23
成瀬が、膝の上で両手を重ねた。
「それで、今日のことなんだけど」
俺は顔を上げた。
「一緒に帰るって、朝、言ったよね」
「うん」
今度は、すぐに答えた。覚えていなかったと思われたくはなかった。
成瀬は俺を見ていた。
「私、そのつもりだったよ」
昼間に見た彼女の笑い方や、石田との会話を思い浮かべかけて、やめた。成瀬は今、こちらを向いて話している。
俺は口を開いた。帰り道から考えていた説明はあった。けれど彼女の言葉のあとに続けようとすると、同じ説明でいいのか、一瞬分からなくなった。
「話、続きそうだったから」
結局、出てきたのは同じ言葉だった。
「俺が待ってたら、気になるかと思って」
「気になるよ。待っててもらってるんだから」
成瀬はそこで一度口を閉じた。
「だから、片づけ終わったら帰ろうと思ってたの。声掛けられて、少し話してただけで」
「楽しそうだったし」
「楽しかったよ」
返事が速かったので、俺は次の言葉を出せなかった。
「でも、それで三浦と帰らなくなるわけじゃないでしょ」
成瀬は膝の上の手をほどき、片方を長椅子についた。少し前へ出た顔を、俺は正面から見ていた。
楽しかったのなら、もう少しそこにいればいいと思った。それだけのことを、なぜうまく伝えられないのだろう。
「ごめん。先に聞けばよかった」
「うん。聞いてほしかった」
成瀬の肩が、わずかに下がった。
そこでやめておけば、彼女の返事を聞くことができたのかもしれない。俺は、まだ説明していないことがあるように思った。
「でも、俺に気を遣って戻ってくることないと思ったんだよ」
成瀬は唇を開きかけ、そのまま止めた。
「……さっきも言ったよ。無理して戻ってきたんじゃないって」
「うん」
「ご飯も断ってきた。今日は一緒に帰りたかったから」
俺は頷いた。頷いたのに、その先を信じて返事をするのが難しかった。
彼女の言うことを疑いたかったわけではない。昨日も今日も、そう言ってくれたことは嬉しかった。ただ、嬉しいと思ったあとで、どこまでそのまま受け取っていいのか分からなくなる。
成瀬は誰にでも乱暴に接する人ではない。今日だって、花の話を最後まで聞き、叔母に何度も礼を言っていた。俺が聴きに来たからには、俺を放っておかないようにするだろう。
それを自分だけに都合よく受け取るのは、違う気がした。
「俺といても、音楽の話とか分からないし」
成瀬が瞬きをした。
「何で、今それが出てくるの」
「石田たちと話してたら、いろいろ通じるだろ。説明しなくても」
「それは、そうだけど」
「だから、あっちの人たちといた方がいいんじゃないかって」
言い終わったとき、ようやく昼から考えていたことを言えた気がした。同時に、そこまで言うつもりではなかったとも思った。
成瀬は俺から目を逸らさなかった。
「私が?」
「……うん」
「私が、三浦といるより、あっちにいたいってこと?」
「いたいっていうか。その方が、楽しいんじゃないかって」
自分の言葉が、ひどく遠回りになっているのは分かった。成瀬が聞き返すたびに、俺は少しずつ言い方を変えていた。どれも嘘ではないのに、言い直すほど、最初よりもひどいことを言っている気がした。
「じゃあ、昨日は?」
成瀬が聞いた。
「昨日?」
「三浦と帰るって言ったの。覚えてる?」
「覚えてるよ」
「今日、来てほしいって言ったのも?」
「うん」
「それも、気を遣ったから?」
俺は答えられなかった。
そうだと頷けば、彼女が怒ることは分かった。違うと答えれば、ではなぜ先に帰ったのかという話へ戻る。どちらも、成瀬を怒らせないための返事にしかならない気がした。
成瀬は俺の返事を待っていたが、やがて視線をテーブルへ落とした。
「昨日から、何回言えばいいんだろ」
小さな声だった。俺に尋ねたのかどうかも分からなかった。
廊下の方で食器の触れ合う音がした。ここまで、叔母たちの声は聞こえなかった。
「三浦は、帰りたくなかった?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、何?」
顔を上げた成瀬の声が、少し強くなった。
「私がいいなら、一緒に帰ってもいいってこと?」
「そんな言い方してないだろ」
「言ってないよ。何も言ってない」
成瀬はすぐに返してから、眉を寄せた。
「……何もは、違うけど。でも、どこ行くか聞いても、どこでもいいって。今日も、私にはどうしたいか聞かないで、自分がどうしたいかも言わないで帰っちゃうし」
何も言っていない、というところだけが、妙にはっきり残った。
昼には、楽しみにしていると伝えた。昨日はもっと聴きたかったとも言った。あれは俺にとって、何でもない返事ではなかった。言い慣れないことを言って、成瀬が嬉しかったと言ってくれたから、言ってよかったと思った。
それまでなくなったようで、俺は彼女の話の途中に口を挟んだ。
「今日、聴きたかったのは本当だよ」
「それは分かってる」
成瀬は声を落とした。
「嬉しかったって言ったじゃん。だから、終わってからも話したかったんだよ」
俺は、言おうとしていたことを忘れた。
「帰りにさ。今日どうだったとか、さっき言えなかったこととか。別に、詳しい話じゃなくていいから」
そこまで言うと、成瀬は長椅子についた手を膝へ戻した。
同じようなことを、俺も考えていた。ロビーで彼女が笑ったとき、帰る道でもう少し話せると思った。何を話すのかまでは決めていなかったが、それを楽しみにしていた。
今なら、俺も、と言えたはずだった。
けれど、彼女がここまで言ってから同じことを返すのは、怒られたから合わせているように聞こえるのではないかと思った。今日ずっと気にしていたことまで、なかったことにはできなかった。
舞台の上の成瀬を見たときの、あの感じは残っている。今、一緒に帰りたかったと言ってくれている彼女も、明日には、俺が何も知らない生活へ帰る。
その中で俺と何を話すのだろうと考えると、言いかけた言葉が頼りなくなった。
「でも、成瀬が気にしなくても、俺は分からないことばっかりだから」
「今、その話してないよ」
「これからだって、そうだと思うし」
成瀬の顔が動かなくなった。
「これから?」
俺は口を閉じた。
いつから、今日の帰り道より先の話をしていたのだろう。聞き返されても、その先を説明できなかった。
成瀬はしばらく俺を見ていた。それから一度息を吸った。
「分からない話は、聞いてくれればいいじゃん。私だって、本のこと分かんないよ」
「本とは違うだろ」
「何が?」
強い返事だった。
俺はテーブルへ視線を落とした。本とは違う。それは確かなように思えたのに、何が違うかと聞かれると、成瀬が納得できる言葉にならなかった。
「……成瀬には、もっと話が合う人がいるってことだよ」
言いながら、自分でもうんざりした。さっきから、同じところへ戻っている。
「そういう人といた方がいいと思っただけで、別に、嫌だったとかじゃないから」
成瀬は返事をしなかった。
俺は顔を上げた。彼女は唇を結び、膝の上に置いた自分の手を見ていた。そこに何かあるわけではなかった。親指で、もう片方の手の指を一度だけ押した。
「私が誰といたいかまで、三浦が決めないでください」
その言い方を、俺は知っていた。
出会ったばかりのころは、そうやって話していた。けれど今、同じ調子で返すことはできなかった。
「そんなつもりじゃ……」
「うん」
成瀬は頷いたが、俺の方は見なかった。
「そういうつもりじゃないのは、もう聞いた」
俺は途中まで開いた口を閉じた。
悪いことをしようとしたわけではない。それだけは分かってほしかった。けれど成瀬は、それを知らないから怒っているのではないらしかった。
では何を言えばいいのか、俺には分からなかった。
成瀬がスマホを取った。立ち上がったので、俺も顔を上げたまま身体を動かしかけた。
「今日はもう、いい」
「成瀬」
呼ぶと、彼女は足を止めた。
俺を見ていた。まだ、返事をするつもりでいてくれている。そのことは分かった。
何か言わなければと思った。帰るのは明日なのだから、今このまま話を終わらせるのはよくない。それなのに、もう一度引き止めるだけの言葉を、俺は持っていなかった。
成瀬は少し待ってから、顔を背けた。
「おやすみ」
階段へ向かう足音を聞きながら、俺は椅子に座っていた。
どうしてこうなったのだろう。
今日、彼女が弾くのを楽しみにしていた。聴けてよかったし、終わってから俺を見つけて来てくれたことも嬉しかった。そのどれも嘘ではないのに、話している間に、成瀬が立ち去る方へしか進まなかった。
テーブルの向こうには、もう誰もいなかった。
そこでようやく、俺は自分も一緒に帰りたかったのだと、口に出していないことに気づいた。今さらそれだけ言いに行くところを想像して、立ち上がれなかった。




