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3

 電車に乗ってからも、女の子はしばらくスマホを見ていた。


 俺たちは向かい合わせの席に座り、それぞれの鞄を足元へ置いた。彼女は黒いケースを膝の間に立て、片手で支えている。俺の鞄には持ち手から糸が出ていたので、今度は確かめるまでもなかった。


 町までは一時間と少しかかる。窓の外で駅前の建物が途切れたところで、俺は鞄から本を取り出した。


「あ、名前」


 開こうとした手を止める。彼女はスマホから顔を上げていた。


「まだ聞いてなかったですよね」


「三浦です。三浦直人」


「私は成瀬真帆です」


 成瀬は自分の名前をスマホに打ち、画面をこちらへ向けた。俺も口で漢字を説明したが、直人の方を言い終わる前に、彼女はもう入力していた。


「これで合ってます?」


「はい」


「お母さんに、誰といるのって聞かれてて」


 なるほどと思った。俺も叔母に、誰を連れてくるのか聞かれたときには、駅で会った人としか答えられなかった。今もそういう人であることに変わりはないけれど、少なくとも名前は送れる。


 名前に続けて高校二年生だと伝えると、成瀬も同じ学年だった。俺たちは別々の相手に連絡を送り、ほとんど同時にスマホを下ろした。


「三浦さんは、あっちによく行くんですか」


「小さい頃は、夏休みに毎年。去年も行きました」


「じゃあ、詳しいんですね」


「宿の近くなら」


「何があるんですか?」


「海と、商店街と……坂が結構あります」


「坂」


 成瀬が俺の足元の鞄を見た。たぶん、荷物を持って歩くところを想像したのだろう。


「駅から宿までは、そんなに上らないです」


「それはよかったです。私、もう少し楽しそうなものが出てくるかと思ってました」


 言われてから、ほかにも何かあったはずだと考えた。母と一緒に行っていた頃には、観光客向けの船に乗ったこともある。ただ、どこから乗ったのかは覚えていなかった。曖昧なまま勧めて、船着き場を探して歩くことになるのも困る。


「予定はないって言ってましたけど、向こうでは何をするんですか」


「叔母の手伝いは、たぶんさせられますけど」


「それ以外は?」


「本を読んだり、海に行ったり」


「本って、それですか」


 俺が膝に置いていた文庫を指して、成瀬は首を傾げた。


「それは、家でも読めません?」


「読めますね」


 答えると、彼女は続きを待っている顔をした。俺は表紙に目を落としたが、そこに理由が書いてあるわけでもなかった。


「向こうでも読めるので、持ってきました」


「何冊も?」


「これを入れて四冊です」


「四冊。だから重そうだったんですね」


 鞄を返したときのことを言っているらしかった。彼女に持たせた覚えはないが、俺が自分の鞄を持ち上げるところは見られている。


「全部読めるかは分からないですけど」


「じゃあ、一冊でもよかったんじゃないですか」


「読み終わったら、次が欲しくなるので」


 成瀬は少し笑った。俺としては、着替えを多めに持ってくるのと大して違わなかった。ただ、そのせいで重くなったことは、今朝から何度も後悔している。


「それ、どんな話ですか」


「昔住んでいた町に、男の人が帰る話です。今は、子供の頃に通っていた道を歩いてます」


「何か起きるんですか?」


「この先は、まだ読んでないので」


「そこまでじゃなくて。今、何が面白いのかなって」


 俺はしおりを挟んだページを開いた。筋を説明すればいいと思っていたけれど、そういう質問ではなかったらしい。


「この道、突き当たりにパン屋があるんです。そこまでの家とか、曲がり角とかが書いてあって」


「はい」


「読んでると、歩けそうな気がするんです。自分でも」


「行ったことないのに?」


「ないから、勝手に考えられるというか。パン屋まで行って、ここを曲がれば川なんだな、とか」


「川も書いてあるんですか」


「あります」


「じゃあ、勝手に考えたのはどこですか?」


 俺は開いたページを見直した。言われてみると、今挙げたものは全部ここに書いてある。


「道の幅とか。家の色とかですかね。書いてないところを、自分の知ってる場所から借りてるんだと思います」


「ああ。ちょっと分かりました」


 成瀬は窓の方を見た。住宅の隙間に小さな畑があり、端に置かれた青いバケツがすぐ後ろへ流れていった。


「そのパン屋、もうなくなってたりしません?」


「今のところ、あります」


「よかった」


 俺もそこは同じだった。まだ読んでいない数ページの間に閉店している可能性はあるけれど、確かめるために先をめくるのはやめておいた。


 スマホが震えた。叔母からだった。今夜は空いている。ただし、お母さんと話してから。短い文の後ろに、着く時間を知らせて、と続いていた。


 画面を見せると、成瀬は身体を少し前へ倒した。膝の間のケースも一緒に傾き、彼女はすぐに手で引き寄せた。


「ありがとうございます。母には、着いたら電話します」


「そのケース、ヴァイオリンですか」


「はい」


「弾くんですね」


 言ってから、持っている人に聞くことではなかったと思った。成瀬はケースを見下ろして、持ち手の向きを直した。


「弾きます。今日は、持ってるだけですけど」


 レッスンへ行くはずだったのだから、そうだろう。俺は頷いて、到着時刻を叔母へ送った。


 成瀬も何かを打ち終え、スマホをしまった。こちらを見て口を開きかけたが、俺の手元へ目を移した。


「読んでていいですよ。すみません、途中なのに」


「まだ、さっきと同じページなので」


「それ、私が話しかけるからですよね」


「いえ、電車に乗る前からです」


 そう言ってから、あのとき本を閉じるのが遅れたことを思い出した。成瀬も思い出したのか、何か言いたそうに俺を見て、結局、窓へ顔を向けた。


 俺は本を開いた。車内放送が入るたびに行き先を確かめ、二つほど駅を過ぎた。その間、成瀬はケースに手を添えたまま、窓の外を見ていた。さっきまでのように、こちらが顔を上げるたびに何かを尋ねてくることはなかった。


 線路が曲がり、傾いた本を持ち直したときだった。


「あ、海」


 小さな声につられて顔を上げた。家並みの向こうに青い帯が見え、すぐに広がった。


 俺はしおりを挟んで本を閉じた。成瀬が窓の端を指さしている。その先には、砂浜へ下りる細い階段があった。


「あそこ、人がいます」


「釣りですかね」


「泳いでるんじゃないですか?」


 確かめようと身を乗り出したところで、防風林が間に入った。俺たちは同じ方向へ首を動かしたが、もう見えなかった。


 もう一度海が見えるまで、本は開かなかった。

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