16 嬉しいという気持ち
昔から血の臭いは嫌いだった。
妖狐としての血が騒ぐ反面、煙々羅としての血がそれを嫌忌する。
(血の臭いは、自分が分からなくなる)
蛇口から滔々と流れおちる水に手を浸し、揉むように洗う。冷たい水は身を切るような痛みを与えるが一刻も早く、この臭いから解放されたい一心で洗い続ける。
臭いが薄れた頃、背後に気配を感じた。振り返ることなく、樒は口を開く。
「言われた通りに処分しといたよ」
静かにただ淡々と。命令を遂行したことだけを伝えた。
「ご苦労。面倒ごとを任せたな」
「別にいいさ。嫌いだったし。ああ、そうだ。鈴音ちゃんの記憶を変えておくよ。最初から使用人は夕霧ひとりだと」
水を止めて、濡れた手を拭く。乾いた手からは石鹸の匂いしかしない。
やっと血の臭いから解放された、と樒は肩の力を抜いて振り返った。
「でも、あれでよかったのかい?」
「問題ない」
「それなら良かった」
そう言って、樒は窓の外を見た。仄かに白みだした空からもうじき朝が訪れることを悟ると「君は寝てきなよ」と真宵に話しかけた。昼間は討伐依頼をこなし、夜は鈴音との逢瀬を楽しむのは、いくら妖狐とはいえ体力的に厳しいはずだ。
「不要だ」
樒の優しさは、すげなく一蹴された。
「いいから。ほら、早く眠りにいきなよ。それとも、私が眠らせてあげようか?」
「……なにかあれば起こせ」
「はいはい。分かったよ」
この場を去ろうとする真宵の背に、樒は「そうだ」と声をかける。
「昼餉は鈴音ちゃんと一緒に食べたらどうだい?」
鈴音の名前に真宵は歩を止める。少し固まった後、なにも言わずに自室へと戻っていった。
その背中に樒は笑いかけた。なんとも分かりやすい主人である、と。
※
暖かな日差しが瞼越しに瞳を焼く。その眩さに鈴音は寝返りをうち、そっと瞼を持ち上げた。
「……何時?」
欠伸をしつつ、文机の上に置いてある時計を見た。
「え、もうこんな時間?!」
長針と短針が指す数字を読むと急いで起き上がり、寝巻きから着物へ着替えた。
寝る前に目覚ましの設定をしたはずなのに、また真宵が出ていく際に気を利かせて消していったに違いない。彼自身は優しさのつもりでも、居候同然の身である鈴音は起床が遅くなるたびに心臓が破裂しそうだ。
現に今も、夕霧は怒らないと分かっていても落ち着かない。
(十一時なら、今向かえば昼餉の準備はできるはず)
着替えを終えると鏡台の前へ座り、蝶の櫛で髪を梳く。椿油のおかげで櫛通りも滑らかで、いつも以上に早く髪を整えれた。艶が増した髪をまとめ上げて、椿を模った鼈甲の簪を差した。
(……見違えるようだわ)
鏡に映る自分をじっと見つめた。貧相だった身体は肉がついて、頬にも丸みができた。血色がよくなったことでいつもと同じ表情なのに、華やかに見えた。
(旦那さまと夕霧ねえさまのおかげね)
鏡の中に映る自分は淡い緑色に鮮やかな朝顔が咲く着物を着ていた。それは真宵から贈られた品のひとつだ。上質な絹で織られた着物は、自分には勿体無いと最初は断ろうとした。
けれど、断ろうとすると途端に真宵は叱責を恐る幼子のような目をした。鈴音の機嫌を損ねないように、なにが悪かったのか悩み始める。その目を見るたびに鈴音は品物を受け取った。
大切にしまい込み、桜柄の着物のように有事の際だけ着用しようと思っても真宵が悩むのでこうして日常から着ている。そうすることで真宵が少し嬉しそうにするから。
(私は貰ってばかりだわ)
座敷を見渡すと真宵からの贈り物の数々が置いてある。硝子で作られた行灯に陶器製の花瓶。名を馳せた画匠が描いたという山水画——少し前の殺風景だった部屋が嘘のように華やいだ。
(なにかお礼をしたい)
とはいえ、自分にできることはなにもない。真宵が喜ぶようなことも分からない。
それでも、少しでも貰った恩を返したい。なにができるのだろうか、と悩みながら台所へと向かった。
「あら、もう少し寝ていてもよかったのよ」
草履に履き替えて台所に顔を出すと籠を抱えた夕霧が笑顔で出迎えてくれた。
「すみませんっ。寝坊してしまいました」
「どうせ旦那さまが目覚ましを消したんでしょう? 気にしなくてもいいわ」
からからと笑いながら夕霧は籠を台に置き、中身を並べ始める。大根や人参、牛蒡、ほうれん草。洗い終わった後のようで泥が落ちている。
「今日はなにを作りますか?」
割烹着を着込みながら鈴音は首を捻る。材料から献立の内容は分かるが、勝手をして迷惑をかけるわけにはいかない。
夕霧は「そうね」と少し悩ましげに唸ると、突如悪戯めいた笑みを浮かべた。
「今日は鈴音ちゃんが一人で作ってみて」
「え、私一人でですか?」
「私は少し用事ができたから出掛けてくるわ。ご飯は戻ってきてから食べるから二人分、作って置いてね。よろしくね」
言うや否や、夕霧は颯爽と立ち去った。
「私、一人で……?」
鈴音は台に並ぶ野菜を見下ろした。夕霧たちが不在の中、食事は自分で作っていたのでできる。けれど、一人で作ったものを夕霧に食べて貰ったことはない。美味しいものを作れるのだろうか、と心配になる。
「できるわ。大丈夫、ずっと教えてもらったのだから」
自分に喝をいれると、まずはお米を研ぐところから始めた。
※
調理を終えて、道具を洗い終わったところで夕霧がひょこっと顔を出した。
「鈴音ちゃん、申し訳ないのだけれど、私の分のご飯も持っていってくれるかしら?」
口調は穏やかだが、どことなく張り詰めた空気を纏った夕霧に、鈴音は不思議に思いながらも顎をひく。
「分かりました。すぐ食べられますか?」
ええ、と頷くとすぐさまどこかへ駆けて行った。
(なにかあったのかしら?)
ここのところ、夕霧は多忙だ。朝に出かけたと思えば、昼頃に帰ってくることもあるし、夕方まで帰ってこないこともある。かと思えば、深夜遅くに出かけることもあった。
(でも、いつものような変な感じはしなかったわ)
本人は隠しているつもりでも、そういう時の夕霧が纏う空気は妙に刺々しい。肌を刺すような重たい空気は今はなかったため、妖狐としての仕事ではないのだろう。
(お忙しいのに迷惑ばかりかけてしまう)
ため息をつくと料理を持った食器を膳に並べる。夕霧の食べる量は鈴音の倍に近い。重量があるため、一度で持ち運ぶと落としてしまう恐れがある。二回に分けて座敷へ運んだ。
座布団の上で正座しながら夕霧の到着を待っていると妙なざわめきが廊下の方向から聞こえた。なにやら小声で喧嘩をしているような、それでいて説得しているような。様子を見に、腰を上げた時、襖が開かれた。
「旦那さま?」
まさかの人物に鈴音は両目を丸くさせた。この時間に真宵が訪れることはないため、どうしたのだろう、と不安になる。真宵の背後に周り、その両肩を掴んでいる夕霧を見れば、彼女はどことなく怒りを感じさせる笑顔を浮かべていた。
「旦那さまも一緒に食べたいって言うから連れてきたの。ね、旦那さま?」
凄みのある声から怒っているのは確かなようだ。
「あ、あの、では、少ないとは思いますがこれをどうぞ」
鈴音は自分の前に置かれていた膳を押した。
「まだ口もつけていませんし、足りなければ、すぐに作ってきます」
「私、出かけた時に食事を済ましてきたの。私の分を旦那さまに食べてもらうから大丈夫よ。ね、旦那さま?」
にこにこと笑顔で夕霧が背中を押すが、真宵は梃子で動こうとしない。無言で、視線をそらしたままの真宵に腹を立てたのか夕霧はそっと声を落とした。
「せっかく、鈴音ちゃんが一人で作ったのに旦那さまは食べたくないらしいわ」
頬に手を当てると深く息をつく夕霧を、真宵は「誰が」と振り返った。
「お前は適当なことを言うな。黙っていろ」
「どう接していいのか分からなくて物を」
夕霧の言葉を遮るように鋭い舌打ちが響く。
「食べればいいんだろう。離せ」
「食べたいの間違いでは? そんな態度をとるなら食べる必要ございません」
「食べる。から、離せ」
「……まあ、及第点としましょうか」
夕霧が手を離すと真宵は空いている席に腰を下ろした。不貞腐れたように箸を持つので、またしても夕霧から嫌味が飛ぶ。
「作ってもらっておいて、ひどい態度」
「いつまでいるつもりだ」
「従者として、食べ終わるまでですけど?」
「お前は飯を済ませたのだろう。ならば、仕事のひとつやふたつ、片付けてこい」
ぎろりと睨め付けられても夕霧は飄々とした態度を崩さない。それどころか、新しい玩具を見つけたように真宵をからかうので、鈴音は肝が冷えた。
鈴音が顔を青白くさせたのが見えたのだろう。真宵は視線を彷徨わせると先ほどよりも張りのない声音で「出ていけ」と命じた。
「はいはい。私がいたら邪魔ですもんね」
仕方ない、と言いたげに肩を持ち上げると夕霧は楚々《そそ》とした足取りで出ていった。
「……俺が怒っているのは、お前ではなく樒に向かってだ」
妙な空気の中、どうすればいいのか分からず、鈴音が固まっていると真宵は様子を伺うように一瞥する。
一瞬、交差した青玉の瞳は、優しい光を宿していた。前までとは違い、鈴音を思いやる眼差し。それに気がついた鈴音は気恥ずかしくなって俯いた。
「……一人の方が、いいのか」
「え、いえ、そんなことは。一人よりも誰かと食べる方が楽しいです」
「もし、気に入らないのなら言え。すぐ出ていく」
「旦那さまと一緒は初めてで、緊張しているだけなので」
自分はうまく喋れているだろうか。夜に会う時のように。
気のせいか頬が熱を帯びている気がする。真宵に気づかれる前に会話の流れを変えようと鈴音は膳を見つめた。お昼の献立は白米に大根と卵の味噌汁。それと金平牛蒡とほうれん草のおひたし。
「ここに来てから夕霧ねえさまから料理を教わっていて、その、旦那さまのお口に合うかどうか分からないのですが……」
教え通りに作った。味見をして美味しいのも確認済み。
けれど、真宵が食べると思うと不安で仕方がない。一族の長である彼は日頃から美味しいものをたくさん食べてきたはずだ。鈴音の料理が口に合うとは思えない。
鈴音の心配をよそに、真宵は小鉢に盛られた金平牛蒡に箸を伸ばした。味わうようにゆっくりと咀嚼し、次は味噌汁を口に含む。
「……うまい」
口元に微かな笑みを乗せて、真宵は味噌汁を見つめた。
「……前に料理をしていたところを見た」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す。真宵が自ら話を振ってくれたのは初めてだ。
「楽しそうにしていたのを、よく覚えている」
真宵は言葉を区切る。食器を膳に戻すと姿勢を正した。
「また、作ってはくれないだろうか」
「えっと。ご迷惑では?」
「迷惑ではない。俺が、食べ、たいから、言っている」
——食べたい。
と、確かに真宵が言った。鈴音の手料理をうまいと言って。
「……あっ」
あまりの嬉しさに涙が溢れ出てくる。
鈴音が袖で目元を押さえて俯くと、真宵が焦る気配が伝わった。
「な、なぜ、泣く。俺はまたなにか間違えたのか?!」
「いいえ、違うのです。そう言って貰えたことが、そう思って貰えたことが嬉しくて」
動揺する真宵を落ち着かせるように、「喜んで」と鈴音は微笑んだ。




