22
成瀬は共用スペースの長椅子に座っていた。
低いテーブルにスマホを置き、俺が来ると少し身体を起こした。俺は隣ではなく、テーブルを挟んだ椅子に腰を下ろした。
昼間はここで花が絵を描いていた。色鉛筆の箱は片づけられていたが、短く削れた黄色の一本だけが、棚の下に落ちていた。
成瀬が口を開いた。
「先に、言っておきたいことがあるんだけど」
「うん」
「私、明日帰ろうと思ってる」
俺はすぐに返事ができなかった。
「今日、弾き終わったときに決めたの。お母さんにも、そのとき連絡した。ロビーで三浦たちに会う前」
彼女は途中で言葉を切らず、そこまで話した。
ロビーに出てきた成瀬が、スマホを見ていたことを思い出した。画面から顔を上げて、俺たちを探した。あのときには、もう決めていたらしい。
「明日なんだ」
「うん」
「週末までは、いていいんじゃなかった?」
「いてもいいよ。お母さんにも、土曜までいるんだと思ってたって言われた」
成瀬はテーブルのスマホへ一度目を落とし、また俺を見た。
「でも、帰ろうかなって」
俺は頷いた。
帰る日を聞いたことはあった。決まっていないという返事を聞いて、そのあとは、明日の予定が一つできるたびに、明日もいるのだと思っていた。
いつ帰るのか分からないことを、まだ帰らないという意味で受け取っていたのかもしれない。
「今日、ちゃんと弾けたから?」
「うーん」
成瀬は膝に置いた指を少し曲げた。
「ちゃんと、は、気になるところあるけど」
「そうなの?」
「あるよ。あとになって、あそこもっとこうしたかったなって思ったりするし」
俺には分からなかった。言うと、成瀬は小さく頷いた。
「それならよかったけど。帰ったら先生にも、今日弾いたこと話そうと思って」
「レッスンの?」
「うん。休んだのも、ちゃんと謝りたいし」
彼女は言ってから、少し困った顔をした。
「電話では謝ったけど、次に会うの、ちょっと気まずい」
「怒られそう?」
「どうだろ。怒られないかもしれない。それはそれで、何て言えばいいんだろうってなる」
その感じなら、少しは分かった。何かを言われると決まっている方が、こちらの言うことも考えられる。
「今日の話、するんでしょ」
「うん。自分で出るって決めたんです、って言ったら、じゃあ何でレッスンは来なかったのって聞かれそうだけど」
成瀬は一度だけ息を漏らした。笑おうとしたようにも見えた。
「そこは、ちゃんと話す」
俺は、彼女が駅で電話をしていたときを思い出した。行こうと思えば途中からでも行けると聞いて、それでも行かないと言った。あのときは、先生にどう話すつもりなのかまで考えなかった。
成瀬は今日の演奏を、帰ってからも誰かと話す。よかったところや、思ったように弾けなかったところを確かめる。その先にも、弾く曲や会う人の予定がある。
それは今日、舞台を見ながら想像した彼女の日常だった。今度は本人の口から、具体的な予定として聞いていた。
「また弾きたいって思ったんだよね」
成瀬が言った。
「今日の曲?」
「今日のも。ほかのも」
少し考えて、彼女は続けた。
「終わったらほっとして、しばらく何もしたくなくなるかなって思ってたんだけど。次、あれ弾こうかなって考えてた」
「さっきも、石田たちとそういう話してた?」
「少しした。あとは今日の演奏のこととか」
成瀬は俺の顔を見てから、言葉を足した。
「でも、帰ろうって思ったのは、その前だよ」
「うん」
分かっている、と言いかけてやめた。
彼女が帰ることと、俺が先に帰ってしまったことは、別の話だった。俺のせいで宿にいたくなくなったわけではない。そこは、安心していいはずだった。
けれど安心したあとにも、明日帰る、ということは残った。
明日になれば、成瀬はいつもの家へ帰る。俺はまだ何日かここにいる。朝飯を食べたあと、本を持って出かけてもいいし、部屋で読んでもいい。そうやって過ごすつもりで来たのだから、困ることはなかった。
思い浮かべた一日の中で、何かを決めるたびに成瀬がいないことだけを確かめているようで、俺は途中で考えるのをやめた。
「叔母さんには言った?」
「うん。さっき、お皿持っていったとき。あとで花ちゃんにも言う」
「そっか」
「何時の電車にするかは、まだ見てないけど。午前中には出ようかな」
「分かった」
俺の返事を聞いても、成瀬はすぐには次の話をしなかった。
もう一日くらいいれば、と言うことはできた。週末までいていいのなら、急いで帰らなくてもいい。
でも、何のために。
帰って先生と話し、また弾きたい曲があると言った相手に、ここへ残る理由を俺から出せる気がしなかった。まだ行っていない店や、歩いていない道ならある。そんなものを持ち出して、彼女が決めたことを引き延ばそうとするのは、何だか幼稚に思えた。




