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宿へ戻ると、叔母は帳場で電話をしていた。成瀬は玄関で足を止め、俺が靴を脱いでも、その隣で待っていた。
受話器を置いた叔母が、こちらを向いた。
「おかえり。暑かったでしょ」
「ただいま。成瀬が、ヴァイオリン弾けるところないかって」
「少し練習したくて。部屋だと、ほかのお客さんに聞こえますよね」
「そうねえ。昼間も休んでる人がいるから」
叔母は壁の予定表を見てから、帳場の引き出しを開けた。
「文化館なら、練習する部屋があったはず。ここ、歩いても行けるよ」
出してきた案内を、成瀬が両手で受け取った。裏返して施設の写真を見た後、端に書かれた電話番号へ目を落とす。
「聞いてみてもいいですか」
「もちろん」
成瀬はスマホを出し、玄関の隅へ寄った。
空いている時間を聞いてから、口を閉じて相手の話を聞いていた。俺が廊下の窓を開けていると、「明日なら、午後はどうですか」と声がした。
電話を終えた成瀬は、案内を折らずに叔母へ返した。
「明日の一時から、二時間取れました」
「今日はいっぱいだった?」
「はい。でも、明日使えるので」
料金も確認したらしく、スマホに何か打ち込んでいた。昼食のときは、ちょっと弾きたいと言っていただけだったのに、もう明日の予定が決まっていた。
「音を確かめるくらいなら、奥の部屋でどう? 今なら使ってないから。長くは無理だけど」
叔母が食堂の向こうを指した。
「いいんですか。十分くらいで済ませます」
成瀬はスマホをしまい、楽器を取りに階段を上がっていった。
入れ違いに花が下りてきた。片手に鉛筆を持っていて、俺を見ると、その先をこちらへ向けた。
「直人、暇?」
「何」
「分かんないところある」
「宿題?」
「一個だけ」
花について食堂へ行くと、開いたドリルには、まだ何も書いていないページが二つあった。
「一個じゃないけど」
「分かんないのは一個。ほかは、まだやってないだけ」
向こうの廊下で、成瀬が叔母に礼を言う声がした。少しして、細く長い音が聞こえた。同じような音がもう一度続いたところで、花が俺の腕を引いた。
「ここ」
指された問題を読むと、花はもう鉛筆を構えていた。
「まず、自分で式を考えて」
「だから、それが分かんないの」
俺は隣の椅子を引いた。
花が消しゴムを落としたり、消しすぎて紙をよれさせたりしているうちに、奥から聞こえていた音は止んだ。
*
夕方、成瀬が部屋から下りてきたとき、俺は玄関の椅子で本を読んでいた。廊下より風が通るので、少し前に移ってきたところだった。
「ここにいたんだ」
顔を上げると、成瀬はサンダルを片方だけ履いていた。
「出かけるの?」
「少し歩こうと思って。夕飯まで、まだ時間あるよね」
「一時間くらい」
「三浦も来る?」
しおりを挟んで立ち上がると、彼女は残りの片方を履いた。
昼間より暑さは引いていたが、建物の間から差す日にはまだ白っぽい強さがあった。成瀬は道の端の影を選び、俺もその後ろを歩いた。
「どっちに行く?」
「海でいい? 昨日と違う方、歩いてみたい」
「じゃあ、こっち」
宿の前を曲がり、浜へ続く道を下りた。砂浜の手前には舗装された道があり、海沿いに先まで延びている。成瀬は昨日足を洗った水道を見つけると、そちらを指した。
「今日は濡れないから」
「まだ何も言ってないけど」
「昨日、笑ったでしょ」
「それは謝っただろ」
彼女は俺より一歩先へ出て、舗装された方へ曲がった。
浜には、まだ水着の子どもが何人かいた。浮き輪を抱えた子が大人に呼ばれて振り返り、その間に、足元まで波が来た。成瀬はそちらを見ていたが、今度は道から下りなかった。
しばらく歩くと、道が二つに分かれていた。片方は海に沿って続き、もう片方は住宅の間へ入っていく。
「こっちは、どこに行くの?」
「小さい公園がある。その先から商店街に出られる」
「海の方は?」
「もう少し行くと、ベンチがある。そこまでなら、すぐ」
成瀬は両方の道を見てから、俺へ顔を向けた。
「どっちがいい?」
「どっちでも。公園からでも、夕飯には間に合うと思う」
「時間じゃなくて、三浦は」
俺はもう一度、分かれ道を見た。公園も海も何度か来たことがある。歩く距離も大して変わらないので、決める理由がなかった。
「成瀬の行きたい方でいいよ」
「……じゃあ、ベンチの方」
「うん」
歩き出すと、成瀬はすぐにはついてこなかった。振り返るほどの間でもなく、二、三歩進んだところで、隣にサンダルの音が戻ってきた。
ベンチには誰もいなかった。端に落ちていた松葉を手で払ってから座ると、成瀬も少し間を空けて腰を下ろした。
目の前では、犬を連れた人が波打ち際を歩いていた。犬は水へ近づくたびに足を止め、飼い主だけが先へ進んでは戻っていた。
「入るのかな」
成瀬が言った。
「どうだろう」
「あ、行った」
犬は前足を水へ入れたが、次の波が来る前に引き返した。成瀬は膝に置いていた手を少し持ち上げ、そのまま戻した。
「もうちょっとだったのに」
「本人は、あれでよかったんじゃない」
「犬だけど」
「犬でも」
成瀬は海の方を向いたまま、鼻から短く息を漏らした。
風が吹いて、シャツの背中が肌から離れた。座っていると、歩いていたときより涼しかった。
「本屋だと、すぐ奥に行ったよね」
急に言われたので、俺は彼女を見た。
「文庫のところ?」
「うん。入口にも本あったのに」
「新刊は見たよ」
「でも、その後。あっちも見ていいって、自分で言ってたし」
「見たい本があったから」
成瀬はサンダルの先を揃えた。
「散歩だと、ないの?」
「本と散歩は違うだろ。どっちの道でも、歩くのは同じだし」
「私は、結構違うけど」
言い方は強くなかった。俺は海と、来た道を順に見た。景色が違うことなら、さっき自分で説明していた。
「公園の方がよかった?」
「そうじゃないよ」
成瀬はこちらを向きかけ、途中で視線を落とした。
ベンチの横に、空のペットボトルが転がっていた。その先に自動販売機があるのが見えて、俺は立ち上がった。
「何か飲む? 俺、買ってくるけど」
「……見てから決める」
成瀬も腰を上げた。
自動販売機の前で、彼女は上の段から順番に見ていた。俺が麦茶のボタンを押すと、その手元を見た。
「それ、昨日も飲んでなかった?」
「飲んだ」
「好きなんだ」
「甘くない方が、喉渇いたときはいいから」
成瀬は何か考えるように並んだ缶を見てから、桃の炭酸を選んだ。
「お茶にしないんだ」
「今、飲みたいのはこっち」
取り出した缶を頬に当ててから、彼女は蓋を開けた。小さく泡の弾ける音がして、飲み口を覗き込む。
俺たちはベンチには戻らず、そのまま宿の方へ歩いた。
帰り道で成瀬は、明日の文化館まで、どのくらいかかるのか聞いた。歩いて二十分くらいだと答えると、昼ご飯を食べてからでも間に合うね、と言った。
「道、分かる?」
「大体は。地図見れば」
「大体なんだ」
「しばらく行ってないから」
成瀬は缶を口から離した。
「じゃあ、早めに出ようよ」
俺が頷くと、今度は彼女も、そのまま歩き続けた。




