13 巨大な火柱
屋敷は妖狸の幻術でできている。入り組んだ内部から出口を探すより、見渡しのよい庭園から探したほうがいいと考え、庭園に出た樒は目の前で繰り広げられている地獄絵図に片眉をひそめた。鈴音にこれ以上の心労をかけさせないために目元を覆いながら喧騒がその耳に入らないように聴覚を遮断した。
急に音が消えたことに鈴音は不安そうに樒を見上げるので、微笑んで受け流す。
そして、幻弥を振り返った。
「鈴音ちゃんを頼む。安全な場所へ連れて行ってから里へ行き、増援を呼んでくれ」
「別にいいですけど、樒くんはどうするんですか」
「私は英たちの元へ行き指示を出す。一匹でも多くの化け狸を駆除しておくよ」
鈴音を幻弥に受け渡そうとすると、鈴音は樒の襟をぎゅっと握った。小さく閉じられた手が震えているのを見て、「大丈夫」と声をかけた。
「この人は真宵の腹心で、私の友達なんだ。鈴音ちゃんを安全な場所に連れて行ってくれるから、安心して」
「夕霧ねえさまは、旦那さまは大丈夫ですか?」
「私たちは強いから大丈夫だよ。でも、真宵は鈴音ちゃんがいると本気を出せないんだ」
「私がいると……」
何かを考え込むように鈴音はまつ毛を伏せた。
「困ったよね。君が少しでも傷付くかもと思ったら力がでないんだもの」
真宵が本気を出せばあたり一面、焼け野原にできる。幻術しか使えない妖狸も狭い範囲でしか現実に干渉できない玉三郎も、そうなっては彼の業火にはなす術もない。手っ取り早く討伐できるのに、それをしないのは鈴音に火の粉ひとつでも当たる可能性があるからだ。
だから、真宵が戦いやすいように鈴音を安全地帯へ避難させなければいけない。それが今の樒にとって最優先事項だ。
「鈴音ちゃんは待っていて。私たちが必ず、真宵を連れ帰るから」
「……ええ、わかりました。ご武運をお祈りします」
鈴音は襟を掴む手を解いた。
※
(これを見た真宵さまに僕は殺されたりはしませんかね)
幻弥は腕の中で大人しく縮こまる鈴音という名の少女をちら見した。尊敬する主人の婚約者である彼女は不安そうに揺れる紅眼を伏せて、先ほどから無言で何かを考えているようだった。
腕に伝わる重さも身体の柔らかさも普通の人間——否、普通よりも華奢な印象を受ける。可食部も少なく、子狐でも簡単に狩れそうなほど脆そうだ。
(真宵さまが気にいるとは思いませんでした)
姿形は可愛らしいが、絶世と名のつくほどではない。普通で無力なただの人間、普段の幻弥なら怖がる存在ではないはずなのに、街中で鬼の首を締め上げて妖狸の腕を折った真宵の姿を見ていたので(もし傷付けたら殺されるのでは?)と不安で仕方がない。
腕に必要以上に力が入らないように気をつけながら山道を降っていると、不意に少女が唇を開いた。
「旦那さまは、私が邪魔だから……」
それは独り言のようだった。
答えるか、無視をするか迷った末に幻弥は前者を選んだ。ここで無視して鈴音が変な方向に思考を飛ばすと、後で真宵が落ち込む可能性があるため。従者として、それは避けたい。
「大切だから遠ざけたいんだと思いますよ」
えっ、と鈴音は面を持ち上げる。
「真宵さまは鈴音さまのことが大切なようにお見受けします。あなたさまが大切でなければ、あの方自身が取り戻しになんてきませんよ。それも作戦すら立てず、ひとりでなんて」
「……私、旦那さまかと思ってついて来てしまったんです。たくさん迷惑をかけて、心配させたのに」
じわり、と紅眼がうるむ。泣かせて真宵に殺される未来を想像した幻弥は慌てた。足を止めると鈴音を地面に下ろして、手巾を目元に押し当てて涙を拭く。
「こんな役立たず、旦那さまが婚約を嫌がって破棄するのではと不安で」
「いや、それはあり得ません」
絶対に。真宵の様子から婚約破棄など死んでもしないだろうし、鈴音から申し込まれたら樒に幻覚でどうにかしてもらうほど惚れ込んでいるのに。どうしてそんな考えに至ったか問う前に複数の足音が近付いてくるのを感知した。
妖気からそれは同族であることを察した幻弥はすぐさま肩の力を抜く。と同時に羽織りを脱ぐと鈴音の頭から被せた。泣いている姿を見られて、それを真宵に報告されるのはどうしても避けたい。
足音がぴたりとやむ。集団を率いていた壮年の妖狐が幻弥の名前を呼んだ。
「梅蕾から事情を聞いた。真宵さまはどちらに?」
「あちらに。今、隠神刑部狸と対戦中です。その子どもらは樒くんと英くんたちが相手をしています」
「隠神……厄介な相手だ。ん? そこの者は誰だ」
壮年の妖狐は鈴音を指差した。
庇うように前に進み出た幻弥は「真宵さまの婚約者です」と答えた。
すると集団にどよめきが伝う。よく見ようと視線が鈴音に降り注がれる。中には好奇心から羽織りを持ち上げようとする者もいて、幻弥は慌てて止めた。
「彼女に嫌がらせをしたら真宵さまが怒りますよ」
実際に真宵が怒っているところを見ていない者たちの反応はさまざまだ。幻弥の冗談だと受け流す者やそれでも好奇心に負けた者—— 各々の反応を見て幻弥は冷や汗を流した。
(真宵さまに殺される!! 僕が!!)
両腕を折られて首を締め上げられ、そして炎に焼かれる未来を想像していると「鈴音ちゃあああぁぁああん!!!」と耳をつんざくような大声が聞こえた。思わず、耳を塞ぐ。甲高い声は耳に痛い。
「よかった!! 無事だったのね!!」
妖狐の集団を蹴散らすようにして現れた女性に見覚えがある。鬼族の長の婚約者だ。でも、なぜここにいるのか見当もつかない。
人間の女の登場に増援に駆けつけた妖狐たちも混乱しているのが分かった。
「潔子さま、ごめんなさい。ご心配をおかけしました」
「わたくしこそごめんね!! あの陰湿な妖狐の長とは違うって気付かないなんて!! 怪我していない?! お水飲む??」
「旦那さまたちのおかげで怪我はしていません。あの、蘭丸さまはどうされたのですか?」
「鬼族にも増援を頼むって駆け回っているから、わたくし一人で来たの。この人たちの跡を追いかけて」
〝鬼族の蘭丸〟とは鬼族の長の名前と理解した妖狐たちは驚きに満ちた眼で人間の女——潔子を凝視した。妖狐の足に追いつくなど、只者ではないと思ったのだろう。
(只者じゃありませんよ)
幻弥は心の中で首を振った。真宵に暴言を吐いて殴りかかろうとした人間の女は〝普通〟とはかけ離れていると。
それを口に出して、今度は自分が標的になるのは回避したいので幻弥を口を噤んだ。
「……とりあえず、鈴音さまと鬼族の婚約者さまは僕と一緒に安全な場所へ移動しましょう。妖狐の皆さんは真宵さまたちの元へお願いします」
幻弥が屋敷のある方向を指差した時、巨大な火柱が現れた。白く澄んだ炎は唸り声をあげながら、青空を飲み込まんとする勢いで燃え上がり、世界を染めた。




