身の力を抜いた。
どうやら途中で意識を失っていたらしい。そのため、いつ行為が終わったのか、鈴音は覚えていないが熱を帯びた身体や下腹部の痛みから、さほど時間が経ってはいないのだろう。どちらのものか分からない体液が肌に張りつくのは不快だが、指一本動かすことすら億劫で、少しだけ休もうと思った。
けれど、じっとしていると身体中がじくじくと痛み、自分の身に起きた現実を突きつけてくる。
(お風呂に入れば、少しは落ち着くかしら)
纏わりつく不快感を拭い去るために、鈴音は風呂場へと向かった。
この屋敷には火の番を務める使用人がいないため、湯を使うことができない。鈴音は夜伽で疲れ切った身体を更に酷使しながら井戸へ向かい、汲んだ水を桶で運んだ。そこから柄杓ですくうと頭のてっぺんから洗い流す。雪解けの水は身を切るような痛みを与えるが鈴音は気にもとめず、何度も水を被った。絡まり、束になった髪を洗う。また痣が増えた肌を洗う。
全て。手が届く範囲、全てを洗った。
(まだ、汚い)
綺麗に洗い流したはずなのに、まだ汚れている気がした。もう一度、洗い直そうと柄杓に手を伸ばすが桶の水が空になっていることに気がつく。井戸に汲みに行く気力すらない。鈴音は呆然としながら手拭いを手に取った。
(どうやったら綺麗になるのかしら)
身体を拭きながら自らの手の先を見つめる。手荒れなどなかったのに今は傷や痣がひどく、目を背けたくなる有り様をしていた。傷や痣が視界に入る度に、得も言われぬ感情が込み上げてくる。悲しみか、怒りか、それは判断できないがいい感情ではないのは明らかだ。
思考を追い出すように頭を振る。
これは鈴音の務めだ。国と妖魔を繋ぐための子どもができるまで、自分の感情など必要ない。子どもができれば、真宵は自分を抱くことはしない。自由になれる。
そう結論づけると寝巻に手を伸ばした。袖を通し、襟を正す。次に帯を持ち上げようとした時、ころんと何かが視界の端を転がった。
あの女性に貰った軟膏だ。
鈴音は大切な宝物に触れるように壺を持ち上げた。蓋を開けると獣脂のような生臭さとすり潰した青草が混じり合った独特な臭いが鼻を抜ける。黄色味がかった軟膏を指先ですくうと、あの女性がしてくれた通りに肌に塗り込んだ。足の深い傷にはたっぷりと、痣には薄く伸ばして。軟膏は肌に触れるとたちまち溶けていく。
そして、最後に包帯を巻く。あの女性のようにうまくは巻けなかったが、動かしても解けないので及第点だろう。
(少し、気持ちが軽くなった)
そっと胸に手を置くと静かに脈打つ鼓動が指先に伝わった。
不思議だ。さっきまであれほど死にたかったのに、今は落ち着いている。この軟膏のおかげだろうか。いや、もしかしたらあの女性の言葉のおかげかも知れない。
「……また、会えるかしら」
先程とは違い、軽やかな気分のまま座敷への道を戻っていく。少し足元がふらつく気もするが、きっと疲労のせいだと自分に言い聞かせた。
※
昨夜、感じた違和感は身体が限界を告げていたのだろう。
目を覚ました瞬間、鈴音は全身を絡め取るような重い倦怠感に気づいた。
薄い皮膚の下は炎が暴れているように熱いのに、その更に奥には氷の塊がうぞめいているような悪寒もした。全身から吹き出した汗が布団に染み込み、寝巻きはぐっしょりと濡れて肌に張り付いてくる。着替えたいが手足は鉛のように重たく、持ち上げてもすぐさま力が抜けて布団へと落ちていく。渇いた喉が水を欲しているのに、起き上がることができない。
鈴音は浅く早く呼吸を繰り返しながらじっと耐えるしかなかった。
(お面を、せめて、あれだけでも……)
もうすぐ桔梗が朝餉を運んでくる時刻だ。彼女が来るその前までに赤眼を隠したいのだが、高熱にうなされた身体は指先ひとつ動かすことができない。
(このまま死ぬのかしら)
こんな山奥に医者を呼べるわけもない。薬を所持しているわけでもない。彼ら妖魔が人間である鈴音を助けてくれるとも思えない。
熱で朦朧としながら鈴音は自嘲した。あれだけ死にたかったのに、今は死ぬことが恐ろしくて仕方がない。死んでしまえば楽なのに、いざ死に直面するともっと生きたいと願ってしまう。
矛盾した感情に振り回されていると額に触れる手に気がついた。
(だれ?)
指先は汗で額に張り付く前髪を払い、次に手のひらは体温を確かめるように頬を優しく包み込む。
「……お母さま」
その手があまりにも優しくて。温かいその手はまるで母のようで。涙をこぼしながら、鈴音はすがるように頬を擦り寄せた。
頭上で、誰かが息を詰める気配がした。気のせいのはずだ。
だって、この屋敷で暮らすのは真宵と桔梗の二人しかいないのだから。彼らが鈴音を気にするなど、天地がひっくり返ってもありえない。
だから、これは夢に違いない。鈴音が母に会いたいと願ったから、見た夢に過ぎない。
「——大丈夫。よく頑張ったね」
慈しみが滲む玲瓏なその声は、母のものとは違った。鈴音の頭を撫でる動きもぎこちない。母の手とは違うことに違和感を抱きつつも、鈴音は意識を手放した。
なんとなく、この手は鈴音を傷付けないと分かっていた。




