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夕食の支度が始まる頃、俺は部屋で読んでいた本を閉じ、食堂へ行った。叔母に声をかけると、返事の代わりに茶碗を渡された。
「そっちの四人分、お願い」
言われた卓へ運んでいると、背中を指で突かれた。振り向かなくても誰かは分かった。
「何」
「あとで遊べる?」
従妹の花だった。今年で小学四年生になる。俺たちが浜から戻ったときにはいなかったのに、いつの間にか帰ってきていた。
「飯食べてからなら」
「何する?」
「まだ食ってもないんだけど」
「先に決めとけばいいじゃん」
花は俺の背中についてきた。卓へ茶碗を置こうとしたところで横から覗き込み、どれが自分の分かを確かめる。
「それ私の。ご飯、そんなにいらない」
「自分で母さんに言って」
俺が茶碗を渡すと、花は両手で受け取り、今来た方へ引き返した。その途中で成瀬と行き会った。
「あ」
花が止まったので、成瀬も足を止めた。濡れたズボンは着替えていて、昼間より細い形の紺色のものになっていた。
「こんばんは」
「こんばんは」
花は挨拶を返してから、成瀬の横を抜け、俺のところへ戻ってきた。
「誰?」
「成瀬さん。泊まりに来た人」
「直人の友達?」
「今日、駅で会った」
花はまだ手に持っている茶碗へ目を落とした。考えたあとで顔を上げたが、納得した顔ではなかった。
「今日?」
「うん」
「なんで一緒にいるの?」
昼間から何度か説明したはずなのに、短く答えるのは相変わらず難しかった。俺が口を開く前に、成瀬がそばへ来た。
「電車に乗れなくなって、ここを教えてもらったんだ」
「電車?」
「二人とも。同じのに乗り遅れて」
花は俺と成瀬を順番に見た。
「二人とも走るの遅いの?」
「走る前に閉まったんだよ」
俺が答えると、成瀬は少し口元を押さえた。
「直人、言い訳はあと。花も、そのご飯どうするの」
叔母に呼ばれて、花は茶碗を持ち直した。ようやく台所へ戻ったと思ったら、ご飯を減らしてもらった茶碗と、小鉢を一つ持って帰ってきた。
「これ、成瀬さんの」
「あ、ありがとう」
成瀬が受け取ると、花はその隣の椅子に座った。
焼いた魚と煮物が揃い、俺たちも席についた。奥の卓では、ほかの客がビールを注ぎ合っていた。叔母はそちらへ汁物を運びながら、花に箸を出すよう声をかけた。
花は箸立てから三膳取り、自分と俺の前へ置いたあと、最後の一膳を成瀬へ差し出した。
「あとで、直人と遊ぶんだけど」
「うん」
「一緒にする?」
成瀬は箸を揃え、俺を見た。
「何をするんですか」
「まだ、決まってないです」
「トランプ。さっき決めた」
俺は聞いていなかった。花はもう成瀬の方を向いていて、俺が何か言うのを待ってはいなかった。
「トランプなら、できるよ」
「じゃあ三人ね」
花は頷いて魚に箸をつけた。成瀬も食べ始めたので、俺は味噌汁を飲んだ。帰ってきてから何をするかは、今のところ花が一番よく決めていた。
食事の途中、花が煮物の皿から椎茸を一つ俺の方へ寄せてきた。俺が戻すと、今度は少しだけ位置を変えて寄せてくる。
「位置の問題じゃないから」
小声で言うと、隣から息が漏れた。成瀬は箸を持ったまま、こちらを見ていた。
「いつもやるんですか」
「来るたびにやってます」
「直人、好きじゃん」
「好きだけど、花の分だろ」
花は椎茸を半分に切り、片方を自分の口へ入れた。残り半分は、どちらの分とも言えない位置に置かれたままだった。
*
食後、俺が食器を下げている間に、花は居間でトランプを広げていた。テレビの前の低い卓に三人分の場所を空け、成瀬を手招きしている。
「ババ抜きでいい?」
「いいよ」
成瀬が座ったので、俺も空いている側へ回った。花はカードを混ぜようとして、半分ほどを畳に落とした。
「あ」
「拾ってから配れよ」
「分かってる」
成瀬も手を伸ばした。俺の膝のそばへ滑ってきた一枚を拾って渡すと、彼女は受け取って、花の前に重ねた。
「ありがとうございます」
「いえ」
花が手を止めた。
「直人、学校でもそうやってしゃべるの?」
「どうやって」
「いえ、とか。そうですね、とか」
最後のところだけ妙にゆっくり言った。成瀬が顔を伏せたので、俺は花の手元のカードを見た。
「学校では、普通だけど」
「何年生なの?」
今度は成瀬に聞いていた。
「高校二年生」
「直人と一緒じゃん」
「学校が違うんだよ」
「でも、同じ歳でしょ」
花はカードを配り始めた。俺たちが答えないうちに一周し、成瀬の前へ二枚目を置く。
「じゃあ、私たちも敬語やめます?」
成瀬に聞かれて顔を上げた。
「はい。いいですよ」
彼女は何か言おうとして、先に花を見た。花は口を開けて、俺を指さしていた。
「今のが、そう」
「今からだろ」
成瀬は配られたカードを集めながら、肩を小さく揺らした。
「急には、難しいですね」
「あ、そっちも」
「……難しいね」
言い直すと、花は満足したのか、ようやくカードを配る方へ戻った。
手札を確かめると、同じ数字がいくつか揃っていた。卓へ出している間に、成瀬がこちらを見た。
「呼び方も、三浦でいい?」
「うん。こっちは、成瀬で?」
「はい。あ、うん」
花が何か言いかけたが、成瀬の方が早かった。
「今のは自分で直したから」
「まだ何も言ってないよ」
花は口を尖らせ、俺に向かって手札を広げた。引けということらしい。
「私は、何て呼べばいい?」
俺が一枚選んでいる間に、花はまた成瀬へ顔を向けた。
「真帆でいいよ」
「じゃあ、真帆お姉ちゃん」
「うん」
「直人は直人ね」
「知ってる」
引いたカードは揃わなかった。俺が端に加えると、今度は成瀬が手を伸ばした。
いつもなら、自分の手札を見て待っているだけだった。今日は引かれる方も少し落ち着かない。話し方を変えると決めただけで、何か話す前に一度言葉を選んでしまう。
「これ、取っていい?」
成瀬が端の一枚に触れた。
「どうぞ」
「それは、どっちなの?」
「どうぞは、普通にも言うだろ」
花が笑い、成瀬は選んだカードを抜いた。手元で一枚と合わせ、卓へ置く。その動作が少し早かったので、揃ったのが嬉しかったのだろうと思った。
最初に上がった花は、すぐに成瀬の後ろへ回った。
「見てもいい?」
「いいけど、言わないでね」
花は頷いた。その直後、俺が成瀬の手札へ指を伸ばすと、何も言わない代わりに唇をきつく結んだ。
「花、顔」
「何も言ってない」
「見えるんだよ」
成瀬は一度カードを伏せて混ぜ、広げ直した。花はその間に両手で口を覆ったが、そこまでしなくても黙っていられるはずだった。
俺は真ん中の一枚を引いた。ジョーカーだった。
花が声を出しかけ、成瀬に肘をつつかれた。二人とも口を閉じているので、俺も黙って手札に加えた。
次の順番で成瀬が引いたのは、別のカードだった。彼女の手元で最後の二枚が揃い、俺の指の間にジョーカーが残った。
「もう一回する?」
成瀬は俺へ聞いたあと、返事を待たずにカードを集めかけ、手を止めた。
「するけど。次は花、後ろに回るなよ」
「じゃあ直人の後ろにする」
誰の後ろにも回らないという選択肢は、ないらしかった。
何度か遊んでいるうちに、居間の時計が進んだ。最後の一回と言われてからも花はもう一回と言ったが、叔母が風呂の支度を促すと、ようやく立ち上がった。
「明日もやろうね」
返事を待たずに廊下へ出ていった。成瀬は残ったカードを数え、箱に戻した。俺は座布団を重ねた。
「朝ご飯って、何時?」
「七時半」
「分かった。じゃあ、私も部屋に戻る。母に電話しないと」
「うん」
廊下へ出ると、成瀬は自分の部屋の前で振り向いた。
「おやすみ、三浦」
名前が聞こえて、一度足を止めた。
「おやすみ」
俺はそれだけ返して、自分の部屋へ戻った。
机に置いていた本を持って、布団に入った。しおりのところから読み始めると、さっきまで何を読んでいたのかはすぐに思い出せた。窓の外では、ときどき車が通っていた。
何頁か進んだところで、成瀬と敬語をやめる相談をしたことが、ふと思い返された。
学校では、誰かと話すたびにそんな相談はしない。何度か顔を合わせるうちに、いつの間にか呼び方も話し方も決まっている。わざわざ二人で決めたことが、後になって少し気恥ずかしかった。距離を縮めるにも、俺たちは妙に律儀な手続きをしたらしい。
そう考えると、何となくむず痒い。別に、大したことを決めたわけではないのに。
成瀬は、俺のことを誰かに説明するとき、何と言うのだろう。母親には名前を送っていたけれど、それでは花の「友達?」への答えにはならない。かといって、俺にも適切な呼び方は浮かばなかった。
一日一緒にいただけで、相手との関係に名前をつけようとしている。そのことに気づくと、余計に落ち着かなかった。本人の前では普通に話していたくせに、一人になってから何を考えているのだろう。
本へ目を戻した。途中だった一文を頭から読み直すと、今度はその先まで進めた。
もう少し読んでから、しおりを挟んだ。明日の朝食は七時半だ。忘れないようにアラームをかけ、電気を消した。




