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「この人、テレビで見たことある」
成瀬はすぐには答えず、写真の方へ目を戻した。
「いつ?」
「先月くらい。母が見てた番組で、演奏してた」
夕食の後だったと思う。俺は同じ部屋で本を読んでいたが、演奏の後に司会者と話しているところは見ていた。何を弾いたのかは思い出せないのに、そのときの顔には見覚えがあった。
写真の下に、成瀬修一という名前があった。
「成瀬って……」
「父」
彼女は写真の端へ視線を落としたまま言った。
「うちの」
俺はもう一度写真を見た。テレビでは少し遠くから映っていたが、同じ顔だった。
「お父さん?」
「うん」
成瀬はページを閉じかけ、指を挟んだまま止めた。俺が次に何か言うのを待っているようだった。
「ヴァイオリンって、お父さんに習ってるの?」
「見てもらうこともあるけど、別の先生についてる」
「昨日、行く予定だったところ?」
「そう」
俺は頷いた。音楽の仕事をしている父親がいて、別の先生のところへ泊まりがけで習いに行く。昨日ケースを置く場所を確かめていたことも、少し違って見えた。俺が本の角を折らないようにするのと同じくらいの話だと思っていたのかもしれない。
「成瀬も、小さい頃から?」
「うん。今も、ずっと習ってる」
返事は短かった。後ろを通ろうとしていた人がいたので、俺は棚へ少し寄った。成瀬も雑誌を閉じ、元の場所へ戻した。
表紙にも父親の名前があった。写真が載っていたページは、公演についての記事らしかった。どんな演奏会なのかまで読もうとする前に、成瀬の指が俺の持っている本へ向いた。
「それで、そっちにしたんだ」
「うん」
「声が想像できる方?」
「そう。こっちの方が、何となく落ち着く」
「表紙も?」
言われて見直した。薄い灰色の地に小さな絵があるだけの、地味な表紙だった。
「表紙は、もう一冊の方が好きだった」
「そっちは譲れるんだ」
「中の方が、長く見るから」
成瀬は一度頷き、俺の手から離れた表紙をもう一度見た。
「まあ、そうだね。私、表紙で選ぶと思う」
「それでもいいんじゃない」
「読んでみて難しかったら?」
「そのときは、別の本を読めば」
成瀬は少し間を置いてから、俺の顔を見た。
「今、結構長く選んでた人が言うんだ」
「俺がそうできるかは、別だけど」
彼女は口元を緩め、レジの方へ身体を向けた。
会計を済ませると、店員がカバーをかけるか尋ねた。俺が頼むと、成瀬は横からその手元を見ていた。紙の端を折り返し、本に沿わせるところまで見届けてから、入口へ歩いていった。
外へ出ると、商店街の店はほとんど開いていた。通りを歩く人も増えていて、俺たちは自転車を押している人を避け、店先の方へ寄った。
「五冊になったね」
成瀬が俺の手元を見て言った。
「帰りは、一冊分重くなるな」
「もう買わない?」
「たぶん」
「それ、また増える返事だと思う」
否定するほど自信はなかったので、俺は本を鞄にしまった。彼女は隣の店の看板を見上げ、次の角の方を覗いた。
「今日は、パンがいいかも」
「昼?」
「うん。昨日、お米だったから」
少し先に、サンドイッチの写真を出している店があった。俺が指さすと、成瀬はそちらへ歩き出した。
店の入口でメニューを見てから、俺たちは中へ入った。成瀬は卵とハムのサンドイッチを選び、俺はチキンのトーストサンドを頼んだ。飲み物が先に運ばれてきて、成瀬はアイスティーのストローを袋から出した。
俺は鞄を椅子の横へ置こうとして、中に入れた本へ手を触れた。買ったばかりの本は、まだカバーが馴染んでいなかった。
少しだけ読もうかと思ったが、成瀬が向かいにいる。俺は本を押し戻して、鞄を下ろした。
「読んでいいよ」
「え?」
「今、出そうとしてたでしょ」
成瀬はメニューの裏側をこちらへ向けた。プリンやケーキの写真が並んでいた。
「私、こっち見てるから」
「まだ頼むの?」
「食べてから考える。先に見るだけ」
それなら、俺が本屋でしていたことと大して違わなかった。礼を言いかけて、何となく頷くだけにした。本を開くと、彼女もメニューへ目を戻した。
最初の話は、男が誰かを迎えに駅へ行くところから始まった。列車が遅れているらしく、同じところを行ったり来たりしている。
「どんな話?」
成瀬はメニューを持ったまま、俺の本を見ていた。
「男の人が、駅に誰かを迎えに行く話。まだ、その人は来てないけど」
「待ってるんだ」
「うん」
成瀬がプリンの写真へ目を戻したので、俺も次のページへ進んだ。
成瀬がコップを置く音がした。俺もアイスコーヒーを一口飲んだ。別の卓では、二人連れの客が一枚の地図を覗き込んでいた。
厨房の方で食器の音がして、店員がトレーを持って出てきた。
「三浦、このプリン、アイスもついてる」
俺は顔を上げ、本を閉じた。
「どれ?」
「ここ。小さく書いてある」
成瀬がメニューを少し押し出した。写真のプリンの後ろに、白いものが半分ほど見えていた。
「生クリームかと思った」
「私も」
俺が説明の文字を読んでいると、彼女は閉じた本へ目を移した。
「続き、読まなくていいの?」
「飯、来たから」
言ってから、テーブルの上を見た。コップが二つあるだけだった。
店員が皿を運んでいったのは、隣の卓だった。成瀬もそちらを見て、俺へ視線を戻した。
「まだだけど」
「……こっちかと思った」
成瀬は何か言いかけて、メニューを引き寄せた。
「じゃあ、来るまでプリンの話していい?」
「いいよ」
「サンドイッチ、どれくらいあるかな」
「写真だと、四つに切ってあったけど」
「四つかあ」
彼女は写真をもう一度見てから、メニューを脇へ置いた。俺も本をテーブルの端へ寄せた。
実物が運ばれてくると、成瀬は一つ持ち上げ、横から厚さを確かめた。食べ始めてからは、しばらくプリンの話は出なかった。
俺の方はパンが焼いてあって、一口かじると、皿に細かな屑が落ちた。成瀬は二つ目のサンドイッチを食べ終えると、ストローで氷を少し動かした。
「午後、ちょっと弾きたいな」
「ヴァイオリン?」
「うん。宿、音を出していいところあるかな」
俺は民宿の部屋を思い浮かべた。隣にはほかの客もいるし、廊下へ出れば話し声も聞こえる。好きなだけ弾いていいとは言えなかった。
「叔母に聞いてみないと。別の場所なら、知ってるかも」
「じゃあ、帰ったら聞いてみる」
成瀬は最後の一つを持ち上げた。俺も残りを食べ、閉じたままだった本を鞄へしまった。
結局、プリンは頼まなかった。会計を済ませて外へ出ると、成瀬は入口のメニューをもう一度だけ見た。
「今度は、おやつの時間に来ようかな」
俺は頷いて、宿へ戻る道へ向かった。




