09 幻術使い
咄嗟に飛び退いた樒は、先ほどまで自分が立っていた場所に出現した亀裂を見て、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
妖狸が編み出した幻術空間。その大気を切り裂き、地面をも穿つ刃は、決してまぼろしではない。風の刃に気付かず、その場にいたのなら樒の身体は今頃、真っ二つに分かれていただろう。
(噂には聞いていたがこれほどまでとは)
妖狐とは違い鋭い爪もなければ、鬼のような剛腕も、妖狸は持たない。彼らが持つのは精緻を極めた幻術のみ。
その中でも〝隠神刑部狸〟の称号を引き継ぐ個体は、その幻術の精度と緻密さゆえに時に現実世界へ影響を与えることがあるとされる。
(さすがに私ひとりじゃ分が悪い)
かつて、ある者が人間相手に非道な実験を行った。目隠しした被験者の指先に刃物を押し当て、ごく軽い刺激と血が流れる音を聞かせ続けた。実際には傷をつけていないも関わらず、「体内の血液を三分の一を失った」と告げられた被験体は絶命したという。
またある盲目の被験者は熱した鉄の棒を足に押し当てられた。肌が少し赤みを帯びる程度でも、周囲は大火傷を負った者のように大袈裟に心配し、治療を施した。翌日、被験者の足には無惨な火傷の跡が浮かび上がっていた。
たかが幻術とはいえ、〝思い込み〟は神経を焼き、細胞を壊死させ、時には命を奪う毒となる。玉三郎が操る毒は幻術に耐性がある樒でも、一度かかれば抗うことは不可能だ。
「ほほう。やはり、お前が娘御に幻術をかけた者か」
「それがなにか?」
樒は隙を伺うために話に乗ることにした。玉三郎の次の一手を見極めるために距離をおくのは忘れない。
「いやいや、馬鹿にしているわけではない。我が息子らが手をこまねくほどの術師など、そうはおらんからのぅ」
玉三郎は顎に手を置くとじろじろと樒を観察しだした。酒のせいか熱っぽい視線は下品で不躾だ。違う意味で樒の背を汗が伝う。
「妖狐でも、家族になってしまえば仲間よ。どうじゃ? 我が娘と契らんかね?」
「あんたの娘と婚姻を結ぶぐらいなら、そこらへんにいる野良狸に愛を囁いた方がマシさ」
盃を交わし、子どもらを伴侶として番わせることで一族の規模を広めていくのが妖狸の常套手段だ。一度、縁を結べば最後。奴らは裏切りを決して許さず、家族のために尽くすことを強要してくる。
樒が生涯仕える主人は真宵ただひとりと心に定めている。彼を裏切ってまで、妖狸の嫁などごめん被る。
樒が鼻で一蹴すれば、玉三郎は肉のついた手で顔を覆い、しくしくと泣くふりをした。父よりも歳上の大妖の情けない姿に、樒は白んだ目を向けた。
「儂ら、愛らしい妖狸と野良狸を同列にするなど、目が腐っておる」
「どこが可愛らしいだ。老耄肥満狸」
「なんとも口が悪い。儂らは愛らしいじゃろう? 見よ! このぷりてぃなぼでぃを!」
くねくねと身体を動かしているが水風船が揺れているようにしか見えない。樒は汚物を見るかのような目を向けた。
「あの娘御も無愛想な妖狐なんぞより、ぷりてぃできゅうとな伊紗那が婿になったほうが嬉しかろう。聞いておるぞ。なんともまあ、人間の娘相手に非情な行為ができるものだな」
「本人の意思関係なく連れ去るほうがどうかしていると思うけどね」
「それは儂が悪くてのう」
一歩、玉三郎は歩を進めた。
「伊紗那はもっと早くに救いたいと叫んでおったが、人間の娘を嫁にしても妖狸に利は一つもない。奴ら人間は集団では面倒だが、個々を見ればなんの力も持たぬ弱者! 可愛い末っ子には、ふさわしい嫁を与えてやりたいと思うのが親心というもの」
三歩、樒が下がると今度は三歩近づいてきた。樒に悟られないようにか、その足どりはゆっくりで、玉三郎は喋り続ける。
「しかし、偵察に向かわせた者が興味深いことを言っていてな。なんと! あの玉藻の息子が人間の娘に物を貢いでいるという!」
また玉三郎が近づくので、樒はその分、離れて一定の距離を保つ。
(おおよそ、五間(約9メートル)。いや、もう少し狭めかな)
己と玉三郎の距離を測り、思考する。玉三郎はどうにか樒へ近づこうと躍起になっているように見える。このことから考えつくのは現実に作用する幻術は、使える範囲が非常に狭い。
隠神刑部狸とはいえ幻術しか戦う術を持たない妖狸。幻覚に高い耐性を持つ樒相手だから、壁を作り退路を塞ぐこともできないため、物理的に距離を埋めるしかないのだろう。
距離を詰められれば、樒の負けは確定だ。
だから、決して近づかせるわけにはいかない。
かといって、樒に玉三郎を討つ術もない。自身と同様に高い耐性を持つ玉三郎には幻覚は効かないし、牙や爪は鋭いが奴の懐に入り込んだ瞬間、幻覚に殺される。
「ちょこまかと小賢しい」
頭に血が上ったのか、酒のせいか。顔を真っ赤にしながら玉三郎は呻き声をもらした。肥えた手が樒へ伸ばされ、
「——ぎゃ!!」
突如、地面へ伏せた。
「——甘いですね。これがかの〝隠神刑部狸〟だなんて、がっかりです」
仰々しいため息と共に姿を現した幻弥は冷たい目で足蹴にした玉三郎を見下ろした。樒が距離をとるように言うとすぐさま飛び退く。その際に玉三郎の手から一升枡を取り上げるのを忘れない。
「妖狐がもう一匹?! いつから……!!」
「あんたたちを真似して、私たちも協力したんだよ」
どれほど完璧に化けても隠神刑部狸の目は誤魔化すことはできないと踏んだふたりは、幻弥の存在を隠すことに力を入れた。
幻術の連携は妖狸の専売特許で、他は使えないと思い込んでいたが杞憂で終わった。妖狐の里で一位二位を争う幻術使いで、それも親友同士だからだろうか。
「くそう! 返せっ!!」
怒りに吠える玉三郎を中心に無数のかまいたちが空を切り裂き、炎が燃え広がり、稲妻が走る。
「樒くん! 閉じ込めましょう!」
幻弥の意図を察した樒は妖力を操作する。二つの異なる妖力は混じり合い、膨らみ、やがて世界を歪ませた。歪む世界は玉三郎を閉じ込めるように覆っていく。遮断され、かまいたちも炎も稲妻もふたりの元には届かない。
しばらくして、世界は裏返り、玉三郎の姿は消えていた。
※
「術師がふたりでも効果は凄まじいですね」
長い廊下を走りながら幻弥が呟く。
「少しの時間でも隠神刑部狸を閉じ込めれたのはすごいことですよ」
「隠神刑部狸一匹ならもうしばらくあの空間を維持できるが、他の化け狸が駆けつけたらすぐさま解除させられるだろう。私たちが逃げ切るまで戻ってこないことを祈るしかないね」
「あれ、花嫁御寮は助けなくていいんですか?」
「今は逃げ切るのが最善の選択だ」
悔しそうに眉間を引き絞りながら樒は口を開く。
「イサナという子どもが鈴音ちゃんを気に入っているうちは、奴らは鈴音ちゃんに害を与えるつもりはない。他の化け狸なら私たちだけでどうにかできるが、隠神刑部狸が現れたら私たちは勝てない」
「なら、真宵さまが脱出してから、増援を率いて攻め入るしかないですね」
「増援もすぐ見込めるかどうか怪しいけど」
妖狐の里の位置を鬼族である蘭丸に伝えることはできない。状況報告のため、今住む屋敷に定期的に訪れる妖狐に事情を説明し、その妖狐が里へ事態を伝えてくれればいいのだが、それがいつになるか樒も分からない。
予定では、もうじき月彦か梅蕾あたりが任務を終わらせて報告に訪れる予定だが、任務が長引く場合がある。
「鈴音ちゃんを安全に取り戻すためには、まずはこちらの体制を整えないと」
「鬼にも協力させませんか? こうなったのは、彼らがきちんと仕事をしなかったからですよね」
「鬼族は出払っていて、それは無理だ。それに接近戦が得意な鬼は犬神刑部狸と相性が悪すぎる。奴に対抗できるのは真宵しかいない」
それか玉藻か。
けれど、いくら息子の想い人とはいえ、彼女は重い腰をあげてまでこようとはしないはずだ。
「真宵、それは鈴音ちゃんじゃない」
樒は幻弥が抱える一升枡を見つめた。その小さな箱庭で、幸せそうにゆるんだ顔をする主人を——。
「……いい加減、気付いてくれ!」




