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本を閉じようとして、指を止めた。
成瀬は本屋で、俺が二冊を比べるのを横から見ていた。訳した人が違うから文章も違うと説明すると、それならどちらが正しいのかと聞かれた。
そこまでは分からないと答えたら、読めるのかと思った、と言った。
あのときの俺は、彼女に何か教えようとしていたわけではなかった。聞かれたので答え、伝わらなければ別の言い方を考えた。成瀬も、分かったふりをせずに聞き返してきた。
結局、選んだ本の表紙より、もう一冊の方が好きだったと言うと、そっちは譲れるんだ、と言われた。そんなところを気にするのかと思ったことまで、覚えていた。
もう一度、ああいう話がしたかった。
好きなものが同じでなくても、知っていることが違っても、話は続いていた。俺の説明が下手なら成瀬は眉を寄せたし、妙なところを気にすれば、俺も聞き返した。
あの時間を、彼女は無理して過ごしていたのだろうか。
そう考えかけて、昨夜も同じことを言ったのだと思った。俺には音楽の話が分からない。もっと話の合う人がいる。そう言えば、成瀬と過ごした時間まで、彼女に合わせてもらっただけのものになった。
でも、それは成瀬が言ったことではなかった。
文化館で誘われたとき、成瀬は俺と帰ると言った。
俺が残ってほしいと頼んだのではない。彼女は向こうへ行くこともできた。俺もそうしていいと言った。それでも、今日は三浦と帰る、と答えた。
あのとき成瀬は、一緒に帰る相手に俺を選んでくれていた。
俺は嬉しかった。けれど、なぜ俺なのか分からなくて、気を遣ってくれたのだろうと考えた。そう考えると落ち着いた。嬉しかったことを、いちいち確かめなくて済んだからだ。
演奏会に来てほしいと言われたときも、俺は花の話をした。それでも成瀬は、俺にも来てほしいと言ってくれた。
分かりにくいことを言われたわけではなかった。
昨夜、成瀬は何度も俺を見て、一緒に帰りたかったと話した。俺には分からない彼女の気持ちを、本人が教えてくれていた。
それを聞いて、俺は、ほかの人といた方がいいと答えた。
膝の上の本を、両手で押さえた。
思い出すと、顔が熱くなった。あのときの俺は、分かってもらえないと思っていた。成瀬のためを考えたのに、どうして伝わらないのだろうと。
彼女もそう思っていたのかもしれない。
一緒に帰りたい。それだけのことを何度も言わせて、俺は、そうする必要はないという説明を返し続けた。
今朝、成瀬が俺に駅まで来てほしいと言わなかったことを、来てほしくない証拠のように考えていた。昨日まで、言っても受け取らなかったのは俺なのに。
俺は本をテーブルへ置いた。
成瀬が帰るのは、仕方がない。もともとこの町で暮らしていたわけではないし、俺だって、あと何日かすれば帰る。
それでも、帰ったらもう話さなくなると、誰が決めたのだろう。
ここで会った相手だから、ここを出たらそれで終わり。そんな話は一度もしていない。俺が、彼女の普段の生活を知らないというだけだった。
これからだって分からないことばかりだと言ったとき、成瀬は聞き返した。俺はその先を答えられなかった。
帰ったあとも話したい、と言えばよかったのかもしれない。
また本の話をしてもいいし、成瀬の話を聞いてもよかった。分からなければ、昨日はどういう意味だったのかと聞けばいい。うまく話せるかまでは分からないが、もう話せないと決めるには、俺は彼女について知らないことが多すぎた。
このまま終わるのは嫌だった。
昨日の帰り道で話したかった。今朝も、駅まで一緒に行きたかった。それを言えなかったことを、あとで何度考えても、成瀬には伝わらない。
謝りたかった。俺が言ったことで、彼女に嫌な思いをさせたことを。自分の言葉を受け取ってもらおうとしながら、成瀬の言葉を聞かなかったことを。
それから、もう一度話したかった。
今は会いたくないと言われるかもしれない。昨日はそうだったけれど、もう違うと返されるかもしれない。その返事を聞くのは怖かった。
けれど、俺がここで代わりに答えることではなかった。
スマホを手に取ると、十時二分だった。
電車は十二分に出る。
俺は立ち上がり、ポケットに財布があるのを確かめた。食堂では、花がテーブルにノートを広げていた。叔母は窓際で掃除機を動かしていた。
「叔母さん、俺、駅行ってくる」
叔母がスイッチを切って振り返った。
「真帆ちゃんの見送り?」
「うん。話したいことがあるから」
「そう。車、気をつけてね」
頷いて、玄関へ向かった。靴に足を入れ、踵を指で引き上げる。戸を開けると、朝よりも強い日差しが目に入った。
宿の前の道を走り出してすぐ、ポケットの中で財布が跳ねた。
片手で押さえ、角を曲がる。駅までは、歩けば十五分ほど掛かる。朝、成瀬に聞いた発車時刻を頭の中で確かめた。十時十二分。別の数字に変わるわけでもないのに、何度も繰り返した。
住宅の間を抜けると、日陰が途切れた。
サンダルを履いた人が前を歩いていたので、速度を落として横を通った。すみません、と声を出しただけで、息が一つ足りなくなった。
普段、こんなふうには走らない。
胸より先に脚が重くなると思っていたが、息の方が続かなかった。商店街へ出る手前の坂で口が開き、吸った空気が喉に引っ掛かった。
一度歩こうかと思った。坂の上まで行けば少し平らになるので、そこまでは走ることにした。
パン屋の角へ出た。今日はそちらへ曲がる。店から出てきた自転車を避け、前輪が通り過ぎてからまた走った。
駅の屋根が見えたところで、スマホを出した。
十時十分だった。
顔を上げると、駅舎の脇から向かいのホームが見えた。屋根の下に何人か立っている。その中に、紺色のボストンバッグを足元に置いた成瀬がいた。片手には、ヴァイオリンケースを持っていた。
俺はスマホをポケットへ押し込んだ。
踏切の警報音が聞こえた。ホームの端に電車の先頭が現れ、成瀬の方へ近づいていく。
こちらを向くことはなかった。
車両が彼女の前を通り、姿が見えなくなった。
俺は駅前の道を渡った。入口へ駆け込み、改札を通って、向かいのホームへ続く階段に足を掛けた。
手すりを掴んで上がった。途中で息が詰まり、口から短い音が漏れた。上から下りてきた人を避け、踊り場で向きを変える。
窓の下で、電車がゆっくりとホームに入っていた。
俺は通路を渡り、向かい側の階段へ曲がった。手すりに手を掛けて下りる。靴音が壁に返り、最後の段からホームへ足を下ろした。
成瀬は、ずっと奥にいた。
片手にボストンバッグ、もう片方にはヴァイオリンケースを持っている。列車の方を向いたままで、こちらには気づいていなかった。
俺は一度大きく息を吸い、彼女の方へ歩き出した。




