第二章:万象調律師(※24歳・無職希望)の不本意極まりない王宮謁見
1.白金の絨毯と埃まみれの作業着
王都オルランドの中央にそびえる白亜の王宮。
その最奥に位置する『天蓋の謁見の間』は、重苦しいまでの緊張感に包まれていた。
磨き抜かれた大理石の床には、外光を浴びて煌めく金糸のタペストリーが影を落とし、左右には儀仗用の槍を手にした近衛兵たちが寸分の隙もなく整列している。
玉座に腰掛けるのは、覇気溢れる白髪の偉丈夫――国王オールディス三世。
その脇を、眉間に深い皺を刻んだ財務卿、ギルド本部の最高評議員、そして宮廷魔道士団の筆頭たちが固めていた。
重厚な扉が軋む音とともに開かれる。
「――『万象調律師』ロスト殿、御入来ッ!」
近衛騎士長ヴァイスの朗々たる先導に促され、その男は現れた。
両脇に付き従うのは、完全武装の機巧少女エレナと、魔導杖を優雅に携えた黒衣の魔女シルフィ。そして背筋を伸ばし、己の師に恥じぬよう緊張で顔を強張らせた若き剣士ガルド。
だが、その三人を従える中央の青年――ロストはといえば。
(……帰りたい)
その一言に尽きていた。
油染みの落ち切っていない、使い古された藍色の作業着。
長年屈み込んでネジを締め続けてきたせいで癖になった、かすかな猫背。
寝癖のついた黒髪に、昨夜の二度寝を邪魔されたことを如実に物語る、うっすらとクマの浮いた眠たげな双眸。
周囲の貴族や近衛兵たちは息を呑んだ。
煌びやかな正装で埋め尽くされた大広間にあって、そのあまりにも場違いで薄汚れた姿。だが、彼らの目にはそれが全く別のものに映っていた。
「……見よ、あの作業着を」
「魔導礼装すら纏わず、世俗の権威など歯牙にもかけぬという無言の意志……」
「油と煤の匂いすら、世界の理を直に削り出してきた求道者の香気配に思えるぞ……」
ひそひそと交わされる囁き声に、ロストの背筋が冷たく凍りつく。
(何言ってんのこの人たち!? 洗濯が間に合わなかっただけだよ! ていうか、ヴァイスの野郎が『着替える時間すら惜しい、今すぐ陛下のもとへ!』って工房から力ずくで引っ張り出してきたんだろうが!)
ロストは心の中で血の涙を流しながら、玉座の前に進み出た。
膝を折る作法すらよく知らないロストは、適当にぺこりと腰を折って会釈する。
「えーっと……どうも。ロストです」
近衛兵たちが息を呑む。「無礼な!」と怒号が飛ぶかと思われたが、玉座のオールディス国王は深く頷き、むしろ満足げに口元を歪めた。
「構わん、頭を上げよ、ロスト殿。そなたのような大賢人が、宮廷の形式張った礼節に縛られぬことなど先刻承知。……まずは礼を言おう。我が国を壊滅の危機から救ってくれたこと、余からも深く感謝する」
「あ、いえ……別に大したことはしてないんで……」
「謙遜を。あの神話級の巨兵を、わずか一滴の油と地形の変位のみで封じたというではないか。『無駄な破壊を嫌い、ただ歪みを正す』。まさに失われた古のジョブ【万象調律師】の真髄、見事というほかない」
国王の瞳に熱い光が宿る。
ロストは胃がキュッと締め付けられるのを感じた。
(大したことしてないどころか、本当に油撒いて谷に蹴落としただけなんだって! なんで全部『深遠なる秘術』みたいに解釈されてるの!?)
何とかして誤解を解き、この面倒な場から脱出したい。
ロストは意を決して、24歳・社会の酸いも甘いも(主に面倒くささを)知る一般人としての常識を振り絞り、口を開いた。
「あの、陛下。恐れながら申し上げますが……完全に人違いです。俺はただの便利屋で、壊れた鍋を叩いたり、軋む扉に油を差したりしてるだけの、しがないガラクタ修理屋なんですよ。調律師なんて大層なもんじゃありません」
静寂が謁見の間を包んだ。
ロストは内心で(よし、これではっきり言ったぞ。あとは『なんだ、ただの平民か』と呆れられて報奨金だけもらって帰れれば完璧……!)と胸を撫で下ろしかけた。
だが――
「くっ……ふふ、あはははは!」
沈黙を破ったのは、宮廷魔道士団の筆頭、白髯をたくわえた老魔道士ギルバートの乾いた笑い声だった。
「これは一本取られましたな。自らを『鍋を叩くガラクタ屋』と称されるとは……! ロスト殿、貴殿にとってはこの天地開闢の理、星々を巡る魔力の潮流すらも、手入れの行き届かぬ『鍋』や『扉』と同等に見えているというわけですな!?」
「は? いや、本物の鍋と扉の話をしてるんだけど」
「誤魔化す必要はありませぬ! 空間を『壁』、因果を『蝶番』、そして事象の摩擦を『軋み』と見立てるその抽象概念の極致……! 自らを矮小化することで、我ら凡愚が真理の深淵に触れて発狂するのを防ごうという、深き慈愛とお見受けいたしました!」
「シルフィ」
ロストは引きつった笑みを浮かべたまま、後ろの魔女に小声で耳打ちした。
「あのジジイ、何言ってんの?」
「ふふ、ロスト様。お戯れを」
シルフィは優雅に微笑み、うっとりとロストを見つめ返した。
「あのような三流の術者にも、ロスト様の深淵なる御心の爪先ほどは理解できたようで何よりですわ。『世界を修理する』……ああ、なんて甘美で傲慢な響きでしょう」
「お前も何言ってんの??」
ロストの精神的HPはすでに半分を割り込もうとしていた。
2.宮廷の「歪み」と職人の生理
その時、国王の右隣に控えていた財務卿のボルマンが、冷ややかな視線をロストに向けて歩み出た。
肥満体の体を豪奢なビロードで包み、指先には所狭しと宝石の指輪が光っている。貴族派の重鎮であり、平民上がりの得体の知れない青年が「最高顧問」に就任することを快く思っていない男だった。
「陛下、お待ちを。功績は認めますが、この者を直ちに王室最高顧問に任ずるなど前代未聞。そもそも、神話級の巨兵が倒れたのも、こちらの三人の実力者による偶然の連携が重なっただけかもしれませぬ。……ロスト殿、貴方が真に『理を調律する者』であるならば、この場においてその片鱗をお見せいただきたい」
露骨な挑発だった。
ヴァイス団長が「無礼なぞ、ボルマン卿!」と一歩踏み出そうとしたが、国王は手を挙げてそれを制した。王自身も、ロストの真の力を間近で見てみたいという好奇心に抗えなかったのだ。
「ロスト殿。卿の技芸、余にも一つ見せてはもらえぬか? なに、ちょっとした余興で構わん」
ロストは心底うんざりした。
(余興って何だよ。大道芸人じゃないんだぞ。……だいたい、見せられるような魔法も必殺技もねえよ)
「いや、急に言われても困りますよ。何もないですし」
「ほほう? 何もない、と逃げられますか」
ボルマン財務卿が勝ち誇ったように口端を吊り上げる。
「先ほどは『扉に油を差す』などと大言壮語を吐いておられたが、所詮はハッタリ――」
「あのさ、財務卿さん」
ロストが、苛立ち交じりにその言葉を遮った。
その目は、ボルマンの顔ではなく、彼の手首――そこから下がっている豪奢な鎖の先、懐中時計へと注がれていた。
「……何ですかな?」
「あんたがさっきから動くたびに、カチカチ、チッチッて、秒針のリズムが狂っててめちゃくちゃ耳障りなんだけど」
ロストの眉間に、明確な不快感の皺が寄っていた。
職人としての職業病である。
幼少期からネジや歯車の音に囲まれて育ったロストにとって、「機械の狂った噛み合わせの音」は、黒板を爪で引っ掻く音よりも我慢ならない拷問だった。謁見の間に入った瞬間から、この太った貴族が歩くたびに、胸元から異音が響いていて気になって仕方がなかったのだ。
「な、私の時計だと……!? これは王室御用達の金工細工師が三年かけて組み上げた、ミスリル製の一点物だぞ! 狂いなどあるはずが――」
「あるよ。ほら、ゼンマイの巻きすぎでテンワ(振り子)の軸が左にコンマ数ミリ傾いてる。あと、内部の潤滑油が古くなって粘ってんだよ。安物の香水みたいな匂いが混ざって変質してんじゃん。ほっとくとあと三分で脱進機が焼き付いて粉々に弾け飛ぶぞ、それ」
「な、何を馬鹿な出鱈目を……!」
「貸してみろって」
ロストはため息をつきながら歩み寄り、呆気にとられるボルマンの手から懐中時計をひったくった。
「無礼者、貴様――!」
「エレナ、ピンセット。あと細工用ドライバーの二番」
「はい、マスター」
エレナが即座に、甲冑の隙間から整備用の精密工具をロストの手のひらへ滑り込ませる。
ロストは立ったまま、作業着の袖で時計のガラス面をキュッと拭うと、裏蓋のスリットに爪を引っ掛けてパカリと外した。
その指先の動きは、もはや思考を介していない。
呼吸するように自然で、淀みがなく、あまりにも滑らかだった。
カチッ、チッ、カチッ。
「あー、やっぱり。三番目の歯車に埃が噛んでる。あと油が固まってやがるな」
ロストはポケットから小さなガラス瓶――先ほど工房から持ってきた、ただの植物性精製油を取り出すと、ピンセットの先端にほんの一滴だけ付着させた。
そして、目にも留まらぬ速さで時計の深部、肉眼では捉えきれないほど微小な歯車の隙間へとそれを滑り込ませ、ドライバーの柄で時計の側面をコンと一度だけ叩いた。
チチチチチチチチッ……――チーーン。
澄んだ、涼やかな鐘のような音が広間に響いた。
狂っていた秒針が、まるで命を吹き込まれたかのように、極めて滑らかに、完璧な等間隔で時を刻み始める。
「はい、直った。油の酸化膜を剥がして軸の歪みを直しただけだから。銀貨三枚ね……と言いたいとこだけど、うるさい音が消えて俺の耳が助かったから今回はタダでいいや」
ロストは時計をボルマンの胸元に無造作に押し戻した。
3.深淵の調律(※ただの時計修理です)
謁見の間が、水を打ったように静まり返っていた。
ボルマン財務卿は、震える手で自らの時計を見つめていた。
針の動きが違う。
これまで重々しく軋んでいた秒針が、まるで重力から解き放たれたかのように滑らかに円を描いている。
それだけではない。
時計から微かに立ち上る、清涼な空気――。
「……な、なんだ、これは……?」
老魔道士ギルバートが、腰を抜かさんばかりによろめきながら駆け寄ってきた。
老眼鏡をずり上げ、時計の文字盤を凝視する。
「ば、馬鹿な……!? 時計の内部に圧縮されていた魔力乱流が、完全に消失している……!? それどころか、歯車の回転運動が周囲の微小マナを吸収し、自己修復の永久機関へと昇華しているだと……!?」
「え? 永久機関? ただ油差しただけですけど?」
ロストが怪訝そうに眉をひそめる。
「出鱈目を仰るなッ!」
ギルバートは絶叫した。
「この時計はかつて古代遺跡から発掘されたミスリル鉱石を精錬して作られたもの! その鉱石には『時空の歪み』と呼ばれる微細な魔力毒が含まれており、歴代の持ち主が皆、謎の狂死を遂げていた呪われし遺物なのじゃぞ! ボルマン卿が短命の相を見せていたのも、この時計の呪詛が原因じゃった!」
「え、そうなの?」
ロストは初めて知ったような顔をした。
「いや、呪いっていうか……ただ金属の中に巣(気泡)があって、そこに古い油が溜まってガス出してただけじゃない? ドライバーで叩いて気泡潰しといたから、もう変な毒気配は出ないと思うよ」
「『気泡を潰した』……だと……!?」
ギルバートが膝から崩れ落ちた。
「神代の呪詛……因果の澱みを、物理的な『打擲』一打で霧散させたと申されるのか……!? ああ……なんという神技! まさに【万象調律師】! 物質の最深部に潜む理の歪みを直視し、針の先ほどの介入で宇宙の調和を取り戻す……! これぞ真の奇跡……!!」
「ロスト様……っ!」
ガルドが感動のあまりボロボロと大粒の涙を流している。
「俺たちの見えないところで、またしても人を呪いから救っていたんですね……! 恩着せがましい態度を一切取らず、ただ『耳障りだったから』と悪びれる……! なんて高潔な御方なんだ……!」
「素晴らしい手腕です、マスター」
エレナが淡々と、しかし誇らしげに胸を張る。
「対象の精神汚染要因を〇・〇八秒で完全排除。これ以上の調律デモンストレーションは存在しません」
「いや待て! 待てって!!」
ロストは両手を振り回して叫んだ。
「呪いとか知らないから! 本当に時計の音がチクタクうるさかっただけだから!!」
しかし、その声は誰の耳にも届かなかった。
ボルマン財務卿は自らの傲慢さを恥じ入るように真っ赤になり、やがてドサリと両膝を床についた。
「ロ、ロスト殿……! 浅学非才なるこの身の非礼、何と詫びればよいか……! 私の命を救っていただいたのみならず、我が家の家宝の呪いまで解いてくださるとは……! 今後、財務省はこのボルマンが責任を持って、貴殿のあらゆる活動を財政面から全面的に支援いたしますぞ……!!」
「えっ、支援とかいらないです。関わらないでください」
「おお……なんと無欲な! 『金など不要、世界の調律こそが我が本懐』と仰るか……ッ!」
「人の話を聞けぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
ロストの悲痛な叫びを、玉座からの重厚な拍手が遮った。
パチ、パチ、パチ……。
オールディス国王が立ち上がり、満面に笑みを浮かべていた。
「見事だ。実に見事だ、ロスト殿! 疑念の目を向けた臣下の非礼を咎めることもなく、ただ一打の調律をもってその命を救い、器の大きさを示してみせるとは! ヴァイス!」
「ははっ!」
「直ちに式典の準備を進めよ! 本日をもって、ロスト殿を我がオルランド王国の『特級危険事案専任最高顧問』に正式に任命する! 異論のある者は前へ出よ!」
謁見の間に居並ぶ貴族、騎士、魔道士の誰一人として、口を開く者はいなかった。
皆が一様に畏怖と崇敬に満ちた目で、藍色の作業着を着た24歳の青年を見つめていた。
4.新居(※監獄)と深まる包囲網
その日の夕方。
王都の一等地、貴族街を見下ろす緑豊かな丘の上に建つ、豪奢な白亜の屋敷の前に、ロストは立ち尽くしていた。
広大な庭園、手入れの行き届いた噴水、磨き上げられた鉄柵。
門の前には、近衛騎士団から選抜されたエリート兵たちが直立不動で警備についている。
「……何これ」
ロストの引きつった問いに、荷物を抱えたガルドが満面の笑みで答えた。
「国からロストさんに下賜された屋敷ですよ! あの裏路地の工房じゃ、万が一の暗殺やテロに対応できないからって、王宮が最高ランクの防衛結界付きの屋敷を用意してくれたんです!」
「いらないんだけど……。俺、あの狭くて薄暗い工房が一番落ち着くんだよ……。ここ、トイレ行くまでに迷子になって漏らしそうじゃん」
「ご安心ください、マスター」
エレナがすっと横に並び、機械的な瞳を輝かせた。
「全フロアの動線、防犯設備、ならびに不法侵入者の迎撃トラップの配置はすでに私の演算モジュールにインプット完了しております。マスターが快適に二度寝できるよう、半径五〇〇メートル以内の動体はネズミ一匹たりとも電磁破砕いたします」
「物騒なセキュリティやめろ!!」
ロストは頭を抱えて、屋敷の玄関ホールへとなだれ込んだ。
ふかふかの絨毯、豪奢なシャンデリア。
だが、ロストにとっては息が詰まるような牢獄にしか見えなかった。
ソファーにドサリと身を投げ出し、深く深いため息をつく。
「……終わった。俺の静かなスローライフ計画が完全に崩壊した……」
「何を仰いますの、ロスト様」
いつの間にか淹れたてのハーブティーを持ってきたシルフィが、艶やかに微笑みながらカップを差し出してきた。
「これで煩わしい雑事から解放され、心ゆくまで『世界の調律』に専念できますわ。……そうそう、早速ですが、最高顧問としての最初のお仕事が舞い込んできております」
「断る!! 即答で断る!!」
「ふふ、そう仰ると思いました。ですが、今回は少し厄介ですわよ」
シルフィがテーブルの上に広げたのは、一枚の古びた羊皮紙の地図だった。
王国の北方、険しい山脈の奥深くに、禍々しい紫色の髑髏マークが記されている。
「北方の未踏迷宮『嘆きの黒鉄宮』。神話時代の兵器工廠跡と目される場所ですが……先日の巨兵の破壊に呼応するかのように、最深部の主機が暴走を始めたそうです。現在、周囲数千キロにわたって異常な磁場と空間の歪みが発生し、隣国の帝国軍も調査のために精鋭部隊を派遣したとか」
「……帝国?」
ロストが眉をピクリと動かした。
オルランド王国の北に位置する軍事大国、ガイエス帝国。好戦的な皇帝が統べる、大陸最大の軍事国家だ。
「ええ。帝国の諜報機関も、先日の巨兵を『わずか三手で解体した謎の万象調律師』の存在をすでに掴んでいるはず。もし帝国軍が迷宮の古代兵器を手に入れれば、王国との戦争は避けられません。……ギルド本部と国王陛下は、貴方様にこの迷宮の『調律』を依頼したいと」
「……」
ロストは天井を見上げた。
神話時代の兵器工廠。
暴走するメインエンジン。
暗躍する隣国の精鋭部隊。
(絶対に行きたくない役満じゃねえかぁぁぁぁぁぁぁっ!!)
心の中で全力の絶叫を上げながら、ロストは乾いた笑いを漏らした。
「あのさ、シルフィ。俺、機械の動力炉とか全然わかんないし。専門外だし。山登りとか疲れるから絶対無理」
「まあ、またそのようにご謙遜を。『兵器工廠など、ただの錆びついた鍛冶場に過ぎない』と仰りたいのですね?」
「言ってない! 拡大解釈をやめろ!」
「大丈夫ッスよ、ロストさん!」
ガルドが拳を握りしめ、目を爛々と輝かせた。
「道中の魔物や帝国の雑魚どもは、全部俺とエレナとシルフィさんで消し炭にします! ロストさんは最奥まで行って、いつものように『あー、ここネジ緩んでるね』って言ってポンと叩いてくれればいいんですから!」
「それが一番ハードル高いんだよバカ野郎!!」
ロストの悲痛な叫びは、またしても誰の胸にも響くことはなかった。
その頃、北方の国境付近。
漆黒の軍服に身を包んだ帝国の特務部隊長が、水晶球の向こうの影に向かって跪いていた。
『……オルランド王国に現れた【万象調律師】ロスト、か』
水晶球から響くのは、帝国の冷酷なる支配者、皇帝ヴォルケンの低く冷たい声だった。
『神話の巨兵を、ただの一滴の秘薬と素手の一撃で屠ったと聞く。……奴は何を企んでいる? なぜこれほどの力を持つ者が、今まで裏路地などに身を潜めていたのだ?』
「はっ。諜報部の分析によりますと、奴は『隠居したい』『寝ていたい』と周囲に漏らしているとのこと。……おそらくは、我が帝国の侵攻計画を察知し、敢えて無能を装うことでこちらの出方を伺っているものと思われます。底知れぬ怪物です」
『……ふん。余の目を欺こうというわけか。万象の理を操る賢者ロスト……面白い。奴が北の迷宮へ向かうならば、帝国の総力を挙げて罠にハメてくれる。世界の理ごと、貴様の首をへし折ってやろう』
王都の豪華なソファーの上で「さみぃな、風邪引いたかな……」とくしゃみをしているロストの知らぬ間に、国家規模の包囲網が着々と完成しつつあった。
便利屋ロスト(24歳)。
彼の切なる願いである「平和な二度寝ライフ」への道は、ますます絶望的なまでに遠ざかっていくのであった。




