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狐が来たりて鈴を鳴らす  作者: 荻原もも
卯月の頃

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02 母の慟哭


 婚約者が決まったからといって、鈴音の日常は変わらない。

 早朝に目を覚ましたら部屋の窓を開けて、灰色の空を見上げる。遠くで聞こえる人々の声を聞きながら、ただ静かに時間が過ぎ去るのを待った。


(……向こう屋敷では、どうすればいいのかしら)


 この屋敷で鈴音が求められているものは〝空気〟であること。自我を出さず、大人しい置物であることが求められている。

 けれど、嫁ぎ先は一族の長だ。彼らが欲しているのは華族の人間であり、人間の形をした〝物〟ではない。華族らしからぬ行動をとれば〝欠陥品を掴まされた〟と怒りを買うかもしれない。


(どう過ごせばいいのか、わからない)


 幼い頃からこうやって生活をしてきた。学校になんて行ったこともない。読み書きも満足にできない。マナーも常識もわからない。そんな自分が新しい環境でうまくやっていけるだろうか。

 壁に背中を預けたまま、鈴音がぼんやりと窓から見える空模様を眺めていると、障子越しに名前を呼ばれた。使用人たちは皆、父の機嫌を損ねないように鈴音をいない者として扱うため、この屋敷で鈴音の名前を呼ぶのは、母しかいない。


「鈴ちゃん、入ってもいいかしら?」


 無意識に頬を緩めて「はい」と返事をすると母——都和とわが入ってきた。雪輪花地紋様ゆきわはなじもんようが刺繍された白梅はくばい色の羽二重はぶたえに、金糸の蝶が舞う紺色の帯を締めて、あでやかな黒髪は、一本の乱れもなく洋髪ようはつにまとめられている。公爵夫人らしい、きっちりとした装いだ。


 しかし、鈴音は違和感を覚えた。悲しげにひそめられた柳眉りゅうびも、耐え忍ぶように引き締められた唇もいつもと同じなのに。

 一体、どこが違うのだろうか? 違和感を探るべく、無言で母を見つめていると都和が困ったように頬に手を添えると、小首を傾げてみせた。


「……こんな顔でごめんなさい」


 しばらくして理解した。目の周りは微かに腫れており、赤みを隠すために白粉おしろいが大量にはたかれているのが違和感の原因なことに。

 きっと、母は父から四大華族の子息令嬢と妖魔の長との婚姻を聞いて、急いで鈴音に会いに来たに違いない。

 都和を安心させるべく、鈴音は口角を持ち上げて——すぐさま自分がお面をつけていることを思い出した。後頭部で結ぶ紐を解いて、お面を外して、膝の上に置く。

 そして、今度こそ微笑みを浮かべた。


「心配しないで、お母さま。私は大丈夫よ」


 大好きな母を安心させたいがためについた嘘は、すぐ見破られたらしい。目尻に浮かぶ涙を拭うと都和もまた無理矢理、微笑みを作る。


「ねえ、久しぶりに髪を結ってもいいかしら?」

「もちろん。お母さまに結ってもらうの、大好きだから嬉しいわ」


 鈴音は笑顔で頷くと、急いで鏡台きょうだいの前に移動した。先程、結ったばかりの髪を解いて、引き出しからくしを取り出した。黒漆くろうるしを背景にはねを広げた蝶々が楽しげに乱舞する螺鈿らでんの櫛は、幼い頃に母と町へ遊びに行った時に一目惚れして購入してもらった代物だ。

 それを手渡された都和は、両目を丸くさせた。


「まだ持っていたの?」

「お母さまから貰ったものだもの」


〝苦〟と〝死〟を連想させることから櫛は贈り物には向かない。そのため、娘に贈ることを躊躇ちゅうちょした母を、鈴音は説得した。

 どうしても蝶々の意匠いしょうが欲しかった。

 黒地に蝶々が舞い踊る意匠は、公爵夫人として母が好むものだったからだ。


「これは私の宝物。嫁ぎ先にも必ず持っていくわ」


 嫁ぎ先、という単語に都和の頬を涙が滑り落ちた。せきを切ったように、とめどなく涙があふれてきて、白梅の着物に染みを作る。

 泣き顔を隠すように両手で覆うと、都和はその場でうずくまる。小さな嗚咽おえつが聞こえて、鈴音はそっと都和の背中を撫でた。


「……泣かないで、お母さま。私の旦那さまになられるお方は、戦を勝利に導いた英雄だもの。きっと、お優しい方に決まっているから大丈夫、大丈夫よ」

「ごめんなさい。あなたを守ると決めたのに、守れなかった。まさか、妖魔に嫁げだなんて……っ!」

「お国のためにこの身を捧げれるだなんて名誉めいよなことよ。悲しむ必要はないわ」

「本来ならば、あなたじゃなく、分家の娘を養子に貰えばいいことなのよ! あなたが妖魔なんかに嫁ぐ必要はどこにもなかったの!!」


 都和は両手を伸ばす。鈴音の頬を包むと親指で目元を撫でながら、傷口のような赤い眼をのぞき込んだ。


「わたくしが赤い眼に生まなければ、もっと普通に生んであげれば、こんなことにならなかった……!」


 母の慟哭どうこくに、鈴音は固まった。


「……私は」


 ぎゅっと下唇を噛み締める。

 この眼が普通の色だったら、と何度も考えた。夜空のような真っ暗な瞳なら、父はきっと自分を愛してくれた。大切な妻に瓜二つである鈴音を、ぞんざいに扱わず、窮屈きゅうくつなお面をつけて生活するのを強いることもなく、女学校や往来を自由に歩かせてくれたはずだ。


「わたくしの娘、わたくしの可愛いたった一人の娘が妖魔なんかと! こんなことならあなたが生まれた時、あの人の言う通りに殺してしまえばよかった……!!」


 なにも言えなかった。慰めることもできず、鈴音は美貌を悲しみと怒りに染めて狂う母を見守り続けるしかできない。


(お母さまは、私を産んだことを後悔していたのだわ)


 母からの愛は真実だと理解していた。

 それと同時に、母は自分を産んだことを後悔していたと今初めて理解できた。


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