09 主人の変化
「ご苦労」
短く労うと三毛猫は、そっぽを向き、その場を足早に去っていく。
その後ろ姿を見送ってから真宵は手紙の封を切り、中から便箋を取り出した。いつもの様に便箋に羅列された文章を読んでいたが、なぜか文字が頭にすっと入ってこない。書かれている言葉の意味や単語は理解できるのに、思い返すことも考えることもできない。
今までにない状況に舌を打ち、頭を抱えていると人間の女に変化している樒が歩き寄ってきた。
「おはよう、どうしたんだい。頭でも痛いのかい?」
「違う。問題ない」
ふうん、と鼻を鳴らすと樒は真宵の手にある便箋を覗き込む。そこに書かれた文章を読んでから、小さく頷いた。
「これなら私が代わりに赴こう」
「いや、いい」
すぐさま真宵が断ると、樒は不服そうに目を細めた。
「あの後、緋花や英たちと相談したんだ。君は全てを背負おうとするから、私たちが補佐できるところはしよう、とね」
「勝手なことを」
「鬼族や雪妖の一族たちは協力し合っているよ。長だけが討伐に赴いているなんて、妖狐ぐらいだ」
「それで問題ない」
「大抵のことはね。君は強いし頭もいい。けれど、妖狸や天狗のようにこれから先、厄介な奴らを相手にする度に里へ助太刀を頼むつもりかい? いい機会だし、体制を一度見直そうよ」
樒の言うことも一理ある。人間と同盟を結んだ噂は日が経つにつれ、全土にまで広がっている。それに比例して、反感を持つ妖魔が増えているのも事実。これから先、天狗のような大妖が現れないとは限らない。
けれど、
(面倒だな)
また里にいた頃のように姦しい妖狐たちに囲まれるのは疲れる。ただでさえ、ここには小うるさい樒とやかましい桔梗がいるのだから、これ以上、増えるのはごめん被りたい。
(鈴音という娘のように静かならいいのだが)
いや、とすぐさま首を振る。あの娘は静かすぎる。もう少し、自我を出して、自分の意思を伝えればいいものを。
「今日の君は一段と変だな。やはり、頭が痛いのかい?」
黙りこくる真宵を、樒は不思議そうに見つめ、首を傾げた。艶やかな黒髪がさらりと肩から流れおちる。
無意識に、真宵は黒髪を一房すくった。指で揉むように黒髪に触れるが幻のようで、質感も温度も伝わってこない。
「え、気持ち悪いんだけど」
心の奥底からと思わしき本心を口にした樒は、真宵の手を払い除けた。
「……櫛」
思わず、口からこぼれ落ちた言葉に真宵ははっと口元を覆う。
「櫛? 髪を梳かすやつかい?」
どう誤魔化そうか悩んでいたが、樒は確かにその単語を拾った。真宵の口から〝櫛〟という単語がでてきたことを意外そうな顔をする。
誤魔化しても無駄だ、と真宵は思った。
「お前、使っていない櫛はあるか?」
「持ってないよ。私、髪を結わないし。なに、壊れたの?」
「いや、壊れてはいない」
自分のは、と心の中で付け加える。壊れたのは鈴音の櫛だ。自分のを渡そうとも考えたが、妖魔の使い古しなど嫌がるに違いない。
それならば、樒の私物ならば鈴音も嫌がらず受け取るだろうと思った。
「……もしかして、鈴音ちゃんのかい?」
無言で唇と尖らせると樒は「はい」と受け取ったようで、にんまりと、例え難い不気味な笑みを浮かべた。なぜだろうか、とてつもなく癪に障る。
「鈴音ちゃん、真宵には言ったんだ」
笑みを曇らせると、どこか寂しそうに呟く。
「私が聞いても教えてくれなかったのに」
「……別に」
樒が教えてもらっていないことを自分が知っている事実に、なぜか心が軽くなる。
「桔梗が壊したのは知っていたんだけど、本人が教えてくれなくてさ。提案できなかったんだ」
助かったと笑う樒に対して、真宵は固まった。ややあって「なぜ」と問いかけると、樒は眉間に皺を寄せる。
「あれは鈴音ちゃんを嫌っているからね。……嫌がらせをしている話を君にしたはずだけど」
覚えてないのかい? と言いたげな視線を送られて真宵は目を逸らした。そんな話をした気もするし、しなかった気もする。興味がなかったので覚えていない。
「君ねぇ。婚約者なんだから、少しは覚えておきなよ。一応、私は逐一報告しているんだから」
「これからは、聞く」
「ふぅん。あの真宵が殊勝な心がけだ。いい変化だと思うよ」
「お前は俺を馬鹿にしなければ話せないのか」
別に、と言いながら樒は手紙を奪い取った。
取り返そうと手を伸ばす真宵から素早く距離をとると、指先で挟んだ手紙をひらひらと動かす。
「とりあえず、これは私が行くから。真宵は鈴音ちゃんを誘って街にでも行けばどうだい? 櫛ぐらいならたくさんあるだろうし」
「なぜ俺が。お前が行けばいいだろう」
「婚約者は君だ。……それとも、婚約者を交代するかい?」
その提案に真宵は渋い顔を作った。
その顔を見た樒は小さく吹き出すと目尻に浮かぶ涙を指先で拭った。
「安心したよ。君が鈴音ちゃんを蔑ろにしていなくて」
「蔑ろになど」
した覚えはない。
が、確かに自分の言動を思い返して、鈴音が自分に向ける感情を考えるとそう受け取られても仕方がないのかもしれない。
「じゃあ、私が行くので決まり。留守の間、鈴音ちゃんを頼んだよ」
そう言い残して樒は去っていった。
(……今更、どう話せばいいんだ)
腕を組んだ真宵は項垂れる。樒の言うとおり、事情を知る自分が「買い物へ行こう」と誘えばいいだけのこと。それなのにどう話しかければいいのか分からない。
鈴音にとって自分は無理やりあてがわれた婚約者だ。必要以上に接してこられるのは嫌なはず。妖魔ではなく、人間の雄だったらもう少し話すことができたのだろうか?
(俺は、どうしたいんだ)
鈴音とどうなりたいのか、自分自身が分からない。深くため息をついてから真宵は歩き出した。屋敷へ戻って、鈴音に会うのは気まずいのであてもなく山を登る。自然豊かな土地は自分で選んだはずなのに、あの時、樒が言った通り帝都の側に居住を構えればよかったと後悔する自分がいる。
(帝都ならば、もう少し話しをするきっかけになったのだろうか)
いいや、とすぐさま首を振った。華族である鈴音が、妖魔である自分を受け入れるわけがない。悩むことはない。最初に考えた通りに接触は必要最低限に収めて、証である子どもを作ったら関わらない。
それが、いいに決まっている。
(なぜ、俺は迷う。迷う必要などないのに……ん?)
ふと気になる匂いが鼻をつく。
匂いの元は足元から。桔梗が好んでいる趣味の悪い香の残り香と、甘い花のような——鈴音の香りが。
「……なぜ、ここに」
真宵は着物の裾が汚れるのも構わず、しゃがみ込むと鬱蒼としげる葉をどかした。湿った大地の上に散らばる細かな欠片に、盛大に眉をしかめた。




