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「お母さんに連絡するね」


 成瀬がスマホを出した。


 俺は頷き、自動販売機へ水を買いに行った。戻ってくると、彼女は次の電車で帰ることを伝え終えたところだった。


 隣へ座って水を飲んだ。喉が鳴り、思ったより大きな音がしたので、一度口を離した。


「そんなに喉渇いてたの」


「走ったから」


「そっか」


 成瀬は笑いかけて、線路へ目を向けた。


「最初の電車、乗れなくてよかったかもね」


「最初って、会ったときの?」


「うん」


「俺、かなり謝ったんだけど」


「あのときは、本当に困ったよ」


 そこはすぐに返された。俺は水の蓋を閉めた。


「でも、乗ってたら、三浦と海に行ったりしてなかったし」


 成瀬は足元のボストンバッグを見た。


「あのときは、乗りたかったのに乗れなかったけど。今日は、乗れたけど乗らなかったから」


「うん。見てた」


「……見えてたんだ」


「下りてきたところから」


 成瀬は階段の方へ顔を向けた。


「気づかなかった」


「こっち、見なかったから」


「見て、いなかったら嫌じゃん」


 俺は返事をしようとして、やめた。成瀬は鞄の持ち手を直し、こちらを見た。


「でも、次は乗るよ」


「うん」


「お母さんに帰るって言ったし」


 俺は頷いた。彼女が帰ることを、今度は別の意味に受け取らずに済んだ。


 少し黙ってから、成瀬が言った。


「九月の、最初の日曜日って空いてる?」


 俺はスマホでカレンダーを開いた。


「今のところ、何もない」


「演奏会に出るの。何人か出るんだけど、その中の一人で」


 彼女は会場と、午後からの公演だということを話した。駅の名前には聞き覚えがあった。


「行きたい」


 成瀬は俺を見た。


「昨日の曲も弾く?」


「うん。今度は、ほかの楽章も。あの曲が入ってるのを、全部」


「じゃあ、昨日より長いんだ」


「長いよ。途中で終わったと思わないでね」


「そこは、周りを見るから」


「私を見ててよ」


 すぐに言われ、俺は顔を上げた。成瀬は少し口元を緩めていた。


「弓、下ろすから。ちゃんと」


「分かった」


「案内、あとで送るね」


「うん。待ってる」


 俺はカレンダーへ予定を入れた。演奏会、と書いたところで、成瀬が俺の手元を覗き込んだ。


「忘れないでね」


「今、入れたの見てただろ」


「見てた」


 彼女は頷いて、身体を戻した。


 そこからは、少し普通の話ができた。花が、サインを書いてもらったプログラムを、折れない場所へしまったと言っていたことを伝えると、成瀬は安心したように笑った。


 俺が何も持っていないことに気づき、本はどうしたのかと聞かれた。


「宿に置いてきた」


「珍しい」


「持って走るのは、ちょっと」


「それはそうだね」


 俺たちは時々時計を見ながら、話を続けた。昨日までより言葉を選ぶところもあったが、黙ったからといって、すぐに別の場所へ行く必要はなかった。


 次の電車の案内が流れた。


 成瀬がケースを持って立ち上がった。俺はボストンバッグを指した。


「そっち、持つよ」


「ありがとう」


 鞄を受け取り、乗る位置まで一緒に歩いた。


 電車が入ってきた。成瀬は少し前に出て、扉の止まる位置を確かめた。俺も隣へ並んだ。


 扉が開いた。


 下りてくる人を待ち、鞄を渡そうとしたとき、袖が少し引かれた。


 成瀬が、空いている手で俺の袖の端を掴んでいた。指先だけだった。俺が顔を向けると、彼女は一度口を開きかけ、それから言った。


「来てくれてありがとう」


 俺は彼女を見たまま、頷きかけた。


 頷くだけで済ませず、口を開いた。


「待ってくれてありがとう」


 成瀬の口元が緩んだ。


「うん。そういうの、聞けると嬉しい」


 彼女は袖から手を離した。


「また言ってね。私も、ちゃんと言うから」


「うん。言う」


 俺が差し出すと、成瀬はボストンバッグを受け取った。もう片方の手には、ヴァイオリンケースがあった。


「じゃあ、またね」


「また」


 成瀬は自分で電車へ乗った。


 扉の脇へ荷物を寄せ、こちらを向く。発車ベルが鳴ったので、俺は一歩下がった。


 窓の向こうで、彼女が小さく手を上げた。俺も手を上げた。


 電車が動き出した。成瀬の姿が、窓枠と一緒に少しずつ遠ざかる。俺はその姿が見えなくなるまで立っていた。


 ポケットのスマホを取り出したのは、電車の音が小さくなってからだった。


 九月の予定を開き、会場の名前も書き足した。


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