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夕食の後、食堂の隣で本を読んでいると、成瀬がスマホを持って下りてきた。叔母は畳んだタオルを運んでいるところで、階段の前で足を止めた。
「真帆ちゃん、洗濯物、乾いたから部屋に置いといたよ」
「ありがとうございます。すみません、気づかなくて」
「窓側の椅子のところね」
成瀬はもう一度礼を言い、俺の向かいへ座った。スマホを机に置いてから、肩に掛かっていた髪を後ろへ戻した。
「お母さん?」
「うん。明日の練習する場所、何ていうところって。名前送ったら、電話してる間に調べてた」
「早いな」
「歩いて行けるって言ったのに、地図まで見てた。お昼はちゃんと食べてから行きなさいって」
画面を確かめながら言って、成瀬は短く指を動かした。それからスマホを伏せ、俺の手元へ目を向けた。
「今日買った本?」
「うん」
「面白い?」
「まだ、最初の話の途中だけど」
「そっか」
成瀬は机の端へ腕を置いた。俺が開いたページへ目を戻しかけると、「あのさ」と続けた。
「今日、本屋でお父さんのこと話したでしょ」
「うん」
「ああいうとき、大体お父さんの話になるんだよね。テレビで見たとか、家でもあんな感じなのかとか」
俺は本にしおりを挟んだ。テレビで見たとは、俺も言っていた。
「でも三浦、お父さんに習ってるのかとか、小さい頃から弾いてるのかとか、聞いたじゃん」
「聞いたね」
「私の方の話になったから。ちょっと嬉しかった」
成瀬はそう言って、俺の返事を待った。
「そっちの方が気になったから」
「うん」
返事はそれだけだったけれど、彼女は机に置いた腕を少し引き、椅子へ座り直した。俺も閉じた本を脇へ置いた。
あのとき何を考えて質問したのか、改めて思い返すほどのことはなかった。目の前に成瀬がいて、ヴァイオリンを習っていると知っていたから、聞いたのだと思う。父親の演奏について話せるほど、俺はテレビをきちんと見てもいなかった。
けれど、成瀬はそれを夜まで覚えていた。俺が何となく聞いたことと、彼女が聞かれて嬉しかったことは、同じ質問だったらしい。普段はどんなふうに会話が進むのだろう。父親のことを聞かれて答えているうちに、成瀬自身の話をする暇がなくなることもあるのかもしれなかった。
「お父さんの話、よく聞かれるんだ」
「分かる人にはね。全然知らない子もいるよ」
「俺も、名前だけだったら分からなかったと思う」
「写真、あってよかったね」
「よかったのかな」
成瀬は少し笑ってから、伏せたスマホを机の奥へ寄せた。
「別に、お父さんの話をしたくないわけじゃないんだけど」
「うん」
「聴いてもらうのも、嫌じゃないし。緊張はするけどね」
食堂の方から、叔父が食器を重ねる音が聞こえた。成瀬は一度そちらを見てから、また俺へ顔を戻した。
「前に、練習してたら、お父さんが途中で部屋に入ってきたことがあって」
「うん」
「止めようとしたら、そのまま弾いてって。それで、最後まで聴いてから、今の弾き方、好きだなって言ったの」
「褒められたんだ」
「うん。でも、その後すぐ、別のところ直された」
俺が顔を上げると、成瀬は口元を緩めていた。
「そこだけ褒めて終わりには、ならないんだ」
「ならない。でも、最初に言った方も覚えてるから」
彼女は机の縁を指先で一度なぞった。
「直されたところより、そっちの方がよく覚えてるかも」
「そっか」
「だから、帰りたくないとか、そういうのじゃないよ」
俺は頷いた。父親の言葉を話しているときの成瀬は、俺に何か弁解しているようには見えなかった。今も、そのとき言われたことを少し喜んでいるように見えた。
「明日も、自分で練習する場所、取ってたしな」
「うん。弾きたいのは、弾きたいんだよ」
そこで成瀬は言葉を切った。少し考えてから、机へ落としていた視線を上げる。
「ただ、レッスンが終わると、次までにこれをやろうってなるでしょ。その前に本番があったら、そっちの準備もして」
「夏休みでも?」
「うん。学校がない分、時間はあるし。終わったらゆっくりしようと思ってても、その頃には次の予定があるんだよね」
成瀬は指先を引っ込め、両手を膝に置いた。
「嫌な予定ばっかりってわけでもないんだけど。楽しみにしてるのもあるし」
「それでも、忙しいんだ」
「忙しい……のかな。ずっと何かしてるわけじゃないよ。本番の後、何もしたくなくて寝てる日もある」
俺には、そちらの方が想像しやすかった。何もせずに一日を終えることなら、夏休みが始まってからもう経験していた。
「でも、今日みたいなのは、あんまりないかも」
「今日?」
「朝起きて、今日は何しようって考えるの。本屋に行って、ご飯食べて、それから練習する場所を探して」
成瀬はそこまで言うと、少し首を傾げた。
「明日のこと、今日決めたんだなって。電話した後で、何か変な感じがした」
俺は昼間、玄関で電話をしていた彼女を思い出した。空いている時間を聞いて、料金を確かめ、戻ってきたときにはもう予約を済ませていた。迷うことが少ない人なのだと思っていた。
海へ行くと言ったのも成瀬だった。今日の昼にパンを選んだのも、夕方、ベンチの方へ歩こうと決めたのも彼女だった。一緒にいると次に何をするかが決まっていくので、普段からそうなのだと、いつの間にか思っていたらしい。
けれど、俺が知っているのは、昨日あの電車に乗れなかった後の成瀬だけだった。本当なら今日もレッスンを受けていたはずで、その次に何があったのかは知らない。俺の前で行き先を決める彼女と、次の予定を考えながら練習している彼女は、どちらも成瀬なのだろう。ただ、後の方には会ったことがなかった。
「三浦は?」
「え?」
「朝起きてから、何するか決めたりする?」
「するよ。決めないまま昼になることもあるけど」
「お昼になったら?」
「とりあえず、飯食べる」
成瀬は口を開きかけて、それから肩を小さく揺らした。
「そっか。そうなるね」
俺も少し笑った。そう言われると、自分の夏休みの使い方が随分いい加減に聞こえた。成瀬の方は、笑い終わってからも、何か考えるように机へ目を落としていた。
昨日、駅で聞いた「今回は、行かないです」という声が浮かんだ。遅れても行けるのに、行かないと決めたときの声だった。あのとき彼女がやめたのは、一泊二日のレッスンだけだったのだろうか。今になって気になったが、どう聞けばいいのか考えているうちに、廊下から花が来た。
「直人、明日もいる?」
「いるよ」
「真帆お姉ちゃんも?」
「いるよ」
成瀬が答えると、花は机に両手をついた。
「じゃあさ、明日――」
「花、歯磨きした?」
食堂から叔母の声がした。花はそちらを見ずに、小さく首を振った。
「先に磨いておいで。もう寝る時間」
「明日の話してるの」
「明日の朝でもできるでしょ」
花は不満そうに机から手を離した。去り際にもう一度こちらを向き、忘れないでよ、と言って洗面所へ歩いていった。まだ何の約束もしていなかった。
成瀬はその背中を見送ってから、スマホを取った。
「私も、そろそろ上がろうかな」
「うん」
椅子を戻した彼女と一緒に、俺も本を持って立った。
階段では、成瀬が先を歩いていた。花の話をするでもなく、二人分の足音が続いた。さっきのことを聞くなら、まだ聞けた。
ただ、立ち上がった相手を呼び止めてまで聞くと、答えを求めているようになりそうだった。もう少し話したければ、成瀬から話すだろう。そう思って、俺は手の中の本を持ち直した。
「明日も、朝飯七時半だって」
成瀬が振り返った。
「うん。ちゃんと起きるよ」
二階に着くと、彼女は自分の部屋の前で足を止めた。
「おやすみ」
「おやすみ」
ドアが閉まるのを見てから、俺も部屋へ戻った。




