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客席の拍手の中を、成瀬が歩いてきた。


 膝の上で開いていたプログラムを閉じる。少し前まで隣の人と話していた女性も顔を上げ、通路の向こうでは、眼鏡を掛け直す人がいた。みんなの視線が向かう先に、彼女がいる。


 濃い青のドレスは足元まであり、歩くたびに裾がゆっくり揺れた。髪は後ろでまとめられていて、いつもより顔がよく見える。ヴァイオリンと弓を持って舞台の中央まで来ると、成瀬は客席へ向き直った。


 俺は背もたれから少し身体を起こした。


 彼女はお辞儀をしていた。落ち着いた動作だった。こんなに大勢に見られて、足を置く場所にも、頭を下げる深さにも迷わない。こちらまで顔を上げるのを待ってしまう。


 プログラムには成瀬真帆と印刷されている。その下には、俺が調べてから来た曲の名前があった。長い名前だったけれど、今日はそれを読むために来たのではないので、閉じたままにしておいた。


 自分で金を払って演奏会に来たのは、これが初めてだった。高校二年になった今も、クラシックの知識は音楽の授業で習った分くらいしかない。誰とも約束のない休日なら、本屋に寄って、買った本を家で読んでいれば十分だった。一日一人で過ごしても、続きが気になる本さえあれば、退屈することはなかった。


 前の方の席で、小さな子が母親らしい人の腕を引いた。母親は顔を寄せて何かを聞き、舞台を指す子の手をそっと下ろした。成瀬はそちらへ視線を向けたようだった。唇が少し緩んで、すぐに戻る。


 俺の席からは、そのくらいの変化まで見えた。


 今日の午後は空けておこうと、チケットを買う前にカレンダーへ公演の時間を入れた。ただ、席を選ぶときには、前にしすぎたかと思った。近くで見たいと申し出ているようで、座席を選ぶ画面の上を何度か指が往復した。結局、空いていた中では前の方を買った。今は、後ろにしなくてよかったと思っている。


 拍手がまばらになり、最後のいくつかがやんだ。誰かがプログラムをめくる音が、思ったより遠くから届く。成瀬はすぐには弾き始めず、ヴァイオリンを持つ手をわずかに動かした。


 舞台には、成瀬以外に誰もいなかった。俺の席から彼女までの間には何列も椅子が並んでいるのに、さっきまで近くに聞こえていた咳や衣擦れが、急に気にならなくなる。彼女が一度息を吸った。それだけで、客席に残っていた小さな音まで止まるようだった。


 楽器の茶色い表面に照明が映っていた。客席から見ていると、それもドレスも、舞台の明るさも、初めから彼女のために用意されていたように収まりがよかった。さっきまで楽器を手に歩いていた人が、これから音を聴かせる人になる。その境目を見ている気がした。


 成瀬が客席へ目を向けた。


 こちらを見たのかは分からない。俺はとりあえず顔を上げたままでいた。目が合ってから何かをしようと考えても、たぶん間に合わない。


 彼女は右手を顔のそばへ持っていき、耳に掛かりきっていなかった髪を、指でそっと払った。それからヴァイオリンを肩へ上げる。


 俺は、その手つきを知っていた。


 こんなふうに正面を向いて、ほかの大勢と一緒に見たのではなかった。もっと近くにいて、話しかければ、その手を止めてこちらを見てもらえる距離だった。


 あのときは、まだ夏だった。


 そして最初に彼女から言われたのは、演奏を聴いてほしいということではなかった。


*


 七月の終わり、俺は駅のホームにあるベンチで本を読んでいた。


 ここから電車に乗って、叔母の民宿がある海辺の町へ向かう。着いたら連絡をするように言われている。それ以外に今日中にしなければならないことはなく、鞄には着替えと、滞在中に読むつもりの本を三冊入れてきた。


 今読んでいる一冊を合わせると四冊になる。多いかもしれないと思ったのは、駅の階段を上っている途中だった。


 ベンチには屋根の影が掛かっていたが、膝の先には日が当たっていた。足を少し引いてページをめくる。次の電車まで十数分あることは、座る前に確かめていた。


 隣に誰かが座ったのには気づいた。白っぽい服の袖と、足元へ置かれた紺色の鞄が、視界の端に入った。座る場所を空けるために少し詰めて、それきり本へ目を戻した。


 何ページか読んだところで、放送が流れた。


 顔を上げると、線路の先に電車が見えた。まだ途中だった段落を読み終えてから、しおりを挟む。紙の角が折れかけているのが気になって指で伸ばしていたら、車両はもう目の前を通っていた。


 隣の人が立ち上がる。俺も本を閉じて腰を上げ、足元に並んでいた鞄の持ち手を掴んだ。


 扉が開く音がした。


「あの」


 声はすぐ横から聞こえた。顔を向けると、同い年くらいの女の子が俺を見ていた。


「もしかして、それ、私の鞄ですか?」


 彼女の視線に従って、自分の左手を見る。持っているのは紺色のボストンバッグだった。家を出てからずっと持ち歩いていたものと、色も大きさもほとんど同じに見える。


「え、これですか」


「はい。横に、小さい白い傷があると思うんですけど」


 鞄を回してみる。確かに底に近いところが擦れて白くなっていた。ただ、俺の鞄にもそのくらいの傷はありそうで、すぐに判断がつかなかった。


 女の子は細長い黒いケースを片方の肩に掛けていた。その肩を少し引き、俺の持つ鞄を避けながら、ベンチの下を指さす。


「そっちがお兄さんのじゃないですか」


 見下ろすと、もう一つ紺色の鞄があった。持ち手の縫い目から、糸が一本飛び出している。家で切っておこうと思い、忘れていた糸だった。


「あ、すみません」


 急いで鞄を下ろそうとして、閉じた本が右手に残っていることに気づいた。本を脇に挟み、持ち手を彼女へ向ける。


「間違えました」


「いえ、大丈夫です。電車、乗りますよね」


「はい」


 彼女が鞄を受け取り、俺も自分のものを持ち上げた。立ち上がりながら振り向くと、降りた人たちはもう階段へ歩いていて、開いた扉の前には誰も残っていなかった。


 発車ベルが鳴った。


 女の子が先に足を踏み出し、俺もその隣へ出た。あと数歩だった。黒いケースを押さえた彼女が何か言いかけたところで、扉が動いた。


 俺たちは同時に足を止めた。


 閉まった扉の向こうで、座っていた男の人がこちらを見ていた。俺は手を上げかけてやめた。その人に何かしてもらえるわけではない。


 電車がゆっくり動き出した。窓が一つずつ通り過ぎ、最後の車両が俺たちの前を離れていく。女の子はその後ろ姿を、鞄を持ったまま見送っていた。


 謝ろうと思ったけれど、彼女がこちらを向くまで待ってしまった。


「すみません。俺のせいで」


 彼女は一度俺を見て、それからベンチの向こうにある時刻表へ目を移した。


「……次、何分ですか」


 さっき自分が乗る電車だけを調べたときには、下の欄まで見ていなかった。二人で時刻表の前へ移動する。数字を指で追わなくても、次の列車までかなり間があることは分かった。


「四十分くらい、ありますね」


「四十分」


 彼女は繰り返して、鞄を足元へ置いた。空いた手でスマホを取り出す。画面を確かめる横顔に、肩より少し長い髪が掛かった。


「……これだと、バスに間に合わない」


「バスも乗るんですか」


「はい。この先で乗り換えるので」


 彼女は画面を何度か触り、時刻表を見上げてから、またスマホへ目を落とした。


 俺は四十分待てば、同じ電車で叔母の町へ行ける。着く時間が少し遅くなるだけで、困る予定もなかった。彼女は次の電車の時刻が分かっても、まだその先を調べていた。


 俺はもう一度謝った。女の子は画面から顔を上げた。


「お兄さんのせいですよ」


「はい」


 否定できるところがなかった。


 彼女が再びスマホへ目を落としたので、俺は脇に挟んだままの本を、自分の鞄へしまった。持ち手の糸が、指に引っ掛かった。

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― 新着の感想 ―
急いで鞄を下ろそうとして、閉じた本が右手に残っていることに気づいた。本を脇に挟み、持ち手を彼女へ向ける。 何でわざわざ脇に挟んだんですか?
はじめまして。 ちょっとした違和感なのですが、この鞄の取り違えが起きた状況が少し想像しにくいなと思いました。 本文では相手の鞄は相手の足元に置いてあったと思うのですが、その場合、自分のそばの鞄ではな…
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