27
「お母さんに連絡するね」
成瀬がスマホを出した。
俺は頷き、自動販売機へ水を買いに行った。戻ってくると、彼女は次の電車で帰ることを伝え終えたところだった。
隣へ座って水を飲んだ。喉が鳴り、思ったより大きな音がしたので、一度口を離した。
「そんなに喉渇いてたの」
「走ったから」
「そっか」
成瀬は笑いかけて、線路へ目を向けた。
「最初の電車、乗れなくてよかったかもね」
「最初って、会ったときの?」
「うん」
「俺、かなり謝ったんだけど」
「あのときは、本当に困ったよ」
そこはすぐに返された。俺は水の蓋を閉めた。
「でも、乗ってたら、三浦と海に行ったりしてなかったし」
成瀬は足元のボストンバッグを見た。
「あのときは、乗りたかったのに乗れなかったけど。今日は、乗れたけど乗らなかったから」
「うん。見てた」
「……見えてたんだ」
「下りてきたところから」
成瀬は階段の方へ顔を向けた。
「気づかなかった」
「こっち、見なかったから」
「見て、いなかったら嫌じゃん」
俺は返事をしようとして、やめた。成瀬は鞄の持ち手を直し、こちらを見た。
「でも、次は乗るよ」
「うん」
「お母さんに帰るって言ったし」
俺は頷いた。彼女が帰ることを、今度は別の意味に受け取らずに済んだ。
少し黙ってから、成瀬が言った。
「九月の、最初の日曜日って空いてる?」
俺はスマホでカレンダーを開いた。
「今のところ、何もない」
「演奏会に出るの。何人か出るんだけど、その中の一人で」
彼女は会場と、午後からの公演だということを話した。駅の名前には聞き覚えがあった。
「行きたい」
成瀬は俺を見た。
「昨日の曲も弾く?」
「うん。今度は、ほかの楽章も。あの曲が入ってるのを、全部」
「じゃあ、昨日より長いんだ」
「長いよ。途中で終わったと思わないでね」
「そこは、周りを見るから」
「私を見ててよ」
すぐに言われ、俺は顔を上げた。成瀬は少し口元を緩めていた。
「弓、下ろすから。ちゃんと」
「分かった」
「案内、あとで送るね」
「うん。待ってる」
俺はカレンダーへ予定を入れた。演奏会、と書いたところで、成瀬が俺の手元を覗き込んだ。
「忘れないでね」
「今、入れたの見てただろ」
「見てた」
彼女は頷いて、身体を戻した。
そこからは、少し普通の話ができた。花が、サインを書いてもらったプログラムを、折れない場所へしまったと言っていたことを伝えると、成瀬は安心したように笑った。
俺が何も持っていないことに気づき、本はどうしたのかと聞かれた。
「宿に置いてきた」
「珍しい」
「持って走るのは、ちょっと」
「それはそうだね」
俺たちは時々時計を見ながら、話を続けた。昨日までより言葉を選ぶところもあったが、黙ったからといって、すぐに別の場所へ行く必要はなかった。
次の電車の案内が流れた。
成瀬がケースを持って立ち上がった。俺はボストンバッグを指した。
「そっち、持つよ」
「ありがとう」
鞄を受け取り、乗る位置まで一緒に歩いた。
電車が入ってきた。成瀬は少し前に出て、扉の止まる位置を確かめた。俺も隣へ並んだ。
扉が開いた。
下りてくる人を待ち、鞄を渡そうとしたとき、袖が少し引かれた。
成瀬が、空いている手で俺の袖の端を掴んでいた。指先だけだった。俺が顔を向けると、彼女は一度口を開きかけ、それから言った。
「来てくれてありがとう」
俺は彼女を見たまま、頷きかけた。
頷くだけで済ませず、口を開いた。
「待ってくれてありがとう」
成瀬の口元が緩んだ。
「うん。そういうの、聞けると嬉しい」
彼女は袖から手を離した。
「また言ってね。私も、ちゃんと言うから」
「うん。言う」
俺が差し出すと、成瀬はボストンバッグを受け取った。もう片方の手には、ヴァイオリンケースがあった。
「じゃあ、またね」
「また」
成瀬は自分で電車へ乗った。
扉の脇へ荷物を寄せ、こちらを向く。発車ベルが鳴ったので、俺は一歩下がった。
窓の向こうで、彼女が小さく手を上げた。俺も手を上げた。
電車が動き出した。成瀬の姿が、窓枠と一緒に少しずつ遠ざかる。俺はその姿が見えなくなるまで立っていた。
ポケットのスマホを取り出したのは、電車の音が小さくなってからだった。
九月の予定を開き、会場の名前も書き足した。




