13 恐怖よりも先に
世界は夜のしじまに満たされた。
真宵は硬い面持ちで闇に沈んだ廊下を歩く。足音ひとつ立てぬように。息を潜めて、気配を消して。
そして、ある部屋の前で足を止めると深く息を吸い込んだ。覚悟を決めて、襖を開ける。部屋の住人は夢の世界へ旅立っているようで、小さな寝息をたてていた。
その姿を横目に見ながら、一番離れた壁に背を預けて座り込む。前に近くに座った時、髪を掴まれたせいで朝を迎えることになった。あのような失態は二度と御免である。
(なぜ、俺はまたここに来る)
何度目かも分からない自問自答を繰り返しながら、真宵は立膝の上に腕を置き、部屋の中央で眠る少女を眺めた。
あの窮屈な面は今は外されており、可愛らしい素顔がさらけ出されている。薄い瞼に隠された瞳に、もう一度自分を映してもらいたいと思う。それでいて、見てほしくもないとも思う。
(いつも通りにすればいい)
前までは、この部屋を訪れるのは伽の時だけだった。一刻でも早く子どもを作るため、昼夜問わず、暇ができたら訪れた。
(いつも通り、あの娘を——)
——組み敷けばいいのに、それができない。
いや、できる。人間の娘は力がない。抵抗されても簡単にねじ伏せることはできるし、樒のようにはいかないが真宵も幻術が使える。耐性のない人間ならば、思考を奪うこともできる。
それなのに、なぜかできない。
(俺は、恐ろしいのか?)
力を込めていないはずなのに、伽を重ねる度に鈴音の身体は痣に覆われていた。途中で気がつき、加減をしようとしても痣は薄れるだけでなくならない。
子狐ですら、怪我を負わないであろう力でも怪我を負う。その脆さに直面し、触れることが恐ろしくなった。
「——あの」
闇を裂くように発せられた言葉に、真宵は驚いた。
この部屋に足を踏み入れた時、鈴音は確かに眠っていたはずだ。寝息、心音、空気越しに伝わる体温は確かに眠っていた。たかが人間の小娘が、狸寝入りで真宵を騙せるわけがない。
(樒か?)
内心で舌を打つ。いつの間にか樒の十八番である幻術をかけられて、鈴音が眠っているように見せられていたらしい。真宵は立ち上がると足早にこの場を去ろうとした。また夜伽だと思われて着物を脱がれるよりも早く、理由を口にする前に——。
けれど、
「あのっ」
いつの間にか隣にいた鈴音が真宵の袖を掴んでいたため、叶わない。
このまま袖を振うこともできたが、拍子で鈴音が転倒してしまうかもしれないと思うと動けない。人形のように固まる真宵を、鈴音は恐怖で濡れた瞳で見上げ——俯いた。長い睫毛が紅玉を隠してしまう。もったいない、と思った。
「その、お話がしたくて……。このような格好で、申し訳ございません」
真宵は推し黙る。なにか言わなければならないが、唇は縫い合わされたように動かない。
そんな真宵の心情を知らない鈴音は俯いたまま、「これを」と桐箱を差し出した。淡い白色の木肌に、赤い組紐は見覚えがある。
(妖狐《俺》に直されたものはいらないのか)
いくら大切に扱っていたとはいえ、妖狐の手が触れたものは使いたくはないのだろう。真宵は感情を抑えるべく奥歯を噛み締めた。
「……不要なら捨てろ」
やっと出た言葉は、思ってもいないもので真宵は渋面を作る。
いつまで待っても鈴音はなにも言わず、袖を握りしめているので恐る恐る視線を落とし——ぎょっとした。
「な、なぜ、泣く。気に入らないのか?」
紅涙は白皙の頬を伝い、細い顎先からこぼれ落ちる。鈴音は慌てて袖で目元を押さえた。
「違うのです」
涙で震えた声音が夜陰を震わせた。
「嬉しくて」
「……嬉しい?」
真宵は耳を疑った。
「妖狐《俺》が、触ったことが嫌ではなく?」
俯いたまま、鈴音は首を振る。
「これは、宝物なんです。お母さまがくださった、私の宝物。それが、また元通りになるだなんて……。ありがとうございます、大切にします」
桐箱をぎゅっと胸に抱きしめて、鈴音は微笑んだ。
涙でうるむ紅瞳に射抜かれ、真宵は言い淀む。視線を横にそらすと鈴音は「あっ」と声を上げた。
「す、すみません。眼を隠すのを忘れていました」
そう言って、急いで面を着けようとするので真宵は疑問を抱く。
「なぜ隠す」
「……気持ち悪い、からです」
「気持ち悪い? どこが」
ぽかん、と鈴音は眼を見開き、口を大きく開けた。間抜けな表情のはずが、鈴音がするとなぜか可愛らしいものに見える。直視できなくて、真宵はさりげなく視線を横にずらした。
「……俺に、素顔を見せたくはないと思っていた」
樒や人間の医者には簡単に見せるくせに、真宵には頑なに隠し続けるのは真宵が嫌いだからとばかり思っていた。
「人間に、この色の瞳は生まれません。父も母も、周りは全員真っ黒な瞳です」
言葉を選んでいるのか鈴音は黙る。
しばらくして、「紛い物だから」と消え入りそうな声で喋り出した。
「華族だけど、私は紛い物です。そんな私を知ったら、きっと旦那さまは後悔するとそう思って」
「お前は俺の瞳をどう思う?」
「え、その、とても綺麗だと思います」
「妖狐にとって、瞳の色などどうでもいい」
不思議そうに鈴音は瞬きを繰り返す。
「どうでも?」
「ああ。赤い眼のやつもいるし、緑や紫の眼を持つやつもいる。毛色も銀や金、赤茶色と様々だ。だから、瞳が赤いからというだけで〝紛い物〟と言われても意味がわからん」
「……普通、ということでしょうか」
「お前の言う普通がなにを指すのかもわからん。面を着けるつけないかは自由だが、俺はお前の眼の色がなんであれ少なくとも後悔はしないだろう」
言い切った後に後悔する。また、強い言葉を使ってしまった。
どう弁明すべきか悩んでいると「どうでも良かったのですね」と鈴音は小さく笑った。その声音に恐怖も嫌悪もこもっていないことに真宵は内心で胸を撫で下ろす。
「自由にしろ。面を着けたければそのままでいい。外したければ、それでもいい」
そう言い残して部屋を出て行こうとするが、
「……なぜ、止める」
鈴音が袖を握りしめたままなので叶わない。倒れない程度に袖を引っ張るが、細い指先は袖から離れない。かといって、その身体を押し除けることができなくて真宵は困り果てた。
「お前は俺が恐ろしいのだろう。離せ」
「あの、ならばどうして、ここを訪ねてくるのでしょうか」
その問いかけに真宵は困惑する。自分でもどうしてここに来るのか分からないのに、問われて答えるなんて出来るわけがない。
「もう二度と来ることはない。お前が望むのならば、顔も見せない」
突き放すように言葉を重ねる。胸の内がじくじくと痛むが、気のせいだと自分に言い聞かせた。
「もし、もしもです。私が〝来て欲しい〟と望めば、旦那さまは来てくださいますか?」
「……は?」
「お話がしたいのです。色々と。私たちはお互いを知らなさすぎるから」
「お前は、俺が恐ろしいはずだ」
真宵は鈴音を見下ろした。視線を合わせると紅玉の瞳には確かに恐怖が宿る。揺れる瞳が、鈴音が抱く真宵への恐怖を浮き彫りにしている。
ややあって、「はい」と顎を引く鈴音に、真宵は頭を殴られたような衝撃を覚えた。
「けれど、なぜでしょうか。今の旦那さまは恐ろしいとは思えないのです」
そう言って、鈴音は真宵に向かって微笑んだ。




