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狐が来たりて鈴を鳴らす  作者: 荻原もも
水無月の頃

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12 還ってきた


「……痛い」


 思わず、口から出た言葉に鈴音本人が驚いた。誰かに聞かれてはいないだろうか、と耳を澄ます。夕霧は着替えを取りに向かってから、まだ戻ってはきていないようで、聞こえるのは外に備え付けられたかまどからまきが割れる音だけ。鈴音はほっと胸を撫で下ろした。


(怪我、しているのわからなかった)


 湯船に浸かりながら手が濡れないように高く持ち上げる。何時間も夢中で土や石を掘りおこしていたため、右の中指の爪が捲れかけていた。石か葉で切ったのかうっすらと傷もある。

 あの時は櫛を探すのに夢中で、痛みなど微塵も感じなかったのに自覚した今はじくじくと痛んで仕方がない。


(夕霧ねえさまには、また迷惑をかけちゃった)


 鴉に襲われて負った傷もまだ癒えていないのに、更に新しい傷を作ってしまった。夕霧は多忙なのに手当てや入浴の介助もしてもらう自分が情けない。

 へりに背を預けて、天井を見つめる。櫛が見つからないからか、情けないからか、涙が溢れ出てきそうだ。


(どうしたら、私は変われるのかしら)


 このままではいけないと分かっているのに、変わることができない。歯痒さから唇を噛んだ時、脱衣所から物音がした。


「鈴音ちゃん、お着物を持ってきたから、ここに置いておくわね」

「あ、はい! すみません、ありがとうございます」

「ゆっくり休んでらっしゃいな。近くにいるから、なにかあったら呼んでちょうだい」


 はい、と鈴音は返事をしてから湯船から立ち上がった。夕霧のおかげでじゅうぶんに休息はとれた。

 脱衣所へ移動して、手拭いで水気を拭き取る。指先が痛むため、いつもよりたっぷり時間をかけて拭き終えると着替えに手を伸ばそうとした。


(そういえば、着替えって?)


 鈴音が持参した着物は、着の身着以外は桔梗の手によって細やかな雪に変えられてしまった。片付けるのを忘れて、櫛探しをしていたのであの部屋の惨状は夕霧に見られている恐れがある。

 どう言い訳をするか考えながら籠を覗き込む。竹を編んで作られた籠の中には藍色の着物と、その上にちょこんと小さな木の箱が乗っていた。木の箱を持ち上げると一斤いっきん(約600グラム)にも満たないであろう重さが手のひらに伝わった。


「これって」


 こてん、と首を傾げる。中身の予想ができない。

 次にこの下に置いてある着物を広げた。男性もののようでとても大きい。手に伝わる感触から質もよく、高価な代物であることがうかがえる。


(……もしかして、旦那さまの?)


 夕霧も長身の持ち主だがこの着物は大きすぎるし、桔梗が好むのは洋風の衣裳で、絶対に鈴音には貸してくれないに違いない。ならば、消去法で考えられるのは真宵しかいない。

 顔を青褪めた鈴音は着物を急いで畳み込み、籠の中へ戻した。その上に木の箱も置いて、触る前にできるかぎり近づけてから距離をとる。


「鈴音ちゃん、どうかした?」


 なかなか出てこない鈴音を心配したのか、扉越しに夕霧が問うてくる。


「着替えるの難しそう?」

「あ、いえ、それは大丈夫なのですが」


 言葉を切ると着物と木の箱を見つめる。これ以外に着替えは見当たらない。


「あの、着替えってどこにあるのでしょうか」

「いつもの籠に置いてないかしら?」

「……これって、旦那さまの」


 勝手に着ていいのだろうか。鈴音が困っていると夕霧は「大丈夫」と優しい声を発した。


「あまり使っていない着物ものだから、鈴音ちゃんが使って」


 やはり、夕霧は鈴音の部屋を見たようだ。


(片付けるのを忘れていた私のせいだわ)


 とはいえ、着物は一着しか残っていないので遅かれ早かれ事態は知られていただろう。夕霧が口をつぐんでいるのは、きっと鈴音が黙っているから。その気持ちを汲んでくれたに違いない。


「着られそう?」


 袖に腕を通すと予想していた通り、ぶかぶかだ。袖口から指先すら見えない。たけも長いため、引きずってしまいそうだ。


「着れたけれど、私には少し大きいようです」


 どうしようか、と悩んでいると夕霧が入ってきた。慣れた手付きで肩上げをしてくれる。


「これでよし。ささっと縫ったから、違和感あると思うのだけれど」

「いいえ、動きやすくなりました。ありがとうございます」

「さあ、こちらに」


 襟を正して、帯を締めると傷だらけの手をいたわるように重ねて、鈴音を椅子に座らせた。湯気を吸い込み、重くなった包帯を解き、当て布を剥がす。剥がす際に傷口に張り付いて痛みを感じるが、すぐに痛みは和らいだ。


(前に手当てをしてくれた時も痛くはなかった。夕霧ねえさまの力なのかしら)


 剥がれかけた爪や薄く開いた傷口に軟膏を塗り込むと、当て布を貼り、包帯を巻く。手当てが一通り終わったところで、夕霧は籠の中に置かれたままの木の箱を見つめた。


「それ、開けないの?」

「開けていいものか分からなくて」

「旦那さまから鈴音ちゃんに贈り物があるって預かったの」


 だから大丈夫、と微笑む夕霧とは違い、鈴音は〝贈り物〟という言葉に固まった。


「……旦那さまが?」


 聞き間違いも視野に入れて問えば、夕霧は楽しげに笑みを深めた。


「ええ、留守にしていたのは《《これ》》を渡すためだったそうよ」

「なぜ、私に」


 真宵が自分に贈り物をするなど、理由に心当たりがない。本当は夕霧や桔梗に渡すものなのでは、と不安になっていると夕霧は「開けてみて」と言った。

 勧められるがまま、恐る恐る組紐を解いて、蓋を開ける。中にあるのは——、


「…………これって」


 鈴音は大きく目を開いた。

 夜の世界を思わせる黒漆の上を、一匹の蝶が優雅に飛んでいる。角度を変えるたびに螺鈿らでんが七色の光を反射させた。


「なんで、だって、これは」


 桔梗に壊れされたはずの、鈴音の宝物。

 それが壊される前の姿のまま、箱の中にしまわれている。

 じわり、とまぶたが熱を孕む。熱はどんどん大きくなり、涙となって、頬を滑り落ちた。顎先から太ももへ、何度も涙の雨が降り注ぐ。


 嬉しさのあまり、鈴音は櫛を胸に泣き続けた。

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