26
電車が止まり、成瀬の前で扉が開いた。
下りてきた人を避け、彼女が少し身体をずらした。人が通り過ぎると、車内まで遮るものはなくなった。成瀬は鞄を持ったまま、開いた扉を見ていた。
俺は足を速めた。名前を呼ぼうとして息を吸ったが、うまく声にならなかった。
成瀬が一歩下がった。
ボストンバッグを足元へ置き直し、持ち手から手を離した。ヴァイオリンケースは、もう片方の手で持ったままだった。
発車ベルが鳴った。
彼女は動かなかった。
扉が閉まり、電車がゆっくりと走り出した。窓が一つずつ成瀬の前を通り過ぎていく。彼女はその場に立って、最後の車両がホームを抜けるまで見ていた。
「成瀬」
俺が呼ぶと、彼女は振り返った。
「……三浦?」
頷いたところで咳が出た。口元を押さえ、足を止める。成瀬が俺の方へ身体を向けた。
「走ってきたの?」
「うん」
胸が上下するばかりで、次の言葉が出てこなかった。俺は膝に片手をつき、息を吐いた。
「ごめん」
顔を上げて言った。
「昨日、勝手に帰って。そのあとも、成瀬が言ってくれたこと、聞かなくて」
成瀬は俺を見ていた。
「ごめん」
彼女はすぐには返事をせず、俺の呼吸が少し落ち着くのを待ってから、ベンチの方へ目を向けた。
「座ろう。苦しそうだから」
俺は頷いた。
成瀬が鞄を持ち、ベンチまで歩いた。足元へ荷物を置いた彼女の隣に、俺も腰を下ろす。顔の汗をハンカチで拭き、何度か息を整えた。
「電車、乗らなかったんだ」
「うん」
「俺、見えた?」
「今、呼ばれるまで気づかなかったよ」
成瀬はケースの持ち手へ目を落とした。
「一本だけ、待ってみようと思って」
俺は彼女の横顔を見た。
「来なかったら、次ので帰るつもりだった」
「……そっか」
嬉しかった。けれど、それで話を終わらせてはいけないことも分かっていた。
成瀬がこちらを向いた。俺はハンカチを握ったまま、口を開いた。
「昨日、石田たちと話してるのを見て、俺が、あそこにいづらくなった」
「うん」
「俺は先に帰ってていいって、成瀬に言われたら嫌だったんだと思う」
彼女の返事を待ちかけて、俺は続けた。
「だから、言われる前に帰った。成瀬には、何も聞かないで」
成瀬は唇を結んだ。
「言ってないよ、そんなこと」
「うん。言われてない」
「一緒に帰るって言ったんだよ」
「覚えてる」
俺は一度息を吐いた。
「俺が帰ったのに、成瀬にはその方がいいみたいに言った。戻ってきてくれたあとも」
成瀬は持ち手から手を離し、膝の上に置いた。
「何回言っても、違うって言われてるみたいだった」
「……うん」
「私が一緒に帰りたいって言ってるのに、三浦が、そうじゃないって」
彼女はそこで口を閉じた。俺も何も足さなかった。
線路の向こうを、自転車を押した人が通っていった。踏切の音は、もう聞こえなかった。
「昨日、昼にさ」
成瀬が言った。
「もっと聴きたかったって言ってくれたでしょ」
「うん」
「あれ、本当に嬉しかったんだよ」
俺は彼女を見た。
「だから、終わってからも話したかった。三浦が今日のも聴いてくれたんだなって思ったら、どうだったか聞きたくなったし」
「……うん」
「上手だったって言われるのも嬉しいけど、もう一回聴きたいって言ってもらえるの、嬉しいんだよ」
「違うの?」
「同じところもあるけど」
成瀬は少し考え、ケースへ視線を向けた。
「間違えないで弾けました、だけだと、何か足りないんだよね」
「間違えない方がいいんじゃないの」
「それはそう。そこは、間違えたくないよ」
すぐに返されて、俺は頷いた。成瀬は少しだけ口元を緩めた。
「でも、それだけじゃなくて。私、ここが好きだなとか、こういうふうに聴こえたらいいなって思って弾いてるから。それが、聴いてる人にも届いたらいいなって」
「同じところを好きになってほしい?」
「そう思うこともある。でも、違うところが好きって言われても、聞きたい」
彼女は俺の顔を確かめるように見た。
「え、そこなんだって思うこともあるよ。私が気にしてたところ、全然気にならなかったって言われたり」
「昨日も、俺には分からなかったけど」
「うん。だから、それはそれでよかったの」
成瀬は頷いた。
「ちょっと失敗して、そこばっかり考えちゃう日もあるけど。あとで、あの曲また聴きたいって言ってもらえたら、弾いてよかったって思う。何か残ったんだなって」
俺は、昨日の演奏を思い出した。成瀬が気にしていたという箇所は、今も分からない。けれど、もう一度聴きたいと思ったことなら、言える。
成瀬は膝の上で指を重ねた。
「話すのも、ちょっと似てる気がするんだよね」
「音楽と?」
「うん。分かってほしいことがあったら、とりあえず言ってみないと。言っても、違うふうに伝わることあるけど」
彼女は言葉を止め、少し困った顔をした。
「昨日みたいに」
俺は俯きかけ、顔を戻した。
「成瀬は、そういうこと言うの、平気なんだと思ってた」
「平気じゃないよ」
返事は速かった。
「来てほしいとか、一緒に帰りたいとか。断られたらどうしようって思うし、変に思われないかなって考えるよ」
「……そうなんだ」
「そうだよ」
成瀬は俺を見てから、先に目を逸らした。
「今言うのも、恥ずかしいんだけど」
「ごめん」
「そこは謝らなくていいけど」
彼女は口元を緩めたが、すぐには続きを話さなかった。俺も待っていた。
「でも、三浦には分かってほしかったから。私が、一緒にいたいって思ってること」
成瀬の声が、少し小さくなった。
「返事はしてくれるんだよ。行くとか、いいよとか。でも、三浦もそうしたいのかは、分かんないことがあって」
俺は膝の上のハンカチを畳み直した。
「だから、楽しみにしてるって言ってくれたとき、嬉しかった。あ、三浦も聴きたいんだって分かったから」
成瀬はそのときのことを思い出すように、少し目を細めた。
「なのに、帰っちゃうし」
「うん」
「戻ったら、無理しなくてよかったのにって言うし」
「……ごめん」
成瀬は首を横に振りかけて、やめた。
「私ばっかり一緒にいたいみたいで、寂しかった」
俺は何も言えなかった。
成瀬は、自分の希望を言うことに慣れているのだと思っていた。言えば相手がどう返すか、あまり怖くない人なのだと。
けれど彼女は、言ったあとに俺の返事を待っていた。本屋でも、海でも、昨日のロビーでも。俺が何を返すかによって、彼女の気分だって変わっていたのだ。
「分かんないなら、聞いてほしかった」
成瀬が言った。
「本当に一緒に帰りたいのかって聞かれたら、ちょっと腹立ったかもしれないけど」
「腹立つんだ」
「だって、言ったばっかりだし」
俺は頷いた。成瀬も、少し頷いた。
「でも、聞かれたら答えられたよ。三浦が何を考えてたのかも、昨日、知りたかった」
俺はハンカチをポケットへしまった。
ここまで言ってもらったあとで、また考えているだけでは、彼女に何も返せない。
「俺も、一緒に帰りたかった」
成瀬がこちらを見た。
「演奏が終わったあと、帰り道でもう少し話せると思ってた。何を話すかは決めてなかったけど、それを楽しみにしてた」
成瀬は黙っていた。
「今日も、もう一度話したくて来た。謝りたかったし、このまま帰ってほしくなかった」
言ってから、俺は首を振った。
「帰るなってことじゃなくて。何も言わないまま、終わりたくなかった」
「うん」
「帰ったあとも、また会いたい」
今度は、そこで言葉を止めた。
成瀬は俺を見ていた。返事を待つ時間が長く感じられたが、その間を埋めるために別のことを言うのはやめた。
彼女は膝の上の手をほどいた。
「私も、また会いたい」
俺は頷いた。息を吐いてから、もう一度彼女を見た。
「……よかった」
成瀬は少し笑った。それから、笑ったまま顔を下へ向けた。
「こういうの、一回言ったら慣れるのかと思ってた」
「慣れない?」
「全然」
俺も、そうだった。
口に出せたことにほっとしているのに、言った言葉を思い返すと、顔が熱くなる。成瀬も同じなのだと思うと、少しだけ、そのまま座っていられる気がした。




