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駅から十五分ほど歩くと、見覚えのある民宿の看板が見えた。玄関の引き戸を開けて声をかけると、奥から叔母が出てきた。腰に巻いたエプロンで手を拭きながら、まず俺を、それから後ろの成瀬を見た。
「お疲れ。暑かったでしょ」
「うん。ただいま」
俺が鞄を置く横で、成瀬はケースを肩から下ろした。
「急にすみません。成瀬です」
「佐野真紀です。直人の叔母です。とりあえず、中へどうぞ」
玄関脇の帳場には扇風機が置いてあり、台の上の紙を飛ばさないよう、端に電卓が載せてあった。叔母は俺たちに腰掛けを勧めたが、自分は台の向こうに立ったままだった。
「直人、駅で知り合ったって書いてあったけど、今日?」
「うん。俺が鞄を間違えて、それで電車に乗れなくなって」
「二人とも?」
「そう」
説明すると、叔母は俺の鞄と成瀬の鞄を見比べた。
「それで、泊まる話になったの?」
そこまでを一息で説明できる気がせず、俺は成瀬を見た。
「私が、こっちに来たいと言ったんです。三浦さんには、空いているか聞いてもらっただけで」
「そう。お母さんとは連絡ついた?」
「メッセージは。今、電話してもいいですか」
「お願いします。部屋はあるけど、お母さんが知らないまま泊めるわけにはいかないからね」
成瀬は頷いてスマホを取り出した。画面を触る指が一度止まってから、通話を始めた。
「もしもし。着いた。……うん、さっき送った民宿」
叔母は宿の案内を一枚出し、成瀬の前へ置いた。住所と電話番号が下に印刷されている。俺は立ち上がって扇風機の首を少し動かした。成瀬のところまでは風が届いていなかった。
「大丈夫。今、座ってる。……お昼は、まだ」
成瀬は案内の角を指で押さえていた。母親の声は聞こえない。何度か頷いたあと、目を伏せた。
「今から帰っても……うん、帰れるけど」
言いかけたまま、相手の話を聞いていた。ケースに添えたもう片方の手が、持ち手を握り直す。
「先生には、駅で電話した。……うん、帰ってからも、私から話す」
受話口から耳を離し、こちらを見た。
「すみません、ここ、駅の名前と町の名前は同じですか」
「同じです。汐見町。この下に住所があります」
俺が指したところを見て、成瀬は住所を読み上げた。それから、案内の紙を膝に置いた。
「心配させて、ごめん。でも、今日はここにいたい」
俺は自分の鞄を足に引き寄せた。玄関から見れば、通るのに邪魔な位置だった。さっきはそこまで考えずに置いていた。
「一晩だけ。ちょっと落ち着きたい。明日のことは、ちゃんと電話するから」
成瀬は返事を待った。今度は途中で口を挟まず、最後に一度だけ頷いた。
「うん。宿の方に代わる」
叔母がスマホを受け取った。名乗ったあと、宿の場所と連絡先を伝え、成瀬に用意するのは鍵のかかる個室で、俺とは別の部屋になることを説明した。
「はい、今も一緒におります。ご心配ですよね。こちらでも何かあれば、すぐにご連絡します」
数時間前まで知らなかった相手の宿泊について、俺の叔母と、その子の母親が話している。俺は二人の鞄を見た。どうしてこんなことになったのだろうと思ったが、叔母に聞かれたときより、うまい説明が浮かんだわけではなかった。
成瀬は俯いて、膝の上で両手を重ねていた。叔母は一泊分の料金を伝え、相手の返事を聞いてから、彼女へスマホを返した。
「今夜は泊まっていいって。お母さんと、もう一度話して」
成瀬は顔を上げ、スマホを受け取った。
「……うん。分かった。夜も連絡する。ありがとう」
通話が切れても、少しの間、スマホを耳のそばに持ったままだった。叔母が宿泊の紙とペンを差し出すと、ようやく手を下ろした。
「これを書いておいて。お水持ってくるから」
「ありがとうございます」
成瀬が名前を書き始めたので、俺は靴を脱ぎかけた。叔母が奥へ戻る前に、こちらを見た。
「直人は、いつもの部屋。布団、まだ出してないから、自分でお願い」
「分かった」
成瀬は住所と連絡先を書き終えると、紙の上にペンを置いた。スマホを確かめ、短く何かを送ってから鞄へしまう。
「三浦さん」
顔を向けると、成瀬は俺を見ていた。
「ありがとうございました。聞いてもらって」
「部屋、空いててよかったですね」
「はい」
返事をしたあとで、成瀬はケースを持ち直した。もう帰りの電車を調べなくてよくなったのだと、そこで俺もようやく思った。
叔母が水を持ってきた。俺の分も台に置き、宿泊の紙に目を通してから、成瀬へ部屋の鍵を渡した。
「二階の廊下の奥です。直人、案内してあげて」
奥から洗濯機の音がして、叔母はそちらへ振り返った。
水を飲んでから、俺たちは靴を脱いだ。成瀬は自分の靴を揃え、渡された鍵の札に目を落とした。
「二階ですか?」
「そうです。こっち」
俺は自分の鞄を持って廊下へ上がり、階段へ向かった。成瀬が後ろからついてくる。二階の客室の前で、足を止めた。




