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電車に乗ってからも、女の子はしばらくスマホを見ていた。
俺たちは向かい合わせの席に座り、それぞれの鞄を足元へ置いた。彼女は黒いケースを膝の間に立て、片手で支えている。俺の鞄には持ち手から糸が出ていたので、今度は確かめるまでもなかった。
町までは一時間と少しかかる。窓の外で駅前の建物が途切れたところで、俺は鞄から本を取り出した。
「あ、名前」
開こうとした手を止める。彼女はスマホから顔を上げていた。
「まだ聞いてなかったですよね」
「三浦です。三浦直人」
「私は成瀬真帆です」
成瀬は自分の名前をスマホに打ち、画面をこちらへ向けた。俺も口で漢字を説明したが、直人の方を言い終わる前に、彼女はもう入力していた。
「これで合ってます?」
「はい」
「お母さんに、誰といるのって聞かれてて」
なるほどと思った。俺も叔母に、誰を連れてくるのか聞かれたときには、駅で会った人としか答えられなかった。今もそういう人であることに変わりはないけれど、少なくとも名前は送れる。
名前に続けて高校二年生だと伝えると、成瀬も同じ学年だった。俺たちは別々の相手に連絡を送り、ほとんど同時にスマホを下ろした。
「三浦さんは、あっちによく行くんですか」
「小さい頃は、夏休みに毎年。去年も行きました」
「じゃあ、詳しいんですね」
「宿の近くなら」
「何があるんですか?」
「海と、商店街と……坂が結構あります」
「坂」
成瀬が俺の足元の鞄を見た。たぶん、荷物を持って歩くところを想像したのだろう。
「駅から宿までは、そんなに上らないです」
「それはよかったです。私、もう少し楽しそうなものが出てくるかと思ってました」
言われてから、ほかにも何かあったはずだと考えた。母と一緒に行っていた頃には、観光客向けの船に乗ったこともある。ただ、どこから乗ったのかは覚えていなかった。曖昧なまま勧めて、船着き場を探して歩くことになるのも困る。
「予定はないって言ってましたけど、向こうでは何をするんですか」
「叔母の手伝いは、たぶんさせられますけど」
「それ以外は?」
「本を読んだり、海に行ったり」
「本って、それですか」
俺が膝に置いていた文庫を指して、成瀬は首を傾げた。
「それは、家でも読めません?」
「読めますね」
答えると、彼女は続きを待っている顔をした。俺は表紙に目を落としたが、そこに理由が書いてあるわけでもなかった。
「向こうでも読めるので、持ってきました」
「何冊も?」
「これを入れて四冊です」
「四冊。だから重そうだったんですね」
鞄を返したときのことを言っているらしかった。彼女に持たせた覚えはないが、俺が自分の鞄を持ち上げるところは見られている。
「全部読めるかは分からないですけど」
「じゃあ、一冊でもよかったんじゃないですか」
「読み終わったら、次が欲しくなるので」
成瀬は少し笑った。俺としては、着替えを多めに持ってくるのと大して違わなかった。ただ、そのせいで重くなったことは、今朝から何度も後悔している。
「それ、どんな話ですか」
「昔住んでいた町に、男の人が帰る話です。今は、子供の頃に通っていた道を歩いてます」
「何か起きるんですか?」
「この先は、まだ読んでないので」
「そこまでじゃなくて。今、何が面白いのかなって」
俺はしおりを挟んだページを開いた。筋を説明すればいいと思っていたけれど、そういう質問ではなかったらしい。
「この道、突き当たりにパン屋があるんです。そこまでの家とか、曲がり角とかが書いてあって」
「はい」
「読んでると、歩けそうな気がするんです。自分でも」
「行ったことないのに?」
「ないから、勝手に考えられるというか。パン屋まで行って、ここを曲がれば川なんだな、とか」
「川も書いてあるんですか」
「あります」
「じゃあ、勝手に考えたのはどこですか?」
俺は開いたページを見直した。言われてみると、今挙げたものは全部ここに書いてある。
「道の幅とか。家の色とかですかね。書いてないところを、自分の知ってる場所から借りてるんだと思います」
「ああ。ちょっと分かりました」
成瀬は窓の方を見た。住宅の隙間に小さな畑があり、端に置かれた青いバケツがすぐ後ろへ流れていった。
「そのパン屋、もうなくなってたりしません?」
「今のところ、あります」
「よかった」
俺もそこは同じだった。まだ読んでいない数ページの間に閉店している可能性はあるけれど、確かめるために先をめくるのはやめておいた。
スマホが震えた。叔母からだった。今夜は空いている。ただし、お母さんと話してから。短い文の後ろに、着く時間を知らせて、と続いていた。
画面を見せると、成瀬は身体を少し前へ倒した。膝の間のケースも一緒に傾き、彼女はすぐに手で引き寄せた。
「ありがとうございます。母には、着いたら電話します」
「そのケース、ヴァイオリンですか」
「はい」
「弾くんですね」
言ってから、持っている人に聞くことではなかったと思った。成瀬はケースを見下ろして、持ち手の向きを直した。
「弾きます。今日は、持ってるだけですけど」
レッスンへ行くはずだったのだから、そうだろう。俺は頷いて、到着時刻を叔母へ送った。
成瀬も何かを打ち終え、スマホをしまった。こちらを見て口を開きかけたが、俺の手元へ目を移した。
「読んでていいですよ。すみません、途中なのに」
「まだ、さっきと同じページなので」
「それ、私が話しかけるからですよね」
「いえ、電車に乗る前からです」
そう言ってから、あのとき本を閉じるのが遅れたことを思い出した。成瀬も思い出したのか、何か言いたそうに俺を見て、結局、窓へ顔を向けた。
俺は本を開いた。車内放送が入るたびに行き先を確かめ、二つほど駅を過ぎた。その間、成瀬はケースに手を添えたまま、窓の外を見ていた。さっきまでのように、こちらが顔を上げるたびに何かを尋ねてくることはなかった。
線路が曲がり、傾いた本を持ち直したときだった。
「あ、海」
小さな声につられて顔を上げた。家並みの向こうに青い帯が見え、すぐに広がった。
俺はしおりを挟んで本を閉じた。成瀬が窓の端を指さしている。その先には、砂浜へ下りる細い階段があった。
「あそこ、人がいます」
「釣りですかね」
「泳いでるんじゃないですか?」
確かめようと身を乗り出したところで、防風林が間に入った。俺たちは同じ方向へ首を動かしたが、もう見えなかった。
もう一度海が見えるまで、本は開かなかった。




