閑話 妖狐の矜持
妖狐は矜持が高い一族だ。
特に血統を重視し、一滴でも異物が入ることを忌み厭う。
煙々羅と呼ばれる妖魔を片親に持つ樒は、妖狐の里では異端の存在だった。幼いながらに妖力、妖術ともに純血——それも大半の妖狐より秀でていても、半分が異物であることから里での地位は低い。父親が高位の妖狐であることが幸いし、表立って石を投げる者はいなかったが影で笑われる日々が続いた。
笑われないために鍛錬を積み重ね、若いながらに尾を三本に増やしても嘲笑はなくならない。
それどころか「もったいない」と言われた。片親だけではなく、両親ともども純血だったらよかったのにと何度も冷笑混じりに言われた。短命種であり、物心ついた頃に亡くなった大好きな母を侮辱され、それでも父に怒ることを禁じられて鬱屈とした感情を抱えて生活をしていたある日、樒はそんな自分を認めてくれる存在と出会った。
その人の名は真宵。彼は一族の中でも最高位の存在だ。かつて国を傾け、中枢を支配した女狐を母に持ち、国の偉人を救ったことから妖狐でありながら神として奉られた男狐を父に持つ。その身に流れる血は、誰が見ても高貴と称するだろう。
現に実力もおりがみ付きで、樒とほぼ変わらない年齢でありながら尾は四本。この若さでこの本数に到達した妖狐は真宵と彼の母親のみだと言われている。
そんな真宵は、妖狐の中でも奇異な存在だった。
どれだけ由緒正しい血統を持っていても、それに見合った実力を有していても、彼は純血であることに重点を置いてはいない。膨大な妖力と研ぎ澄まされた妖術を持つ者に重点を置き、側に置くのはそういった者たちだけ。
——樒も、認められた一人だった。
百年に一度、里では盛大な祭りが開催される。催し物の一つに妖術比べというものものがあり、実力を示すために樒は参加をした。
樒は片親の能力もあってか霧を展開し、その中で幻術を視せる幻術が得意だった。一族で最も秀でているといってもいい。今まで陰で嘲笑ってきた妖狐たちを見返すために、と意気揚々に参加した。
そこで真宵と対戦し、呆気なく敗れた。
何重にも幻術をかけて、思考を奪い取るつもりだった。里長の子息とはいえ、自分の幻術の前には手も足もでないと思っていた。
しかし、真宵は違った。自身にかけられた幻術をいち早く理解し、打開する策がないと考えるや否や炎を発生させたのだ。
炎は轟々と唸り声をあげながら、周囲一帯を舐め尽くしてもなお止まらず、樒の身体を灰にするまで激しく燃え盛った。その美しさは言葉では言い表せない。炎に魂を奪われた樒は、対戦を見守っていた観客の悲鳴によって思考が現実に引き戻された。
その時、幻術が解けたのだろう。取り巻く炎が消えていく。
もう少し見ていたかった、と名残惜しい気持ちにかられた時、激痛が自身の右腕を走っていることに気がついた。皮膚は赤黒く変色し、泡立った皮が弾け、血が混じりあったような濁った体液が露出した肉の上を滑る。焦げた肉の臭いが鼻を刺激した。肘から先の痛みはやがて消え、火傷の境目が激しく痛みだす。
思わず、樒は右腕を抱え込んだ。ぐじゅっ、と体液が溢れ出る。
観客の中から父が駆け寄ってきた。心配そうに樒の腕の火傷を確認し、医者の名を叫んでいる。
その声をきっかけに、ざわざわと周囲が囁き始めた。
(また、馬鹿にされるのか)
周囲の声を聞きたくなくて樒は俯いた。周囲を見返すために参加したのに、大火傷を負い、父に心配されるという結末に、自身を不甲斐なく思う。恥ずかしい自分を隠すように黙りこくっていると前方から足音が近づいてきた。
「顔をあげろ」
異を許さない、強い声で命じられて樒は面をあげた。
目の前まで来た真宵は腕を組み、興味深そうに樒を見つめていた。戦う前は凪いだ水面のような瞳は、今は煌いているように見えた。
「お前、名は」
樒、と答えると真宵はどこか満足そうに樒の名前を呟くと、それ以上はなにも言わず去っていった。
※
「いい加減、無茶をするのはよしてくれ」
それが父——東雲の口癖だ。樒が鍛錬で身体を酷使して熱を出した時、歳の近い妖狐から揶揄われたことに腹をたてて幻術にかけて懲らしめた時、樒が周囲に馴染めず、反発するたびに耳にたこができるほど言い聞かされてきた。
そして、今日は特にうるさく言われていた。
「真宵さまが手加減してくださったから、お前は生きていたんだ」
「手加減なんかいらない」
「なんで、こうも頑固に育ったのか……」
はあ、と東雲は深く息を吐く。
「ほら、手を出しなさい。手当てをしてあげるから」
「大丈夫、これぐらいならほっとけば治るから」
「そんなわけないだろう。真宵さまは、かの玉藻さまのご子息だぞ。そんな方の炎が放っておくだけで治るわけがない」
そう言うと東雲は樒の右腕に触れた。
巻かれた包帯を解かれた際に血が張り付いて痛みが走るが、樒は表には出さない。この小屋には自分と父、二人だけだと分かっていても涼しげな表情を努めた。
包帯の下から現れた右腕は昨日とは違い、膨張しているように見えた。
火傷を見て、思わず顔を歪める。視認したと同時に耐え難い痛みが襲い、しばらくすると引いていた。
「……いいよ。幻術、かけなくて」
手作りだという獣臭い軟膏を塗り込み、新しい包帯を巻く東雲を樒は睨みつけた。幻術は相手の脳に作用する。全く別の光景を見せることも、平衡感覚を狂わせることも、怒りを増幅させることも、もちろん痛みを遮断することも可能だ。
右腕の痛みが消えたのは父のせいだと樒が考えていると、東雲は首を左右に振った。
「痛みは罰として受け入れなさい。これは、お前が無謀なことをしたから負ったものだ」
ならば、痛みが引いたのはどうしてだろうか。樒が不思議がっていると背後から声が投げかけられた。
「手当ては終わったのか?」
振り返るとそこには真宵が立っていた。
樒が睨みつけていると平伏した父が手を伸ばして、樒の頭を無理やり掴み、下げさせようとした。ここで下げては矜持が傷付くと樒は反抗する。
その頑なな態度が面白かったのか真宵は小さく吹き出した。
「やけに噛みつくな。俺が憎いか?」
「君は自らを負かした相手を許すとでも?」
質問に質問で返せば、真宵はきょとっと目を丸くさせる。少し考える素振りを見せてから「許さない」と口にした。
「勝利を得るために、きっと地獄の果てでも追いかけ回す。まあ、負けたことはないが」
「分かっているじゃないか。私は今、君を地獄の果てまで追い詰めたい気分なんだ。そんな相手に情けをかけられるなど、反吐が出る。いますぐ、私にかけた幻術を解いてくれ」
「それぐらい、自分で解けばいい。俺は幻術が得意ではない」
樒は舌を打つと妖力を操り、幻術を解いた。じくじくと痛みだした右腕に、次は自分自身に幻術をかける。それを見て、真宵は昨日と同様に目を輝かせた。
「解くのも速いし、自分にもかけれるのか」
「母さんの血のおかげでね」
東雲から叱責が飛んでくる。
思わず、樒は東雲を睨みつけた。好きで煙々羅と番い、樒を作ったのに名前を出すことを禁じる父が憎くて仕方がない。樒が少しでも里で暮らしやすいようにするためだと分かっていてもだ。
「ああ、母君が煙々羅というのはお前か」
「悪いかい?」
「いいや。素晴らしいと思った」
「素晴らしいだって? どうせ、君も血が穢れるとか思っているんだろう」
「妖狐の血が穢れたぐらいであの強さがあるのならば別に気にする必要はない。普通の術者ならば、俺の炎に焼かれた際に幻術を解いている」
幻術は数ある妖術の中でも繊細で、操作が難しい。ほんの少しでも集中力が乱されれば、たちまち術は解けてしまう。
「お前は、ずっと俺に幻覚を視せていた」
「なにがいいたい」
「俺はいずれこの里の長となる。そのための側近に樒——お前を指名したい」
樒は素っ頓狂な声を出した。里長の側近に指名されるのは名誉なことだが、まさか真宵本人から誘いを受けるとは思わなかった。
「俺の側近になれば、周囲を見返せるぞ」
「寝首を掻かれてもいいのかい?」
「それで死ぬようならば、俺は里長には向いていない」
「君って変だね。変わっている」
樒の心からの言葉に、真宵はどこか誇らしげに笑った。
その笑顔に毒気を抜かれた樒は、その提案を受け入れることにした。寝首を掻くつもりは微塵もないが、周囲を見返せるのは魅力的だと思った。煙々羅の血を継ぐ自分が、数多の妖狐を押し除けて里長の側近をするとなれば、さぞかし心が軽くなるに違いない。
※
真宵の側にいるようになってから尾の数が増えた。真宵と並べたと思いきや、彼はいつの間にか五本に到達していたと聞いて驚いた。悔しさから鍛錬の内容を見返そうとした時、里に流れていたある噂を耳にした。
「人間と協定を組むなど、玉藻さまはなにをお考えか」
「いやはや、困ったものだ。たかが人間に我ら妖狐が遜るなど正気の沙汰とは思えぬ」
「最近の人間はなにをしでかすか分からないわ。仲良くするのはいいことではなくて?」
御歳九百歳をゆうに越える玉藻は老齢ゆえか、普段は屋敷の奥からでてはこない。他種族との話し合いも代理として真宵が行っていたのに、ここ最近は数人の腹心を従えて頻繁に外出していた。
彼女が向かう先はこの国を治める帝という長の元。戦争により疲弊したこの国を救う代わりに、妖魔が国民として受け入れてもらえるようにと協定を結んだそうだ。
「人間は繋がりというものを重視するらしい」
樒と同様に真宵の側近を務める男狐が言った。
「やつらは長に人間の伴侶を娶れといったそうだ」
「伴侶ですって?」
同じく側近を務める女狐が声を荒げた。
「玉藻さまは亡き夫君も今も大切にしているわ。それにご高齢の身で新たな伴侶、それも人間の男と番うというの?」
「いいや、玉藻さまは真宵さまに長の座を譲るつもりだと聞いた」
「それは、真宵の奥方は人間になるということかい?」
思わず、樒は口を挟んでしまった。
普段は喋らない樒が話しに加わったことに二人は驚いたように顔を見合わせる。
「そうなるだろうな。遅かれ早かれ、玉藻さまは引退なさるおつもりだったし、ちょうどいい機会なのだろう」
「えー、でも人間の雌が妻になるんでしょう? 真宵さま、可哀想だわ」
女狐のせせら笑いに、樒は知らず眉間の皺を深める。
「今だけだ。人間は百年も生きれる個体は少なく、だいたいが六十年やそこらで死ぬらしい。その雌の年齢は分からないが、ほんの少しだけ我慢……おい、樒! どこへ行くんだ」
これ以上、低俗な会話に付き合ってはいられない。足早にその場を離れて、森の奥深くへと進んでいく。どこに行くか決めていないが、じっとしていると例え難い感情に押しつぶされそうだ。
目的地もなく森を彷徨いながら、先ほどの会話を思い返す。
(人間が真宵の妻か……)
実力主義である真宵は弱き者を特に嫌う。特に人間だとその傾向は一層顕著だ。
もし、その噂が本当なら真宵は自らの伴侶にどう接するだろう? 他の妖狐のように自分から嫌がらせをしに行くとは考えづらいが矜持が高い彼のことだ、きっと冷たく接するに違いない。
(……母さん)
ふと脳裏に母の姿が過ぎる。短命な種族ゆえに樒の成長を見届けることなく、亡くなった母は周囲から疎まれても常に笑顔を浮かべていた。里に受け入れられなくても愛する夫と息子がいるから幸せだ、といつも笑っていた。
優しくて、大好きだった母と顔も知らない女性の姿が重なった。無意識に拳を握りしめた時、背後で気配がした。
「真宵?」
振り返ると真宵が立っていた。その表情は固く、どことなく怒っているようにも見えた。
「ここにいたのか」
「ちょっと考え事をね。どうかしたのかい?」
「お前は協定の話を耳にしたか?」
「人間との? 今先ほど、聞いたところだよ。噂としてね」
「噂ではない」
真宵は舌を打つとその場にあった岩に腰掛けて、項垂れる。珍しく落ち込んでいる姿に樒は真宵の側に近寄るとからかうことはせずに、黙って言葉の先を待った。
いつもは自信に溢れている真宵も此度の協定には思うところがあるのだろう。それも噂が本当なら人間の伴侶を得ることになるのだから。
「母上を含む大妖たちが人間の長と協定を結んだ。これから先の時代を考えると、今のうちに人間どもに謙る方が良いと雪童から提案があったそうだ」
「ああ、例の雪妖の長?」
雪童には性別がない。恋をすると肉体が変化し、女体なら〝雪女〟という妖魔に、男体なら〝雪男〟という妖魔に名前が変わる。
それと同時に寿命という概念が生まれる。恋をした相手が死ぬと同時に彼らは雪の結晶となり、死に絶えるという。
そんな雪妖の一族を統べる雪童は齢四百年を超えている。通常ならば、とっくの昔に寿命を迎えていてもおかしくはないのに長は未だ雪童として生を紡いでいた。見た目は幼いけれど、中身は老骨ゆえに、雪妖の長は常に物事を変わった視点で見る。そのため、他族からも一目置かれていた。
「今が戦の最中なのは知っているか?」
「人間とのかい?」
「この国と外の国だと」
「人間は同種同士で争うのが好きだね」
「同じ種族であれ、所属が違えば思想も違うものだ。俺たちだって他の妖狐と幾度となく争ってきたのを忘れたか?」
「よく覚えているよ。決まって君がまず先に喧嘩を売られていたもの。玉藻さまのご子息っていうだけで、知らないうちに敵を作るなって呆れたものだよ」
「母上は恨みもたくさん買っているからな」
真宵はため息をつく。
「なあ、樒。お前は人間と戦ったことはあるか?」
「ないよ。私はあまり里から出ないからね。あと、人間に恨みなんてないし、興味もない」
「だろうな。お前らしい。人間はここ数百年の間で目まぐるしい進化を遂げているそうだ」
南蛮から伝来した鉄砲を初め、大砲、捕縛具——。鎖国を解いてからは目まぐるしく時代は変化し、人間どもが操る武器は、時に妖術に打ち勝つほどとなった。確かにこれからより文明が発達する前に人間と協定を組んだ方が妖魔全体の未来は明るいといえる。
「けれど、戦場において、この国は劣勢らしい。それを妖魔が手助けをし、勝利した暁には〝この国の民〟として迎え入れてくれるそうだ。ただし、人間側が用意した者たちと婚姻を結ぶのが条件だが……」
「ふぅん。人間が妖魔を受け入れるなんて思えないけど」
「ああ、だから母上たちは華族の人間を要求した。長らく国に仕えていた一族の出自ならば、奴らも裏切れないはずだ。妖狐族からはこの俺が、相手は鷹司という一族の娘らしい」
樒は両目を細める。
「なるほどね。断らないのかい?」
「相手は人間だ。五十年ほど我慢すればいいだけのこと」
薄情だな、と樒は呟く。
それと同時に主人の伴侶となる娘に同情を覚えた。愛されて育った末に妖魔に嫁がされるなど、可哀想でしかない。
※
無事に国を戦勝国へ導いたことで人間たちは妖魔への態度を軟化させた。中には戦前と変わらず妖魔を敵視している者もいたが、帝直々に勅命が下ったことと妖魔からの報復を恐れて表立って反論するものはいなかった。
「お前、食い過ぎじゃないか?」
本来の姿で往来を歩けるのが嬉しくて、つい樒が買い食いを楽しんでいると隣からドン引きした声が投げかけられた。見れば真宵が声と同様にドン引きした表情で樒を見つめている。
「真宵も食べるかい? 美味しいよ」
まだ齧っていない串団子を渡そうとしたら「そんなもの食えるわけがない」と言われた。
「毒は入っていないよ。匂いでわかるじゃないか」
「人間が作ったものを食えるわけがない」
「ひどい言い方だなぁ」
と言いながら樒は団子を咀嚼する。討伐を終えて、削れた体力を回復させるために食べればいいのに、と真宵を冷たい目で見つめながら。
(人間嫌いはあいも変わらずだな)
戦争に従事したことで前よりも人間嫌いに拍手がかかっている気もする。婚約者となる娘に八つ当たりをしないように小言を言いながら、二人は屋敷への帰路を急いだ。
「だいたい、なんでこんな森の奥なのさ」
進むにつれて、鬱陶しく茂る木々を見上げると、樒は前を行く背中を睨みつけた。これから婚約者と共に生活を営む屋敷は、真宵の意見を最優先させたと聞いている。
その結果、獣しか住まないであろう山奥へ居住することとなった。貴族が療養のために建てたという屋敷は自然に溶け込むような外観をしており、内装も国が改修してくれたため整ってはいる。
けれど、ガスや電気が通っていない。ハイカラな世界に触れる機会が無いことに樒は不満を覚えた。
「人間どもが近くを歩いているなど気が休まらない」
「だからって、こんな山奥はないだろう。花嫁御寮が生活しやすいようにもう少し帝都の近くにするべきだ」
「人間どもが作る料理を食べやすいように、の間違いではないのか?」
白んだ目を向けられて、樒は視線をずらした。確かに帝都が近くにあればカフェやデパートに日常的にいける。劇場というものにも興味がある。
しかし、意図の大半としては、真宵の婚約者は帝都で生まれ育ったのだから、住み慣れた土地が近い方がいいとの配慮が占めている。誓って樒が人間の生活に興味がでたためではない。
「……ん?」
通りすぎる際に気になるものを見つけて、樒は足を止めた。太い幹には抉られたような跡がいくつも走っている。熊が爪で引っ掻いたのか、鹿が角を研いだのかは判断できないが大型の獣によるものだ。
「どうした」
「これ見てよ」
「これ? ああ、熊だな」
「熊がでるのかい?」
「こんな自然豊かな土地だ。熊ぐらい普通にでるだろう」
「危ないじゃないか。もし、花嫁御寮が一人で森に入ったらどうするつもりだい」
「危険を察知できないのが悪い」
そう言って、真宵は歩を進める。あまりの冷たさに樒は思わず眉を寄せる。本当に自分のことしか考えない主君である。
「幻術で囲むからね」
遠くなる背中に語りかけると、真宵は手だけを持ち上げて左右に軽く振った。勝手にしろ、という意味だろう。
樒はため息をつくと真宵を追いかけた。
「真宵さまっ! おかえりなさいませ!」
玄関に入ると同時に、普段よりも高い声を発する桔梗が三つ指をついて待ち構えていた。深く頭を下げる様子は貞淑な妻のようである。
(ただの女中のくせに)
真宵に気に入られようと科をつくる幼馴染の姿に樒は内心で毒を吐く。混ざり物である樒を一際嫌っているため、一寸たりとも視線は向けず、空気のように扱ってくるのも腹立たしい。
言い返して同じ土俵に立つのは嫌なため、樒は気が付かないふりをする。
「じゃあ、真宵。私は屋敷の周りにいくつか印を描いてくるね」
「樒、お前もこい」
真宵は桔梗には一瞥もくれずに樒に話しかけた。
桔梗が不機嫌そうに整った美貌を歪ませるのが見えた。美しい自分より、樒を優先したのが不服のようだ。
「はいはい、挨拶しろってことね」
廊下を進み、婚約者に宛てがった部屋へ向かった。
「失礼する」
部屋に着くなり、真宵は中の返事を待たずに八重桜が舞う襖を開けた。「返事を待ちなよ」と樒が小言を飛ばすが無視をして大股で中に入っていく。
「君って本当に不躾だな」
「……おい」
「どうしたんだい?」
ん、と真宵は床を指さした。見れば、ぬばたまの髪が畳の上に広がっている。その中心では桃色の着物を着た少女が横になっていた。お面の奥から微かに聞こえる寝息に、薄く上下する胸部から見て少女は深く眠っているようだ。
「おや、ぐっすりだね」
真宵が起こそうと手を伸ばすのが見えて、樒は慌てて制止した。
「待ちなよ。疲れているんだから、寝かせてあげるべきだ」
「早く用件を終わらせたい」
「いいかい、ここは彼女が起きるまでゆっくり待つべきだ。あと、用件を終わらすにしてもきちんと考えと理由を伝えて、了承をとるんだよ」
不服そうな真宵を壁際に押し除けてから布団を敷く。その上に寝かせようと少女を抱き上げた時、予想よりもはるかに軽く、分厚い布越しでも分かる骨ばった身体に樒は驚いた。華族の娘なら美味しいものをたくさん食べて、贅沢をしていそうなのに身体付きは貧民のようだ。
そのことを指摘しようとするがすぐさま頭を振る。女性の体型を指摘する行為は避けた方がいい、と聞いたことを思い出した。
「じゃあ、私は下がるよ。きちんと話し合うのを忘れないようにね」
少女を布団で寝かせてから最後にしっかりと釘を打ち、樒は屋敷を後にした。
※
真宵はぶっきらぼうで、弱者を下に見ているが話しが通じないような傍若無人な妖狐ではない。相手が人間でも、十六歳という幼い娘相手ならきちんと耳を傾けると思っていた。
——次の日、樒が幻術の効果を見に、山に入るまでは。
素肌に羽織りだけを纏った少女は脇目を振らずに一心不乱で山の奥へとかけていく。時折、足がもつれて転んでも痛みに呻かず、すぐさま足を動かす様子は正常とはかけ離れていた。血だらけの足は動かすだけでも痛むだろうに少女はただまっすぐに奥を目指す。
樒は迷った。ここで接触して、少女の混乱を更に掻き立てていいのか、少女が落ち着くまで見守るべきか。悩んだ末にこれ以上、見守ることができなくて人間の女に化けて接触することを選んだ。
少女は訝しみながらも素直に手当てを受け入れて、ぽつりと心を吐露してくれた。〝普通〟ではないことから鷹司に居場所がないことや、そのせいで大好きな母を悲しませたこと。妖狐に嫁いでも、子どもを作るための価値しかないことを。
死にたいとさめざめと泣く少女を見ていると、なぜか胸が切なくなった。
そんな自分に気づかないふりをして、樒は少女を送り届けるために歩き出した。
「……お母さま」
縋るように着物をぎゅっと握った小さな手、震えた声に樒は足を止めた。腕の中の少女が幼い頃の自分と重なった。
この少女は自分だと樒は思った。力を持たなかった自分自身だ。抗う力があったから、樒は今こうして真宵の側近として生きている。
けれど、力がなかったら?
もし抗うだけの力がなければ、反抗することもなく、周囲の反応を恐れて生きていただろう。この少女のように。
(ならば、私がこの子の拠り所になろう)
そう決意して、樒は慰めるようにお面越しに額を撫でるのだった。




