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 朝、食堂へ下りると、成瀬はもう席に着いていた。


「おはよう」


「おはよう」


 返事はあった。俺は向かいの椅子を引き、座った。


 花は成瀬の隣で、焼き海苔の袋を開けていた。途中から変な方向へ裂けたらしく、中身が出てこない。成瀬が手を出しかけると、花は袋を自分の方へ引いた。


「できる」


「うん」


 成瀬は手を戻した。花は袋をひっくり返し、反対側から開けた。


 俺は箸を取った。


 昨夜、部屋へ戻ってから何度も考えたことがあった。成瀬に言われたことより、自分が言ったことの方が、あとになるほど気になった。話が合う人といた方がいい。あれでは、俺が一緒にいたくないと言っているようにも聞こえる。


 そういうつもりではなかった。


 そこまで考えるたびに、もう聞いた、と言った成瀬の声を思い出した。


「今日、何時に出るの?」


 叔母が味噌汁を置きながら尋ねた。


「十時十二分の電車に乗ろうと思ってます」


「じゃあ、ここは九時四十五分くらいかな。忘れ物ないようにね」


「はい」


 俺もその時刻を聞いていた。成瀬は一度こちらを見たが、何かを頼むことはなかった。


 食事が終わると、彼女は荷物をまとめに上がった。俺は花と食器を運び、自分の部屋へ戻った。


 本は机に開いたまま置いてあった。昨夜、しおりを挟むのも忘れていたらしい。閉じて鞄へ入れかけ、やめた。今日はどこへ行くのか、まだ決めていなかった。


 九時半を過ぎてから、その本だけ持って下へ下りた。


 成瀬は受付で宿泊費を払っていた。叔母から受け取ったものを財布へしまい、鞄のファスナーを閉める。足元には、紺色のボストンバッグがあった。


 数日前、俺が間違えて持ち上げた鞄だった。今は自分のものと取り違える気がしなかった。


「急に来たのに、ありがとうございました」


「こちらこそ。花の相手までしてもらって」


「また来てね」


 花が叔母の横から言った。


 成瀬は花の方へ身体を向けた。


「昨日のサイン、なくさないでね」


「しまったよ。折れないとこ」


「じゃあ、大丈夫だ」


 成瀬が笑うと、花も頷いた。


 靴を履くために彼女がケースを置いたので、俺はボストンバッグの方へ手を伸ばしかけた。駅まで持っていくのか、玄関の外へ出すだけなのか、自分でも決めていなかった。


 成瀬が靴を履き終え、持ち手を取った。俺は手を引いた。


「じゃあ、行くね」


「うん」


 彼女は俺を見ていた。


 何か言うなら今だった。駅まで、と言えば、その先の道を一緒に歩けるかもしれない。けれど断られたあとのことを考えたら、叔母と花の前で尋ねることさえためらわれた。


「気をつけて」


「ありがとう」


 成瀬は小さく頭を下げ、戸の外へ出た。


 花が手を振っていた。俺も玄関から見ていたが、成瀬が角を曲がるまでに、もう一度声を掛けることはなかった。


 共用スペースへ戻り、本を開いた。


 昨夜、成瀬が座っていた長椅子には、朝の新聞が置いてあった。俺はその向かいに座った。食堂からは、叔母が掃除機を動かす音がしていた。


 ここへ来た日に読みかけだった本だった。続きを気にしていたはずなのに、登場人物の名前を見ても、前の場面がすぐには思い出せなかった。何ページか戻ると、読んだ覚えのある会話が出てきた。


 そこから読み始めて、また同じところで止まった。


 今朝は、話しかければ返事があった。成瀬は俺を避けなかったし、帰る時刻も聞こえるところで話した。


 だからといって、もう怒っていないとは思えなかった。叔母と花の前で、昨日の続きをしなかっただけかもしれない。玄関で礼を言ってくれたのも、別れ際の挨拶なら、そのくらいはするだろう。


 俺はページを戻した。さっきも戻ったところだった。


「直人」


 花が、麦茶の入ったコップを持って立っていた。


「駅、行かないの?」


「うん」


「真帆お姉ちゃん、もう行っちゃったよ」


「知ってる」


 花は新聞の脇に腰を下ろした。俺が本へ目を戻しても、まだこちらを見ていた。


「見送りは?」


「昨日、ちょっと怒らせたから」


「何で?」


 俺はページの間に指を挟んだ。


「嫌なこと言ったんだよ。だから今は、来てほしくないと思う」


「そう言ってたの?」


「……いや」


「じゃあ、分かんないじゃん」


 花はそう言って麦茶を飲んだ。


 分からないから、行けないのだ。来てほしいと言われていたら、俺だってこんなところに座っていない。


「でも、昨日怒ってたのは分かるから」


「ごめんって言った?」


「言ったよ」


「それでも怒ってたの?」


「そのあと、また余計なこと言った」


 口に出してみると、ひどく間抜けな話だった。花もそう思ったらしく、コップから口を離して俺を見た。


「また?」


「うん」


「じゃあ、それも謝んないの?」


 俺は本を膝へ下ろした。


「謝ったって、許してくれるか分かんないだろ」


「でも、直人が言ったんでしょ?」


 花の声には、責めるような調子はなかった。俺がさっき言ったことを確かめているだけだった。


 簡単に言うな、と思った。


 謝れば全部済むわけではない。一度言ってしまったことを、なかったことにはできないし、相手がもう聞きたくないと思っていたら、追いかけていくのだって迷惑になる。


 そう説明しかけて、俺は口を閉じた。


 花は、謝れば済むとは言っていなかった。


「何言ったの?」


 黙っていると、花が尋ねた。


「……成瀬がしたいことを、俺が勝手に決めた」


「何それ」


「俺も、うまく言えないけど」


「ふうん」


 花は少し考え、コップの中へ目を落とした。もう一口飲んでから立ち上がる。


「私、残りやってくる。お母さんに終わらせてって言われてるから」


「うん」


 棚の上のノートを取ると、花は食堂へ戻っていった。


 花に話したところで、昨日のことが分かるはずはなかった。俺が何を言ったかも、そのとき成瀬がどんな顔をしていたかも知らない。


 それなのに、花がいなくなってからも、さっきの問いには返事ができなかった。


 嫌なことを言ったのは俺だった。謝りたいとも思っていた。けれど、許してもらえるか分からないという理由を出すと、俺の中では、謝りに行かなくていいことになっていた。


 それはおかしい気がした。


 許してもらえなければ、謝っても意味がないのだろうか。昨日、自分が言ったことを取り消したいと思ったのは、成瀬に怒られたからだけなのだろうか。


 膝の上の本が傾いたので、持ち直した。読むつもりで開いているのに、目は玄関の方へ向いていた。


 そこを通ってもらわなければ、成瀬は戻ってこない。忘れ物でもしていれば、という考えが浮かび、すぐに恥ずかしくなった。


 自分からは行かずに、もう一度話せることだけを期待していた。


 来てほしくないだろうと思っていたのは、俺だ。成瀬には聞いていない。昨日、もっと話していたいだろうと考えて帰ったときと、同じだった。


 来てほしくないと思っているかもしれない。それは、今も否定できなかった。


 でも、成瀬がどう思っているかを考えている間、俺は自分がどうしたいのかを答えずに済んでいた。



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