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鞄のファスナーを閉めても、女の子はまだスマホを見ていた。
「バス、次のはないんですか」
「あります。でも、これだと着くのがお昼過ぎで」
彼女は時刻表をもう一度見上げた。
「レッスン、もう始まってるので」
俺は肩に掛かった黒いケースを見た。何かの楽器だろうとは思っていたけれど、それを習いに行く途中だったらしい。
「連絡したら、途中からでも……」
「はい。行けるとは思います」
それならよかったと言いかけて、やめた。遅れた分がなくなるわけではないし、その連絡をしなければならなくなったのも俺のせいだった。
女の子は画面に指を置いたまま、何も打たなかった。やがてスマホを持つ手を下ろし、俺を見た。
「お兄さんは、どこまで行くんですか」
「汐見町です。叔母が民宿をやってるので、そこに」
「海の方ですよね」
「はい」
「何かあるんですか。あっちで」
「特には。夏休みなので、しばらく泊まろうと思って」
彼女は路線図へ目を移した。目的の駅を探しているようだったので、俺は終点に近いところを指さした。
「ここです」
「結構、先ですね」
「一時間ちょっとかかります」
俺が指を下ろしてからも、頷いた彼女はそこを見ていた。
「……私も、そっちに行っていいですか」
「汐見町に、ですか」
「はい」
「レッスンは?」
彼女はスマホへ目を落とした。遅れて行けると言ったばかりだったので、俺は聞き間違えたのかと思った。
「今回は、休もうと思います」
「今日だけなんですか」
「いえ、一泊二日です」
今日遅れるというだけではなく、明日も行かないということだった。俺は彼女が下ろしたスマホを見てから、顔へ視線を戻した。
「途中からでも行けるんですよね。本当に、休んでいいんですか」
女の子はすぐには答えなかった。もう一度画面を確かめ、親指を動かしかけて止めた。
「行けます。でも……今回は、行かないです」
言い終えてから画面を消し、彼女はこちらを向いた。
「先生には、私からそう伝えます」
俺は頷いた。怒っているようには見えなかった。かといって、休みになって嬉しそうな顔でもなかった。
「その民宿って、今日、泊まれますか」
「空いてるかは、聞いてみないと」
「あ、そうですよね。すみません」
彼女は足元の鞄をベンチの脇へ寄せた。俺も通路から一歩下がり、スマホを出した。
鞄を返して謝ったところまでは分かる。そこからどうして、駅で会ったばかりの女の子を叔母のところへ連れていく話になっているのだろう。彼女は、俺の返事を待っていた。
「聞くだけなら、できますけど」
「お願いしてもいいですか」
「はい。ただ、空いてなかったら」
「そのときは帰ります。駅には戻れますよね」
「戻れます」
俺が答えると、彼女は小さく頷いた。それで決まったつもりになりかけたが、まだ叔母には何も聞いていなかった。
今日、一人増えても泊まれるか。俺はそこまで打って、一人というのでは分からないだろうと思い、女の子だと書き足した。普段なら着く時間しか送らない相手なので、どう書いても急な話になった。
送信して顔を上げると、彼女はスマホを耳に当てていた。
「あ、おはようございます。急にすみません。今回のレッスンなんですけど」
俺は少し離れた。聞かない方がいいのかと思ったが、ホームにはほかにほとんど音がなく、声は届いた。
「……お休みさせてください。はい、明日もです」
彼女は空いた手でケースの肩紐を握った。
「いえ、体調は大丈夫です。すみません、当日になって」
その先は声が小さくなった。俺は駅の向こうにある駐輪場を見ながら、叔母の返事を待った。
最初に届いたのは、誰と一緒なのかという質問だった。駅で会った人、と送ってから、その説明では余計に分からない気がして、鞄を間違えたところから短く書いた。
電話を終えた女の子が、こちらを向いた。
「先生には、休むって伝えました」
「そうですか」
「母にも送っておきます。泊まれるかは、まだ分からないって」
俺は頷いた。彼女はベンチに座り、両手でスマホを持った。文章を打っている途中で着信があったが、電話ではなかったらしい。届いたものを読み、また指を動かしていた。
俺も隣に座った。鞄から本を出そうかと思ったものの、叔母から返事が来るたびにしまうことになりそうで、そのまま待つことにした。
次の電車を知らせる放送が流れたのは、それからしばらくしてからだった。叔母から空室についての返事は、まだ届いていなかった。
「どうしますか。まだ、泊まれるか分からないですけど」
「行きます。泊まれなかったら、海を見て帰るだけでもいいので」
彼女はスマホをしまい、自分の鞄を持ち上げた。今度は俺も、持ち手の糸を確かめてから立ち上がった。
電車が止まり、扉が開く。彼女が先に乗ったのを見て、俺も後に続いた。




