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 翌朝、食堂へ行くと、成瀬はもう席についていた。スマホを見ていたが、俺に気づくと顔を上げた。


「おはよう」


「おはよう」


 昨夜ほどは、返事をする前に考えずに済んだ。俺は向かいへ座り、持ってきた本を脇に置いた。


 叔母が味噌汁を運んできたところで、成瀬が背筋を伸ばした。


「あの、今日も部屋って空いてますか」


 俺は箸袋を開ける手を止めた。成瀬は叔母を見ていた。


「今日? ええ、空いてるけど」


「できれば、何泊か延ばしたくて」


「お母さんには?」


「朝、メッセージで相談してます。こちらが大丈夫なら、もう一度電話することになってて」


 叔母は頷き、帳場の方を見た。


「先の予約を確かめるから、とりあえず食べてて。お母さんとお話ししてから決めましょう」


「はい。お願いします」


 成瀬は箸を取り、焼き海苔の袋を開けた。俺もご飯に手を伸ばした。今日帰るのかどうか、聞くつもりでいたわけではない。それでも、今の話がどうなるのかは気になった。


「今日は、どこか行くの?」


 先に聞いたのは成瀬だった。


「本屋には、行くかも」


「四冊持ってきたのに?」


「買うかは分からないけど」


 成瀬は俺の横にある本へ目を移した。


「それ、昨日の?」


「うん。まだ途中」


「パン屋は?」


「まだある」


「よかった」


 それだけ言って、彼女は海苔でご飯を巻いた。


 朝食の後、叔母が空室を確かめて戻ってきた。成瀬は礼を言って、スマホを持ち、玄関の方へ移った。俺は食器を下げてから、席で本を開いた。


 ときどき彼女の返事だけが聞こえた。頁をめくったところで叔母が呼ばれ、成瀬と並んで電話を代わった。俺は文章へ目を戻した。


 しばらくして、成瀬が戻ってきた。


「泊まれることになった」


「そうなんだ」


「週末までには帰るって約束で。毎日連絡して、帰る日が決まったら、先に言うことになった」


 彼女は食卓に置いていた鞄を取った。


「先生にも、あとで連絡する」


「うん」


 俺はしおりを挟んだ。成瀬はそれを見て、鞄の紐を肩へ掛け直した。


「本屋、私も行っていい?」


「いいけど。急がないよ」


「じゃあ、用事が済んだら声かける」


 頷いて立つと、廊下から洗濯物の籠を持った叔母が来た。成瀬を見て足を止める。


「昨日濡れたの、どうした?」


「水で流して、部屋に干してます」


「ほかにも洗うものがあるなら、一緒に回すよ」


「いえ、大丈夫です。自分で洗うので」


「洗濯機はこっちにあるから。延ばすなら、着替えも足りなくなるでしょ」


 成瀬は一度自分の服を見下ろした。昨日、部屋で着替えたときと同じズボンだった。


「……お願いしてもいいですか」


「もちろん。洗えるものだけ、持ってきて」


「ありがとうございます」


 成瀬は部屋へ戻りかけて、俺の方を見た。


「ちょっと、やること増えた」


「俺も部屋にいるから」


「分かった」


 自分の部屋へ戻って、本を机に置いた。窓を開けると、向かいの家から掃除機の音が聞こえた。俺は財布の中身を確かめ、スマホを充電器から外してポケットに入れた。


 少しして、戸を叩く音がした。


「三浦、準備できた」


 廊下へ出ると、成瀬は昨日と同じ小さな鞄を持っていた。俺は鍵をかけ、財布を忘れていないかもう一度ポケットを押さえた。


「そうだ。連絡先、聞いていい?」


 成瀬がスマホを出した。


「はぐれたら、宿に電話するしかないから」


「それは、叔母に怒られそう」


 俺もスマホを出し、連絡先を交換した。すぐに成瀬から短いメッセージが届いた。画面を見せると、彼女は自分のスマホをしまった。


「これで大丈夫」


 玄関で靴を履きながら、成瀬が振り返った。


「本屋、遠い?」


「商店街だから、昨日と同じくらい」


「じゃあ、今日はそっちから」


 俺は頷き、引き戸を開けた。


*


商店街には、まだシャッターの下りている店もあった。昨日入った洋食屋の前を通り過ぎ、角を曲がると、書店の入口が見えた。ガラス戸に、雑誌の発売日を書いた紙が貼ってあった。


「ここ?」


「うん」


 戸を開けると、成瀬もついてきた。入口の脇に新刊が積んであり、その奥に文庫の棚がある。俺はまず新刊の表紙をひと通り見てから、奥へ進んだ。


 背表紙を目で追っていると、探していた短編集があった。前に図書館で借りた長編が面白く、同じ作家のものをもう一冊読みたかったのだが、近所の本屋では見つからなかったものだった。


 引き抜いて裏表紙を読み、目次を開いた。


「それ、探してたの?」


 肩の横から声がした。成瀬も同じ棚を見ていた。


「うん。この人の別の本、前に読んで」


「面白かった?」


「面白かった。話の途中で、最初の方を読み直したくなるんだよ。何でもないことだと思ってたのが、後になって気になるから」


「戻って読むの?」


「気になったところだけ」


「先に最後まで読んだ方が、早く分からない?」


 俺は本を持ち直した。早く分かることが目的なら、その方がいいのかもしれなかった。


「答えを知る前に、確かめたいんだと思う」


「当たってるかどうか?」


「そう。大体、外れるけど」


 成瀬が手元を覗き込んだので、表紙を彼女の方へ向けた。


「それは、まだ読んでないんだよね」


「これは初めて」


「じゃあ、同じように面白いかは分からないんだ」


「まあ、そうだけど」


 言われると急に頼りなくなった。俺がもう一度裏返して紹介文を読むと、成瀬は口元を緩めた。


「買うのやめないでよ。私、何も知らないんだから」


「やめないよ」


 言いながら棚へ目を戻したら、少し離れたところに同じ題名があった。そちらも手に取ってみると、違う出版社から出ているものだった。


「二冊ある」


「訳してる人が違うんだ」


「中身も違うの?」


「話は同じだけど、文章は結構違う。こっちは新訳みたいだから」


「新訳って、新しく訳したってこと?」


「うん。前のを直したんじゃなくて、別の人が訳してる」


 俺は二冊を順番に開いた。冒頭の数行を比べると、片方では長く続いていた文が、もう片方では二つに分かれていた。


「ほら、ここ。こっちは途中で切ってる」


 成瀬は少し屈んで、俺の指したところを読んだ。


「本当だ。でも、どっちが正しいの?」


「そこまでは分からない。原文を読めるわけじゃないから」


「読めるのかと思った」


「学校の英語だけで、そんなに読めないよ」


 成瀬は顔を上げ、二冊の厚さを見比べた。


「じゃあ、読みやすい方?」


「必ずそうするわけでもないけど。多少引っ掛かる方が、好きなこともある」


「引っ掛かる?」


「言い方がちょっと古いとか、普通はそう言わないだろってところとか」


 俺はもう一度ページを開きかけた。成瀬が眉を寄せたので、手を止める。


「……読みにくい方がいいってこと?」


「いや、そういうわけじゃなくて」


 説明しようとしたら、さっき言ったことをもう一度言いそうになった。


「例えば、こっちの方が、話してる人の声を想像しやすいんだと思う。俺には」


 成瀬は二冊を交互に見てから、最初に取った方を指さした。


「じゃあ、こっち?」


「今のところは」


「今のところ」


 小さく繰り返されて、俺はもう一冊を棚へ戻した。


「家の近くの古本屋には、もっと古い版もあったんだけど」


「まだあるんだ」


「そのときは買わなかった。次に行ったら、中を見てみようと思ってる」


「近くに古本屋あるの、いいね」


「駅から帰るとき、少し遠回りすれば寄れるんだ。入口のところに安い本が並んでて、奥には結構古いのもある」


 そこまで話してから、俺はまた棚を見た。今手に持っている作家の本が、ほかにも二冊あった。題名は知っていたが、片方は見たことがなかった。


「もう少し見てていい?」


「うん。私も、ちょっと見てくる」


 頷いて、背表紙へ指を伸ばした。


 新しく見つけた方は短編集ではなく、随筆だった。目次に気になる項目があり、そのページを開くと、本の置き場所に困っている話だった。小説を書いている人も置き場所には困るのかと思って読み進めているうちに、立っている足が少し疲れた。


 顔を上げると、成瀬は横にいなかった。


 見てくると言っていたのだから、当然だった。ただ、どれくらい経ったのかは分からなかった。随筆を戻し、スマホで時間を確かめる。店へ入る前に見た時刻から、思っていたより進んでいた。


 俺は最初の短編集だけを持って、棚の端まで歩いた。


 成瀬は雑誌のコーナーにいた。開いたページに片手を添え、もう片方の手で端を押さえている。近づくと気づいて、少し身体をずらした。


「決まった?」


「うん。待たせた?」


「私も見てたから」


 彼女が開いているのは、音楽の雑誌だった。見開きの片側に、ヴァイオリンを持った男の人の写真が載っていた。


 俺はその顔を見て、足を止めた。


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