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 電車が止まり、成瀬の前で扉が開いた。


 下りてきた人を避け、彼女が少し身体をずらした。人が通り過ぎると、車内まで遮るものはなくなった。成瀬は鞄を持ったまま、開いた扉を見ていた。


 俺は足を速めた。名前を呼ぼうとして息を吸ったが、うまく声にならなかった。


 成瀬が一歩下がった。


 ボストンバッグを足元へ置き直し、持ち手から手を離した。ヴァイオリンケースは、もう片方の手で持ったままだった。


 発車ベルが鳴った。


 彼女は動かなかった。


 扉が閉まり、電車がゆっくりと走り出した。窓が一つずつ成瀬の前を通り過ぎていく。彼女はその場に立って、最後の車両がホームを抜けるまで見ていた。


「成瀬」


 俺が呼ぶと、彼女は振り返った。


「……三浦?」


 頷いたところで咳が出た。口元を押さえ、足を止める。成瀬が俺の方へ身体を向けた。


「走ってきたの?」


「うん」


 胸が上下するばかりで、次の言葉が出てこなかった。俺は膝に片手をつき、息を吐いた。


「ごめん」


 顔を上げて言った。


「昨日、勝手に帰って。そのあとも、成瀬が言ってくれたこと、聞かなくて」


 成瀬は俺を見ていた。


「ごめん」


 彼女はすぐには返事をせず、俺の呼吸が少し落ち着くのを待ってから、ベンチの方へ目を向けた。


「座ろう。苦しそうだから」


 俺は頷いた。


 成瀬が鞄を持ち、ベンチまで歩いた。足元へ荷物を置いた彼女の隣に、俺も腰を下ろす。顔の汗をハンカチで拭き、何度か息を整えた。


「電車、乗らなかったんだ」


「うん」


「俺、見えた?」


「今、呼ばれるまで気づかなかったよ」


 成瀬はケースの持ち手へ目を落とした。


「一本だけ、待ってみようと思って」


 俺は彼女の横顔を見た。


「来なかったら、次ので帰るつもりだった」


「……そっか」


 嬉しかった。けれど、それで話を終わらせてはいけないことも分かっていた。


 成瀬がこちらを向いた。俺はハンカチを握ったまま、口を開いた。


「昨日、石田たちと話してるのを見て、俺が、あそこにいづらくなった」


「うん」


「俺は先に帰ってていいって、成瀬に言われたら嫌だったんだと思う」


 彼女の返事を待ちかけて、俺は続けた。


「だから、言われる前に帰った。成瀬には、何も聞かないで」


 成瀬は唇を結んだ。


「言ってないよ、そんなこと」


「うん。言われてない」


「一緒に帰るって言ったんだよ」


「覚えてる」


 俺は一度息を吐いた。


「俺が帰ったのに、成瀬にはその方がいいみたいに言った。戻ってきてくれたあとも」


 成瀬は持ち手から手を離し、膝の上に置いた。


「何回言っても、違うって言われてるみたいだった」


「……うん」


「私が一緒に帰りたいって言ってるのに、三浦が、そうじゃないって」


 彼女はそこで口を閉じた。俺も何も足さなかった。


 線路の向こうを、自転車を押した人が通っていった。踏切の音は、もう聞こえなかった。


「昨日、昼にさ」


 成瀬が言った。


「もっと聴きたかったって言ってくれたでしょ」


「うん」


「あれ、本当に嬉しかったんだよ」


 俺は彼女を見た。


「だから、終わってからも話したかった。三浦が今日のも聴いてくれたんだなって思ったら、どうだったか聞きたくなったし」


「……うん」


「上手だったって言われるのも嬉しいけど、もう一回聴きたいって言ってもらえるの、嬉しいんだよ」


「違うの?」


「同じところもあるけど」


 成瀬は少し考え、ケースへ視線を向けた。


「間違えないで弾けました、だけだと、何か足りないんだよね」


「間違えない方がいいんじゃないの」


「それはそう。そこは、間違えたくないよ」


 すぐに返されて、俺は頷いた。成瀬は少しだけ口元を緩めた。


「でも、それだけじゃなくて。私、ここが好きだなとか、こういうふうに聴こえたらいいなって思って弾いてるから。それが、聴いてる人にも届いたらいいなって」


「同じところを好きになってほしい?」


「そう思うこともある。でも、違うところが好きって言われても、聞きたい」


 彼女は俺の顔を確かめるように見た。


「え、そこなんだって思うこともあるよ。私が気にしてたところ、全然気にならなかったって言われたり」


「昨日も、俺には分からなかったけど」


「うん。だから、それはそれでよかったの」


 成瀬は頷いた。


「ちょっと失敗して、そこばっかり考えちゃう日もあるけど。あとで、あの曲また聴きたいって言ってもらえたら、弾いてよかったって思う。何か残ったんだなって」


 俺は、昨日の演奏を思い出した。成瀬が気にしていたという箇所は、今も分からない。けれど、もう一度聴きたいと思ったことなら、言える。


 成瀬は膝の上で指を重ねた。


「話すのも、ちょっと似てる気がするんだよね」


「音楽と?」


「うん。分かってほしいことがあったら、とりあえず言ってみないと。言っても、違うふうに伝わることあるけど」


 彼女は言葉を止め、少し困った顔をした。


「昨日みたいに」


 俺は俯きかけ、顔を戻した。


「成瀬は、そういうこと言うの、平気なんだと思ってた」


「平気じゃないよ」


 返事は速かった。


「来てほしいとか、一緒に帰りたいとか。断られたらどうしようって思うし、変に思われないかなって考えるよ」


「……そうなんだ」


「そうだよ」


 成瀬は俺を見てから、先に目を逸らした。


「今言うのも、恥ずかしいんだけど」


「ごめん」


「そこは謝らなくていいけど」


 彼女は口元を緩めたが、すぐには続きを話さなかった。俺も待っていた。


「でも、三浦には分かってほしかったから。私が、一緒にいたいって思ってること」


 成瀬の声が、少し小さくなった。


「返事はしてくれるんだよ。行くとか、いいよとか。でも、三浦もそうしたいのかは、分かんないことがあって」


 俺は膝の上のハンカチを畳み直した。


「だから、楽しみにしてるって言ってくれたとき、嬉しかった。あ、三浦も聴きたいんだって分かったから」


 成瀬はそのときのことを思い出すように、少し目を細めた。


「なのに、帰っちゃうし」


「うん」


「戻ったら、無理しなくてよかったのにって言うし」


「……ごめん」


 成瀬は首を横に振りかけて、やめた。


「私ばっかり一緒にいたいみたいで、寂しかった」


 俺は何も言えなかった。


 成瀬は、自分の希望を言うことに慣れているのだと思っていた。言えば相手がどう返すか、あまり怖くない人なのだと。


 けれど彼女は、言ったあとに俺の返事を待っていた。本屋でも、海でも、昨日のロビーでも。俺が何を返すかによって、彼女の気分だって変わっていたのだ。


「分かんないなら、聞いてほしかった」


 成瀬が言った。


「本当に一緒に帰りたいのかって聞かれたら、ちょっと腹立ったかもしれないけど」


「腹立つんだ」


「だって、言ったばっかりだし」


 俺は頷いた。成瀬も、少し頷いた。


「でも、聞かれたら答えられたよ。三浦が何を考えてたのかも、昨日、知りたかった」


 俺はハンカチをポケットへしまった。


 ここまで言ってもらったあとで、また考えているだけでは、彼女に何も返せない。


「俺も、一緒に帰りたかった」


 成瀬がこちらを見た。


「演奏が終わったあと、帰り道でもう少し話せると思ってた。何を話すかは決めてなかったけど、それを楽しみにしてた」


 成瀬は黙っていた。


「今日も、もう一度話したくて来た。謝りたかったし、このまま帰ってほしくなかった」


 言ってから、俺は首を振った。


「帰るなってことじゃなくて。何も言わないまま、終わりたくなかった」


「うん」


「帰ったあとも、また会いたい」


 今度は、そこで言葉を止めた。


 成瀬は俺を見ていた。返事を待つ時間が長く感じられたが、その間を埋めるために別のことを言うのはやめた。


 彼女は膝の上の手をほどいた。


「私も、また会いたい」


 俺は頷いた。息を吐いてから、もう一度彼女を見た。


「……よかった」


 成瀬は少し笑った。それから、笑ったまま顔を下へ向けた。


「こういうの、一回言ったら慣れるのかと思ってた」


「慣れない?」


「全然」


 俺も、そうだった。


 口に出せたことにほっとしているのに、言った言葉を思い返すと、顔が熱くなる。成瀬も同じなのだと思うと、少しだけ、そのまま座っていられる気がした。

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