第三章:万象調律師(※ただの便利屋)の過酷すぎる出張業務
1.極北の冷気と携帯カイロの切実な限界
王国の最北端、白銀の雪山が連なる『嘆きの山脈』。
吹き荒れるブリザードが視界を白一色に染め上げる中、黒い岩肌を穿って築かれた神話時代の遺跡――未踏迷宮『嘆きの黒鉄宮』の巨大な入口門がぽっかりと口を開けていた。
その禍々しい大門の前に、およそ雪山登山には似つかわしくない格好の青年が立っていた。
「……さっっっっむ!! 死ぬ! マジで死ぬ! なんで俺、マイナス十度近い雪山にいつもの作業着の上にボロ毛布羽織っただけで来なきゃいけないわけ!?」
ロスト(24歳・便利屋)は、歯をガチガチと鳴らしながら両手で抱え込んだ鉄製の湯たんぽを必死にさすっていた。
工房から持参した年代物の携帯カイロは、極北の冷気にあっけなく敗北してすでに冷え切っている。
「マスター、体表面温度の低下を確認。私の排熱機構を外部開放し、マスターの体幹部へ摂氏四十度の温風を直接供給可能です。要請されますか?」
横に立つ白銀の機巧少女エレナは、吹雪など気にも留めず平然としていた。彼女の装甲表面には薄氷すら張っていない。内蔵炉の熱量だけで雪を蒸発させているのだ。
「いや、エレナの排熱って煤とオイルの匂いがすごいから服に臭いがつくんだよ……。というかガルド、お前なんで半袖なの? 馬鹿なの?」
「へへっ、気合いッスよロストさん! 師匠と共に神話の迷宮に挑むと思ったら、全身の血がマグマみたいに滾って寒さなんか微塵も感じないッス!」
赤髪の剣士ガルドは、大剣を背負って湯気を立てながら腕立て伏せをしていた。脳筋の熱量は物理法則を超越しているらしい。
「ふふ、騒がしいわね。ロスト様、あまりガルドを構っては風邪を引いてしまいますわ。どうぞ、私の魔力障壁の内側へ」
漆黒のローブを翻し、冷気を完全に遮断する防風結界を展開しながらシルフィが寄り添ってくる。
その手には、湯気の立つ温かい紅茶の入った銀のポット。
「……シルフィ、お前ほんとそういうとこだけは有能だな。生き返るわ」
「光栄ですわ。ロスト様がお命じになれば、この山脈の氷雪すべてを蒸発させて常夏の楽園に変えて差し上げますのに」
「やめて。生態系が狂ってギルドから始末書書かされるから絶対にやめて」
ロストはフゥフゥとお茶をすすりながら、目前にそびえる『嘆きの黒鉄宮』の入口を見上げた。
神話大戦末期に建造されたとされる、地下兵器工廠の跡地。
剥き出しの黒鉄の巨壁には複雑怪奇な幾何学模様が刻まれ、奥からは重く低い「ヴ――ン……ヴ――ン……」という駆動音が唸りを上げて響いてきている。
「で? この中に入って、暴走してるっていう『メインエンジン』のネジを締め直せば帰っていいんだよな?」
「ええ、左様にございます」
シルフィが蠱惑的な瞳を細め、うっとりと頷く。
「神話の時代に惑星規模の魔力を統括していた超古代動力炉『創世の拍動』。現在、過剰共鳴によって臨界寸前。爆発すれば北方領土が消滅しますわ。……それを『ネジ締め』と表現なさるとは、やはりロスト様にとってはこの世界そのものが分解可能な玩具に過ぎないのですね」
「違う。比喩じゃない。本気でただのネジの緩みであってくれと神に祈ってるだけだ」
ロストは深くため息をつき、腰の工具袋を叩いた。
モンキーレンチ、潤滑油スプレー、細工用ドライバー、そして予備の針金。
王宮から支給された白金貨で買ったのは、防寒具ではなく「最高級の焼き入れドライバーセット」だった。根っからの貧乏性職人である。
「よし、ちゃっちゃと済ませて帰るぞ。目標、滞在時間三十分。それ以上いたら凍傷で足の指がもげる」
「了解。マスターの電撃侵攻ドクトリンを受信。障害物はすべて〇・五秒以内に分子レベルで消滅させます」
「敵を撫で斬りにして道を切り拓きますッ!」
「だから物騒なこと言うなっての……!」
脱力した青年と、やる気満々の狂信者たち。
凸凹な一行は、極寒の吹雪を背に、黒鉄の迷宮へと足を踏み入れた。
2.帝国の誇る「完璧なる迎撃網」
同じ頃――『嘆きの黒鉄宮』地下第三層、中央制御回廊。
暗闇に包まれた金属の回廊に、冷徹な軍靴の音が響いていた。
黒ずくめの強化外骨格アーマーを纏い、顔を不気味なバイザーで覆った数十名の精鋭たち。
大陸最強の軍事国家・ガイエス帝国が誇る秘密工作機関――特務強襲部隊『黒死の鉄槌』。
その指揮を執るのは、帝国屈指の戦術家として名高い特務大佐、オズワルドであった。
「状況を報告せよ」
オズワルドの冷徹な声に、副官がホログラム状の魔導端末を操作しながら答える。
「侵入者を感知。生体反応四。……先頭に立つのは、王国の新任最高顧問【万象調律師】ロストと思われます!」
「来たか……神話の巨兵を一撃で解体したという怪物が」
オズワルドは薄い唇を吊り上げ、冷酷な笑みを浮かべた。
背後に控えるのは、帝国がこの迷宮から先行発掘した神話時代の自律防衛兵器群。
全身を硬質複合装甲で覆った多脚型重戦車『スパイダー・センチネル』が三機。
天井には、触れた者を骨すら残さず溶解させる『高密度プラズマ地雷』が無数に敷設されている。
「ロスト……貴様がどれほどの化け物かは知らんが、ここは神話の兵器工廠だ。物理・魔法を問わず、侵入者のあらゆるエネルギーを吸収・無力化する絶対不可侵の迎撃結界が張られている」
オズワルドは拳を握り締めた。
「さらにこの通路の床には、一歩踏み込むだけで全身の生体電流を乱し、神経を焼き切る『超伝導高圧電磁ネット』を起動してある。いかに伝説の調律師といえど、目に見えぬ素粒子レベルの罠を躱す術はあるまい!」
「大佐、奴らが第一防衛ゲートを突破しました! ……信じられません、扉のロックをハッキングした形跡がありません!」
「何だと!? どうやって開けた!?」
「それが……『鍵穴の奥に詰まってたゴミを針金で掻き出したら普通に開いた』と、斥候ドローンの音声が拾っております!」
「…………」
オズワルドの眉間がピクリと跳ねた。
「……ハッ、心理戦か。『神代の多重暗号鍵など、針金一本の価値すらない』と我らを挑発しているわけだな。底知れぬ男だ。だが、その傲慢が命取りとなるぞ!」
オズワルドは通信機に向かって怒号を飛ばした。
「全兵員に通達! 相手は万象の理を欺く怪物だ! 一瞬の油断もするな、視界に入った瞬間、問答無用で飽和射撃を浴びせろ!!」
「ハッ!」
完璧な布陣。死角なき迎撃網。
神話の技術と帝国の軍事力が融合した絶対のキルゾーンが、ロストたちを待ち受けていた。
3.すれ違う因果、あるいはただの「お掃除」
「……うわぁ、埃っぽ。何百年掃除してないんだよここ」
中央制御回廊に現れたロストは、露骨に嫌そうな顔をして鼻を覆っていた。
暗い金属の通路。壁面からは青白い魔力光が不気味に明滅している。
「ロストさん、足元に気をつけてください! 何か禍々しい気配がします!」
ガルドが大剣を構え、周囲を油断なく警戒する。
「禍々しいっていうかさ……」
ロストは立ち止まり、通路の床をじっと見つめた。
(……なんだこれ。床の継ぎ目、金属パネルが浮いて隙間が空いてんじゃん。しかも中からパチパチ静電気が漏れてるし。配線工事した奴、絶縁処理サボっただろこれ。素人がDIYしたタコ足配線かよ)
ロストの職人魂が、またしてもピキリと反応した。
彼は足元に広がる『超伝導高圧電磁ネット』――触れれば即死のプラズマ電流が網の目状に流れる致死トラップを、ただの「漏電した危険な床」として認識していた。
「危ねえなあ、まったく。誰だよこんなとこに裸線放置した奴。踏んだら痛いじゃん」
ロストはポケットから使い古したマイナスドライバーを取り出すと、しゃがみ込んだ。
そして、床の金属プレートの継ぎ目にドライバーの先端をグッと差し込み、テコの原理でバコッと持ち上げた。
「マスター、感電の危険を感知――」
「大丈夫、柄がゴムだから通電しないし。……ほら見ろ、主幹ブレーカーのアース線が外れてショートしてんだよ。みっともねえ配線だなあ。エレナ、その辺に落ちてる銅線取って」
「了解。神代の高純度オリハルコン伝導ワイヤーを調達します」
「ただの針金でいいよ」
ロストは手際よく針金を素手でねじり、ショートして火花を散らしていた電磁ネットの基幹端子を、壁の排水パイプ(アース)へとカチッと繋ぎ変えた。
バチチッ……――フシューー。
青白く張り巡らされていた致死の電磁ネットが、一瞬で完全に沈黙した。
余剰電流がすべて迷宮の外壁へと逃げ、通路全体の過剰電圧がクリアされる。
「よし、これで漏電は止まった。……ついでに、あの天井の丸いのも取っとくか」
ロストが指差したのは、天井にびっしりと張り付いていた『高密度プラズマ地雷』だった。
「なんかブーンって低周波が出てて頭痛くなるんだよね。蜂の巣みたいで気持ち悪いし」
ロストは工具袋から長柄の金属製スクレーパー(煤落とし用のヘラ)を取り出すと、ガリガリガリッと天井の地雷の吸着面をこそぎ落とし始めた。
「よいしょ、っと。……うわ、裏側の吸盤にヤニがこびりついてら。汚ねえなあ。ガルド、これゴミ箱に捨てといて」
ポイ、と無造作に放り投げられたプラズマ地雷を、ガルドが慌ててキャッチする。
ロストがヘラで削った際、起爆センサーの受光部が偶然にも削り落とされ、ただの鉄の塊に無力化されていた。
「こ、これは……帝国の最新鋭指向性爆薬……!? それを、ただの錆落としの要領で信管ごと無効化するなんて……!」
ガルドは冷や汗を流しながら、ロストの背中を拝むように見つめた。
「ロスト様、お見事ですわ」
シルフィが恍惚の溜息をつく。
「敵が数時間をかけて構築した絶対防御陣地を、わずか数分……それも、雑草をむしるかのような所作で無に帰すとは。これぞ【万象調律】……世界の秩序を乱す異物を、あるべき無へと還す神の御業……!」
「いや、ただの漏電修理とヤニ取りだからね? 頼むから神格化しないで?」
ロストはため息をつきながら、先へと歩き出した。
その先で、物陰に潜んでいたオズワルド大佐の部隊がどうなっているかなど、ロストは知る由もなかった。
4.帝国の恐慌と「神の足音」
「ば、馬鹿な……馬鹿な馬鹿な馬鹿なッ!!」
中央回廊の監視室で、オズワルド大佐は発狂寸前の形相でモニターに掴みかかっていた。
「我が部隊が誇る高圧電磁ネットが……針金一本でアースされただと!? プラズマ地雷原を、ヘラでガラクタのように削り落とした……!? なんだあの男は!? なぜ我が軍の最高機密トラップの配置と解除コードを、最初から全て知っているかのように迷いなく歩けるのだ!!」
モニターの中のロストは、くたびれた毛布を肩にかけ、猫背でだるそうにあくびを噛み殺しながら通路を歩いてきている。
その後ろには、無傷の三人の怪物。
「大佐! 『スパイダー・センチネル』三機、迎撃ポイントに到達! 射撃命令を!」
「撃てぇッ! 撃ち殺せ! 奴をこれ以上近づけるなァッ!!」
回廊の突き当たり。重戦車の主砲門が開き、ロストに向けて超高熱の魔導熱線が充填され始めた。
空間が熱で揺らぎ、キィィィンという甲高いチャージ音が響く。
通路を歩いていたロストが、ピクと立ち止まった。
「……あ」
オズワルドの心臓が跳ね上がった。
(気付いたか!? だがもう遅い! チャージ率は九十パーセント、射線上のすべてを蒸発させる――)
ロストはおもむろに、腰から「業務用の強力パーツクリーナー(速乾性脱脂スプレー)」を取り出した。
「おいおいおい、排気ダクトが煤で真っ黒じゃん。あんなとこで火花散らしたらバックファイア起こすぞ」
ロストは眉をひそめ、戦車の砲口――高熱の魔力励起によって真っ赤に焼けていたエネルギー収束スリットへ向けて、歩み寄りながらスプレーをシュ―――ッと豪快に吹きかけた。
「なっ……!? 素手で主砲に近づいて……何か液体を吹きかけただと!?」
監視室のオズワルドが絶叫する。
瞬間。
揮発性の極めて高い脱脂溶剤が、数千度に達していた魔導熱線の励起チャンバー内に気化・充満した。
ボフンッ。
くぐもった爆発音とともに、戦車の内部機関で強烈な異常燃焼が発生。
圧縮されていた熱線エネルギーが逆流し、装甲の内側から三機のセンチネルの電子回路と動力チューブを一瞬で焼き払った。
プシューーーーー……。
黒煙を吐き出しながら、帝国の誇る最新鋭兵器が、一発の砲弾も撃つことなく沈黙した。
「ほら見ろ、言わんこっちゃない。掃除してないからバックファイア起こしただろ。機械を雑に扱う奴はこれだから嫌なんだよ」
ロストはスプレーのキャップをパチンと閉め、煤だらけになった手をつなぎのズボンで拭いた。
「シルフィ、邪魔だからこれどかして。奥に行けない」
「仰せのままに、我が主」
シルフィが指先を鳴らすと、空間が歪み、スクラップと化した三機の巨大戦車が回廊の壁際へと綺麗に積み上げられた。
監視室の中は、もはや静寂を通り越して地獄のような絶望が支配していた。
「……あ、悪魔だ……」
通信兵が震える手から受話器を取り落とした。
「帝国の誇る魔導戦車が……謎の聖水を一吹きされただけで、自らの魔力で自爆させられた……」
「これが……これがオルランド王国の【万象調律師】……!」
オズワルド大佐は崩れ落ち、自らの拳を血が出るほど強く床に叩きつけた。
「奴には全てが見えているのだ……! 我らの策も、兵器の構造も、因果の結び目すらも! 『掃除してないからだ』だと……!? 我らの周到な軍事作戦そのものが、奴にとっては『部屋の埃』程度にしか見えていないというのか……ッ!!」
「大佐、退却命令を! これ以上は全滅です!」
「……退却だ」
オズワルドは絞り出すような声で言った。
「全軍、即時撤退! 皇帝陛下に報告せねばならん……オルランドには、決して手を出してはならぬ『神の領域の観測者』がいると……!!」
帝国特務部隊は、ロストの姿を二度と見たくない亡霊を見るかのような恐怖に駆られ、非常用脱出口から雪山へと逃げ散っていった。
ロスト本人はといえば、
「なんか焦げ臭いな。早く奥行って終わらせようぜ」
と、敵がいたことすら気づかずに通り過ぎていたのである。
5.神話の心臓、ネジ一本の誤算
迷宮の最深部、『創世の拍動』の間。
ドクン……ドクン……ドクン……!
巨大な吹き抜けの空間の中央に、脈動する巨大な球体が鎮座していた。
神話時代の遺産、超古代動力炉。
球体の表面には無数の亀裂が走り、そこから溢れ出す濃密な純紫色の純粋魔力が、空間を歪ませ、重力を狂わせていた。
浮遊する金属片、逆流する空気、耳を劈くような高周波の共鳴音。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
ロストは部屋に入った瞬間、床に這いつくばった。
「な、なんだこれ!? 重い! 空気めちゃくちゃ重い! ガルド、肩もんで! 肩凝って死ぬ!!」
「ロストさん、しっかりしてください! 神話炉の超重力場です! 俺の体が千切れそうだ……ッ!」
ガルドが大剣を床に突き立て、膝をつきながら耐える。
「マスターの生体維持を最優先。バリアフル展開――くっ、出力低下、相殺しきれません……!」
エレナの装甲がきしみを上げ、足元の金属床がメリメリと凹んでいく。
シルフィすらも額に汗を浮かべ、必死に杖を構えていた。
「これが……創世の拍動……! 完全に制御を失っていますわ! もはや臨界まで一分もありません……! ロスト様、転移魔法で脱出を! ここが爆発すれば、北半分の大陸ごと消滅します!!」
「待て待て待て! 帰るにしても、こんなうるさい音鳴らされたら頭おかしくなる!」
ロストは這いつくばったまま、血走った目で巨大な炉を見上げた。
彼を突き動かしていたのは、世界を救う正義感でも、死への恐怖でもない。
ただひたすらに、「不快な騒音への怒り」だった。
(キィィィィンって! なんだその耳障りなハウリング音は! マイクとスピーカー近づけすぎた時のカラオケボックスかよ!!)
ロストの鑑定眼が、狂乱する魔力の嵐を突き抜け、球体の根元――三本の巨大な固定支柱へと吸い寄せられた。
(あそこだ! あの真ん中の支柱! 振動のせいで、基部の固定ボルトが一本だけ完全に緩んでガタついてやがる! だから全体が共振して、エネルギーの逃げ場がなくなってハウリング起こしてんだよ!!)
「ガルドォォォッ!!」
ロストは這いつくばりながら、腰から最大の工具――巨大な特注モンキーレンチを引き抜き、叫んだ。
「俺をあの真ん中の柱の根元まで放り投げろ!!」
「えっ!? ロスト様、あの超高密度エネルギーの中心に飛び込む気ですか!? いくら貴方でも肉体が蒸発します!」
「いいから投げろ! 早くあの音を止めないと俺の頭が破裂するぅぅぅぅっ!!」
ガルドの瞳に、熱い涙が溢れ出した。
(……ああ! ロストさんは、己の肉体を犠牲にしてでも、世界を救うために特攻する気なんだ……! 自分の命など、世界の調律のためなら塵ほども惜しくないというのか……ッ!)
「うおおおおおおおおっ! ロストさんの覚悟、この命に代えても届けてみせるッ!!」
ガルドは全身の筋肉を限界まで膨張させ、ロストの襟首を掴むと、咆哮とともに炉の根元へ向けて豪快にぶん投げた。
「飛べぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッ!!」
「うわああああああああああっ高所恐怖症ぅぅぅぅぅぅぅっ!!」
空中を風車のように回転しながら飛ぶロスト。
周囲のプラズマが作業着の裾を焦がすが、恐怖でアドレナリンが限界突破したロストの脳内には、目標のボルトしか映っていなかった。
ドシャァァッ!
炉の基部に無様に着地したロストは、激痛に顔を歪める暇もなく、目の前でガタガタと激しく振動している直径三十センチの巨大な黒鉄ボルトに飛びついた。
「この……クソネジがぁぁぁぁぁぁっ!!」
モンキーレンチの開口部をボルトの六角頭に力任せに噛み合わせる。
サイズは――奇跡的にジャストフィット。
「締まれぇぇぇぇぇぇぇぇっ! 緩んでんじゃねえよバカ野郎がぁぁぁぁぁっ!!」
ロストは体重のすべてをレンチの柄に乗せ、全体重をかけてグイッと締め上げた。
ギギ……ギチチチチッ。
火花が散り、何百年も放置されて緩んでいた神代のボルトが、元の規定トルクの位置へとねじ込まれていく。
ガチィィィィィンッ!!
完璧な噛み合わせの音が、空間に響き渡った。
その瞬間――。
狂乱していた振動がピタリと止まった。
支柱の共鳴が収まったことで、炉の内部で乱反射していた魔力の波が位相を打ち消し合い、急速に安定化。
球体の亀裂から漏れ出していた紫の光はスゥッと内部へと引き戻され、荒れ狂っていた重力場が霧散していく。
ドクン…………ドクン…………。
それは、まるで激しい発作を起こしていた巨人が、穏やかな寝息を立て始めたかのような静けさだった。
球体は淡く暖かな青い光を放ち、定常運転モードへと移行した。
しん、と静まり返る巨大な空間。
ボルトの上に跨がったまま、モンキーレンチを握りしめてゼェゼェと息を切らすロスト。
「……はぁ……はぁ……直った……? 音、消えた……?」
呆然と呟くロストの足元へ、エレナ、シルフィ、ガルドの三人が駆け寄ってきた。
三人は息を呑み、そして一斉に膝をついた。
「……信じられません」
シルフィの声が震えていた。
「神話の炉が放つ概念崩壊の奔流の中へ飛び込み……たった一撃の『楔』を打ち込むことで、荒れ狂う創世の魔力を従えてしまわれるとは……」
「マスター。貴方の肉体耐久性および精神強度は、私の内部計算式の定義域を完全に逸脱しました。……偉大なる調律主よ」
「ロストさん……! あんた、本当に……本当の英雄ッスよ……!!」
ガルドは男泣きに暮れ、床に頭を擦り付けていた。
「いや、だから……」
ロストは力なくレンチを床に落とし、へたり込んだ。
「ネジが緩んでたから締めただけなんだって……。あとガルド、投げ方雑すぎて腰打った。マジで労災申請するからな……」
ロストの弱々しい抗議は、またしても「大業を成し遂げた後の超然とした呟き」として処理され、誰の耳にも届かなかった。
6.そして伝説は加速する
数日後。
王都オルランドの『便利屋ロスト』改め『ロスト最高顧問邸』。
日当たりの良いバルコニーで、ロストは特製の柔らかいクッションに埋もれ、至福の二度寝を満喫……しようとしていた。
「ロスト様! 大変でございますぞ!!」
ドタドタと足音を響かせてバルコニーに飛び込んできたのは、ボルマン財務卿だった。
その後ろには、近衛騎士長ヴァイスの姿もある。
「……何? 今度は何? 俺、もう北の山登りとか二度と行かないよ? 有給使うからね?」
不機嫌極まりない顔で毛布を被り直すロストに、ボルマン卿は感涙にむせびながら一枚の親書を差し出した。
「ガイエス帝国より、直々の国書が届いたのです! 先日の迷宮における貴殿の神懸かり的な調律の御業に、あの冷酷無比なるヴォルケン皇帝が深く恐れ入り、『不可侵条約』の締結を申し入れてまいりました!」
「……は?」
「さらに! 帝国軍の特務部隊長オズワルド大佐なる者が、貴殿の慈悲深き調律に魂を救われたと申し開き、軍を退役して『ロスト様の門下に入りたい』と王都へ向かっているとのこと!」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
ロストは跳ね起きた。
不可侵条約!?
門下生!?
誰だよオズワルドって! 俺は迷宮で誰とも会ってないぞ!?
「陛下も大層お喜びでしてな!」
ヴァイスが胸を叩いて笑う。
「『ロスト殿の一手は、刃を交えずして帝国百万の軍勢を退けた。これぞ不戦の調律である』と! つきましては、王国の守護聖人としての爵位授与式が来週執り行われます!」
「いらない! 爵位とか絶対にいらない!!」
「ふふ、ご謙遜を」
優雅に紅茶を運んできたシルフィが微笑む。
「ロスト様のお名前は、すでに大陸全土の裏組織や魔王軍の残党にまで轟いておりますわ。『触れてはならぬ調律の怪物』として。……皆様、ロスト様の平穏を乱さぬよう、互いに牽制し合っているそうです」
「なんでだよ!! 意味がわからないよ!!」
ロストは頭を抱えてバルコニーの手すりに突っ伏した。
ただ壊れたトースターを直し、
ただ軋む扉に油を差し、
ただ緩んだネジを締めただけなのに。
なぜ世界が平和になり、なぜ自分の周りに危険人物ばかりが増えていくのか。
「誰か……頼むから俺をクビにしてくれぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
青空の下、24歳の便利屋の魂の叫びが木霊した。
だが、その叫びすらも周囲の者たちには「世界の理の重荷を一人で背負う賢者の嘆き」としか聞こえないのであった。




