10 手にはいらない
——真宵にとって、目の前に広がる光景は心から望んでいたものだったのだろうか。
穏やかに流れる時間に身を委ね、木々の歌に耳を澄ます。夏真っ盛りとはいえ、山奥にひっそりと佇む屋敷に吹く風は心地よい。
故郷とは離れた地で「玉藻の息子」として好奇の目に晒されず、里長として模範解答のような振る舞いも求められない。
それに、ここには鈴音がいる。楽しそうに生花を嗜む彼女は、目元を朱に染めて、口元に笑みを乗せていた。細い指先が花を大切に持ち上げ、慈しむ。時折、真宵を見ては恥ずかしそうに面を伏せて、また持ち上げて微笑む。
「どうかなさいましたか?」
いいや、と真宵は首を振った。
「楽しそうにしていると思っただけだ」
「花は好きなんです。父も母も私には花が似合うと言ってくださったので、幼い頃からよくとって来てくださいました」
鈴音が愛おしそうに花の茎を撫でた。
(……なんだ?)
真宵は自らの胸を抑えた。先ほどから胸の奥が微かに痛む。鈴音からの拒絶を恐れていた時とは違う痛みだ。
違和感を自覚するごとに、それは増幅していく。棘で刺すような疼きから心臓を鷲掴みにされたような激痛に。
思わず胸を着物の上から強く握ると鈴音が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか? 今、お水をお持ちいたします」
先程まで花を慈しんでいた手が真宵へと伸ばされる。その手が肩に触れる直前、嫌悪に似たなにかに突き動かされた真宵は叩き落とした。
「きゃッ!!」
鋭い音がふたりの間を駆け抜けた。
叩かれたことで真っ赤になった手を撫でながら鈴音は恐怖で怯えた顔で真宵を見上げた。
普段なら悲しいはずだ。二度と暴力を振るわないと誓ったのに振るってしまった。そのせいで彼女をまた傷付けてしまったのだから。
それなのに、
「触れるな」
身体が、心が拒絶する。
「ま、真宵さま?」
「馴れ馴れしく名を呼ぶな」
触れて欲しくはない。名前を呼んで欲しくもない。
姿形は同じでも、この女は鈴音ではないと痛む心が教えてくれた。
「なぜ、鈴音のふりをしている」
「す、鈴音です……! なにを言っているのですかっ!?」
泣きながら自分は鈴音だと言い、縋るようにもう一度伸ばされた手を真宵は鋭い眼差しで睨みつけた。
「〝触れるな〟と言ったはずだ」
その指先が袖に触れる直前、鈴音に化けたなにかの足元から火柱が巻き上った。
※
——なんで。
と桔梗は何度も同じ言葉を繰り返した。口を開き、呼吸をするたびに熱気は喉を通り、胃を内側から焼く。それでも〝なんで〟と聞かずにはいられなかった。
(なにを間違えたの? ちゃんと真似をしたのに! 矜持も捨てて、化け狸に協力してもらったのに……!)
隠神刑部狸とその子どもたちが施してくれた擬態は完璧だった。どこからどう見ても憎たらしい鷹司の小娘だ。
真宵を手に入れるためなら恥も外聞もかなぐり捨てて、小娘の喋り方や癖を、あの屋敷で見た通りに“鷹司鈴音”という娘を演じてみせた。
それなのに愛した男は鈴音ではないと言った。
(どうして、わたくしのなにがいけなかったの?!)
桔梗は床に這いつくばった体勢のまま、真宵に手を伸ばした。もしかしたら真宵が桔梗だとわかって、炎を消してくれるかもと一縷の希望を抱く。
けれど、真宵は桔梗なんぞに目もくれず、周囲を見渡して現状を把握しようとしていた。
(熱い、熱い、熱い——!!)
炎が全身を舐る。激痛が全身を支配する。表皮は破け、筋肉が収縮し、骨が折れる音が聞こえた。炙られ張り付いた喉を無理やり、こじ開けた。
「ま゛、よ……さ゛……」
言葉は音として喉を通らない。
それでも、真宵は気がついてくれるはず。幼い頃から近くで見てきたのだから。
けれど、
「……鈴音っ」
愛しい男狐は桔梗に一瞥もくれず、あの憎い小娘の名前を呼んでいた。
「ぁ、ん……で」
なんで気が付いてくれないのだろう。桔梗の目から涙が溢れる。炎によってすぐさま蒸発し、全身が焼けているのに涙は止まらない。
(なんで、気が付いてくれないの……?)
一目でいい。一目でいいから、自分を見て欲しかった。
黒くなる視界の中で唯一煌めく銀髪に、桔梗は手を伸ばし続けた。




