6
階段の上から見る海は、電車の窓から見たときよりずっと広かった。波打ち際で遊んでいる家族連れの向こうを、白い船がゆっくり横切っていた。
成瀬は手すりに触れながら階段を下り、砂に足を取られて一度立ち止まった。俺もその後ろを、歩幅を狭くして下りていく。
「靴、砂が入りますね」
「乾いてるところは、結構沈むので」
俺が答え終える前に、成瀬は波の方へ歩き始めていた。俺は砂の色が濃くなる少し手前で足を止めた。
しばらくして、彼女が振り返った。
「三浦さん、来ないんですか」
「ここで待ってます。靴、濡らしたくないので」
「せっかく来たのに」
「ここからでも見えますよ」
「見るのは、電車でもできました」
それはそうだった。ただ、海を見に行くというのと、海に入るというのは、俺の中では別だった。
成瀬は足元へ来た水から一歩退き、こちらへ戻ってきた。
「じゃあ、私だけ行ってきます」
階段脇の平らなところで靴を脱ぎ、靴下を片方ずつ中へ押し込んだ。薄いベージュのズボンの裾を折り上げてから立ち、小さな鞄を肩に掛け直す。
「そこ、見ててもらっていいですか」
「靴ですか」
「はい。流れないとは思いますけど」
そこまで波が来たら、俺も困る。頷くと、成瀬は裸足で砂の上を歩いていった。さっきより足の置き方が慎重だった。
「冷たっ」
最初の波が足に触れたところで、成瀬が片足を上げた。俺の方を見ると、上げていた足をゆっくり下ろし、裾を直した。
「冷たいですか」
少し声を張って聞くと、成瀬は首を横に振りかけて、途中でやめた。
「最初だけです。今は大丈夫」
それでも次の波が来たときには、足元をじっと見ていた。水が足首まで来て、引いていく。彼女は濡れた砂から足を抜き、さっきより少し先へ置いた。
俺は階段の端に腰を下ろした。膝の上に何もないことに気づいて、そういえば本を置いてきたのだったと思った。
成瀬が足元を覗き込んでいる。何か拾うのかと思ったが、屈みかけてやめ、少し離れたところへ移った。何を見つけたのか聞こうとしたとき、その向こうで波が立った。
「あ、待って」
成瀬は身体を起こして後ろへ下がったものの、足が砂に沈んで、思ったほど進まなかったらしい。水が足首を越え、折った裾に掛かった。
慌ててもう一歩下がり、今度は横へ逃げた。波が引いたあとも、その場で両足を見下ろしていた。
俺は笑ってしまった。裾を濡らさないよう丁寧に折っていたところを、見ていたせいだった。
成瀬が顔を上げた。
「笑いましたよね」
「すみません」
「今の、急に来たんです」
「はい」
「見てるだけだと、楽しそうですね」
俺は口を閉じた。成瀬は濡れた裾をつまみ、肌から離した。近くへ来ると、片方だけ膝の下まで色が濃くなっているのが分かった。
「大丈夫ですか」
「濡れただけです」
返事はすぐに来た。彼女は俺の隣に腰を下ろしかけて、ズボンの後ろを手で確かめてから座った。折った裾をほどくと、中から砂がこぼれた。
「……砂も入りました」
俺は頷いた。そこは、見れば分かった。
「タオル、持ってきてないんですよね」
「俺も、部屋です」
「ですよね」
成瀬は足を少し浮かせた。濡れた足に乾いた砂がついて、靴下を履ける状態ではなかった。
俺は階段の上を見た。下りてくるとき、道の向こうの店先に浮き輪がぶら下がっていた。その横に、タオルも積んであったはずだった。
「上の店で売ってると思います。見てきます」
「あ、私も行きます」
「その足でですか」
成瀬は階段を見上げてから、浮かせていた足へ目を戻した。
「……お願いしてもいいですか」
「はい」
彼女が財布を取り出したので、値段を見てからでいいと伝えた。靴を彼女のそばへ寄せ、階段を上がった。
店には無地のタオルと、イルカの絵が入った少し高いものがあった。俺は無地の方を一枚買い、戻る途中で階段脇の足洗い場を確かめた。
成瀬はさっきと同じ場所に座り、裸足の先を日向へ出していた。タオルを渡すと、顔を上げた。
「ありがとうございます。いくらでした?」
値段を伝えると、彼女は財布から小銭を出した。俺は受け取りながら、足洗い場の方を指した。
「砂、あそこで流せます」
「先に言ってくださいよ」
「今、見つけたので」
成瀬は立ち上がり、靴を片手に持った。
「じゃあ、ちょうどよかったです」
足を洗って靴下を履き直しても、ズボンの裾は濡れたままだった。歩くたびに足へ触れるらしく、成瀬は何度か裾を引っ張った。
「一回、宿に戻りません?」
「そうですね。着替えた方がいいかも」
「はい。座るたびに、どこが濡れてるか考えるの、ちょっと面倒なので」
俺は頷いた。まだ夕食まで時間はあったが、ほかに急いで行く場所もなかった。
帰り道、成瀬は濡れたタオルを畳まず、手に広げて持っていた。風を受けるたびに端がめくれて、彼女はその都度持ち直した。
「海には、ちゃんと入れましたね」
「足だけのつもりだったんですけど」
成瀬が自分の裾を見たので、俺もつられて見た。顔を上げると目が合った。
「今度は笑ってないですよ」
「先に言うと、怪しいです」
そう言って、成瀬は少し笑った。俺も今度は、彼女の顔を見てから笑った。




