11 誰かが囁いた
突如、一升枡から火柱が立ち昇った。青白い炎は轟々と唸りをあげながら、螺旋を描くように天井を舐める。
驚いた幻弥が一升枡を落とした。地面に落ちた衝撃で木組みが壊れ、囲いがなくなったことで火柱はより一層と力強く燃え上がる。
やがて中に人影が揺らめいた。
「……真宵?」
名を呼ぶと炎は消え、代わりに現れた真宵は怒りが宿る目で樒と幻弥を睨みつけた。
「私たちは本物だから安心しなよ。疑うのなら、君が鈴音ちゃんの気を引くためにやったこと全部話すけど」
「別に疑ってはいない」
嘘つけ、と樒は心の中で呟いた。殺気だけで妖魔を殺せそうだったくせに。
「鈴音はどこだ」
「まだ助けられていない」
真宵の殺気が増した。気圧された幻弥を庇うように前に立ちながら、樒は首を振る。
「私たちじゃ、隠神刑部狸に太刀打ちできないから一度戻って体制を整えるつもりだったんだよ」
奴に対抗できるのは高い火力を持つ妖狐のみ。幻術を得意とする樒たちは手も足も出ないため、真宵を救うことだけを第一に行動していた、と説明する。
寄った眉の皺を更に深めると真宵は無言で踵を返した。その意図を察した樒は慌てて声をかけた。
「どこいくんだい?」
「隠神刑部狸は俺が相手をする。お前たちは鈴音を助けにいけ」
「無茶だ。帰って策を練るべきだ」
「くどい」
真宵の周囲を陽炎が踊る。初夏を感じる気温は徐々に高くなり、どこからともなく熱風が渦巻く。熱風に撫でられた肌は引きつり、微かに痛みが走る。
乾く喉を潤すために樒は唾を飲み込み、唇を開く。妖狸は二万を超える大所帯だ。真宵がいても自分たちだけでは、戦力としては不十分だと。鈴音を安全に救い出すには他の一族の援護が必要だと。
怒れる主人を説得しようとしたその時、突如として地鳴りのような轟音が屋敷を揺るがした。樒はその方向を向いて、驚き固まった。
「嘘でしょ」
呆然と呟く幻弥に同意する。
長く続く廊下の向こう側から茶色く濁った水の壁が押し寄せてきた。荒れ狂う濁流の、その波頭。熟練の波乗り手のように器用に木の板を操り現れたのは、隠神刑部狸だった。
「みぃつけたぁ!!」
妖狸にあるまじき、獲物を絶対に逃さないと爛々《らんらん》と輝く瞳は、真宵の姿を捕らえると愉快そうに歪められた。
※
伊紗那の案内のもと、庭園の散策していた鈴音は胸のうちを渦巻く違和感から逃れることができないでいた。彼との散策は楽しいものであるはずなのに、同じ時間を過ごすたびに胸を支配する靄はひどくなる一方。
「さあ、こっちだよ」
伸ばされた手を凝視する。この手をとらないといけないのに、なぜか嫌な自分がいた。
「……いや?」
「いいえ、嫌ではありません」
悲しい顔を見ると、なぜか口からは思ってもいない言葉がすらすらと飛び出てしまう。そして、身体は鈴音の意思と反して勝手に動いてしまう。
伊紗那の手を取ると、彼は嬉しそうに笑った。
——あの人は、いつも控えめに笑った。
誰かが耳元で囁いた。後ろを振り返るが、誰もいない。
(あの人って誰かしら)
知っているはずなのに名前も容姿も、なにも思い出せない。
鈴音は気のせいだ、と自分に言い聞かせた。重ねられた伊紗那の手は、緊張からかしっとりと汗ばんでいる。熱もあるのだろうか、先ほどよりも体温は高い。
——あの人の手はいつも暖かった。
また、誰かが囁く。
——あの人は、私に触れることを恐れていた。
何度も、何度も。悲壮を帯びた囁き声は繰り返す。
「鈴音さん、どうかしたの?」
くるりと丸い目を向けられて、鈴音ははっとした。違和感から背を向けるように微笑み「いいえ」と首を振る。
「なんでもございません」
「もしかして、疲れたとか?」
「心配してくださり、ありがとうございます。私は大丈夫ですよ」
「疲れたなら言ってね! これから時間はたくさんあるんだから、遠慮しなくていいよ!」
そう言って伊紗那は鈴音の手を引いて庭園を歩いていく。木や花、虫や鳥、庭園を彩るものをひとつひとつ丁寧に教えてくれた。
(優しいひと)
妖魔とは恐ろしい存在のはず。こんなに鈴音のことを第一に考えてくれる妖魔が婚約者でよかった、と思う。
それなのに〝違う〟と思ってしまう。
「次はおすすめの場所なんだ! 少し、目を閉じて」
「こうですか?」
瞼をおろすと伊紗那は「こっちだよ」と手を引いて歩いていく。
しばらくして、立ち止まった。伊紗那に目を開けるように言われて、そっと瞼を持ち上げる。視界一面に広がる湖を見て、思わず感嘆の吐息をもらす。凪いだ水面下には優雅に尾びれを揺らしながら鯉が泳いでおり、辺りでは色鮮やかな小鳥が水を飲んでいた。
「綺麗です」
「よかった。気に入ってくれて」
そっと伊紗那の手が頬に触れた。
それと同時に背筋に悪寒が走った。
——あの人はこんなことしない!!
誰かが大声で叫ぶと同時に、一瞬、不思議な感覚に襲われた。
伊紗那に重なるように美しい男性が現れた。男性的な武骨さに、女性的なたおやかさを兼ね備えたそのひとは、鈴音を見て、小さく笑う。まるで木漏れ日のように、控えめに。
伸ばされた手は鈴音の頬に触れる直前で止まり、彼はひどく落ち込んだ表情で己の手を見つめていた。触れたいのに触れることができないという風に。
「……旦那さま?」
なぜだろうか。そのひとを見ているとついその名前を口にしてしまう。
その言葉は伊紗那にとっては、不快なものだったのだろう。嬉しそうな顔が一転して不機嫌そうに歪められた。
「旦那さまは他人行儀だからやめてよ。伊紗那と呼んでっていったじゃない」
「……違う」
「鈴音さん? なにが違うの?」
「あなたは誰ですか? どうして私をここに連れてきたんですか……?」
その手から逃れようと鈴音が身体を後ろに引く。
「落ち着いて。僕は伊紗那だよ。君の婚約者の」
空いた距離を埋めるように伊紗那は鈴音を抱きしめた。
布越しに密着する身体。相手の心臓が嫌に大きく伝わってくる。それとは対照的に、鈴音の心臓は今にも凍り付いてしまいそうだ。
「だ、旦那さまはこうやって私を抱きしめません。あのひとは不器用で、私が傷付くことを恐れているから」
そうだった。旦那さま——真宵は不器用で怖がりだ。鈴音との距離の詰め方が分からず、たくさんの贈り物を渡し、自身の言動一つに鈴音を傷付けていないかいつも悩んでいた。
「……あなたは旦那さまじゃないっ!」
——そうよ。
と誰かが安心したように言った。その声に突き動かされたように、鈴音は目の前にある身体を力いっぱい突き飛ばした。




