21
本の上に、人の影が落ちた。
顔を上げると、ホールから出てきた人たちが、ロビーの真ん中で足を止めていた。集合写真は撮り終わったらしい。プログラムを丸めて持った男の人が、入口の方へ歩きながら、誰かにもう一度頭を下げていた。
俺は本を閉じた。
成瀬は、開いた扉の向こうにいた。森田さんと話している。その横から別の女の人が声を掛けると、成瀬はそちらを向き、両手を身体の前で揃えた。
何か褒められたのかもしれない。少し頭を下げてから答え、相手がもう一言続けると、今度は顔を上げたまま頷いていた。
まだ掛かりそうだった。
俺は鞄へ本をしまい、代わりにスマホを出した。時刻を見たが、急ぐ理由があるわけではなかった。朝も、そう言った。
扉のところに石田が来た。成瀬へ声を掛け、持っていたプログラムを開いた。彼が指したところを、成瀬も覗き込む。石田が何か言うと、成瀬は首を振り、それから指先で別のところを示した。
二人のやり取りを見て、昨日の練習室の前を思い出した。俺が一つ意味を考えている間に、もう次の話へ進んでいた。今は声がよく聞こえないので、何の話なのかさえ分からなかったが、成瀬が困っていないことくらいは分かった。
彼女が笑った。石田も笑い、そばにいた女の人が会話へ加わった。
俺はスマホへ目を戻した。
待つのが嫌だったわけではない。本もあるし、座る場所もある。駅で四十分待ったときには、それだけで十分だった。今も同じようにしていれば、そのうち成瀬が来る。
そう考えているのに、扉が動くたびに顔が上がった。今度こそ、とまでは思っていないつもりだった。ただ、違う人が出てきたのを確かめてから、また手元を見ることになった。
待っていると知らせた方がいいのだろうか。
連絡先を開いて、そこで指が止まった。
知らせれば、成瀬は話を切り上げて来るかもしれない。朝、一緒に帰ろうと言ったのは彼女なのだから、俺がまだいると知れば、そうしてくれる気がした。
それでよかったはずだった。
けれど、俺に気づく前まで笑っていた彼女が、誰かに断ってこちらへ来るところを想像すると、素直に待っていられなくなった。
俺と帰る道では、さっきの演奏についてあんなふうには話せない。感想ならもう伝えた。ほかにも話したいことはあった気がするのに、今考えると、わざわざ会話を中断してまで聞いてもらうようなことは出てこなかった。
成瀬は昨日、俺と帰ると言った。今日も、聴きに来てほしいと言ってくれた。
それを忘れたわけではなかった。だからここまで来たし、演奏を聴けてよかったと思っている。ただ、昨日そう言ったことと、今あそこでもう少し話していたいことは、両方あってもおかしくない。
俺なら、気にしなくていい。
そこまで考えると、ようやくすることが決まったような気がした。
『先戻ってる』
打った文字を見直し、送った。
椅子から立ち上がって鞄を肩へ掛けた。扉の方をもう一度見ると、成瀬は女の人の話を聞いていた。声を掛けるには、近くまで行かなければならない。
俺は入口へ向かった。
外へ出ると、まだ日が高かった。冷房の中に長くいたせいで、歩き出してすぐに首の後ろが熱くなった。
来た道を一人で戻った。隣を歩く人に合わせなくていいので、自然と足が速くなった。商店街の角まで来たところで、ポケットの中のスマホが震えた。
『もう帰ったの?』
俺は店先を避け、道の端へ寄った。
『うん。今、商店街』
すぐに既読がついた。
『一緒に帰るって言ったじゃん』
文字を見てから、文化館のある方へ顔を向けた。建物はもう見えなかった。
言われるだろうとは、少し思っていた。そのために、先に連絡したつもりだった。
『みんなと話してたから、ゆっくりしてくればいいと思って』
送ったあと、画面を持つ手を下げられなかった。
少しして、返事が来た。
『戻ったら話したい』
俺は「うん」と返した。
怒らせたらしい。
もう一度、俺の送った文を読んだ。急いでほしかったわけではないし、待たされたから帰ったわけでもない。そのことは、書いたつもりだった。
けれど成瀬の返事には、俺が考えた理由へ頷くところがなかった。一緒に帰ると言った。その一つだけを、もう一度俺の前へ置かれたようだった。
戻ろうか、と打ちかけた。
その数文字を見ているうちに、もうこちらへ向かっているかもしれないと思った。戻ったら話したいと彼女は言ったのだから、宿で待っていればいいのだろう。
文字を消し、スマホをポケットへ戻した。
パン屋の前を通った。朝、成瀬が曲がろうとした角だった。
あのときは、帰りも一緒なら道を間違えずに済むという話をした。俺は店の横の道を見たが、用もないので、そのまま真っすぐ歩いた。
宿へ戻ると、叔母が食堂のテーブルを拭いていた。
「おかえり。真帆ちゃんは?」
「まだ文化館。片づけとか、話とかあるみたいで」
「そう。直人、着替えたら、お箸出すの手伝ってくれる?」
「うん」
聞かれたことには答えられた。叔母も、それ以上は尋ねなかった。
部屋に鞄を置き、シャツを替えた。本を出そうとして、一緒に入っていたプログラムに手が触れた。
成瀬が書いた名前は、折り目の少し上にあった。
出して、と言われて渡したときには、こんなものを頼んでどうするんだと少し恥ずかしかった。今見ると、受け取ったときにもう何か言えたような気がした。けれど、何を言えばよかったのかまでは思いつかなかった。
プログラムを机に置いて、下へ戻った。
箸を人数分ずつ並べていると、玄関の戸が開いた。
成瀬だった。ケースを持って上がり、俺を見つけると足を止めた。
「おかえり」
「ただいま」
いつもなら、そのあと何か続いた。暑かったとか、花はどこにいるのかとか。成瀬はケースの持ち手を握り直しただけだったので、俺から尋ねた。
「もう終わった?」
「うん」
「石田たちも?」
「まだ残ってる。ご飯、食べていかないかって誘われたけど」
俺は並べかけの箸を置いた。
「そうなんだ」
「断ってきた」
「……無理に戻らなくてもよかったのに」
成瀬の視線が、俺の顔に留まった。
言ってから、無理に、というのは余計だったかもしれないと思った。自分が先に帰ったせいで、彼女まで急いで戻ることになったのなら、そうする必要はなかったと伝えたかった。
「無理してないよ」
「いや、せっかく誘われたなら」
「今日はここで食べるつもりだったから、断ったの」
声は大きくなかった。けれど、そのあとはもう何も足さず、俺の返事を待っていた。
分かった、と言えばよかったのだと思う。
俺は、彼女があそこで笑っていたところを思い出していた。もっと話していたかったのではないか。その考えは、本人から違うと言われても、すぐには引っ込まなかった。
廊下の奥から客が来た。
「すみません、お風呂ってもう入れますか」
叔母が厨房から顔を出した。成瀬は一歩脇へ寄り、ケースを身体の方へ引いた。
俺もテーブルへ向き直った。箸をどこまで置いたか分からなくなって、一度数え直した。
「三浦」
振り返ると、成瀬はまだそこにいた。
「ご飯のあと、少し話せる?」
「うん」
「じゃあ、あとで」
彼女は階段へ向かった。
話す時間は決まった。それなのに、今言えなかったことが後なら言えるのかどうか、俺には分からなかった。
夕食では、花が演奏会の話をした。
成瀬の前に出ていた子が、花と同じ学校に通っているらしかった。学年は違うが、廊下で見たことがあるという。
「明日、会ったら言おうかな。聴いたよって」
「言ったら喜ぶんじゃない?」
「でも、私のこと知らないかも」
「じゃあ、先に名前言えばいいよ」
「急に?」
成瀬は少し考えてから、たしかに、と言った。花が笑い、成瀬もつられたように口元を緩めた。
俺は味噌汁の椀を持ち上げた。
花と話している彼女は、いつもとあまり変わらなかった。そのことにほっとして、すぐに、自分と話したときは違ったのだと思い直した。
「直人、醤油」
花に言われ、手元の醤油差しを渡した。
成瀬がこちらを見た。目が合い、俺が何か言おうとする前に、花がまた話し始めた。
今度は、話すきっかけを邪魔されたとは思わなかった。何を言うか決めなくて済んだことに、少しだけ助けられてしまった。
食事のあと、成瀬は自分の食器と花の小鉢を重ねた。俺も皿を持って立ち上がる。
「先に座ってるね」
「うん。すぐ行く」
彼女は頷いて、食堂を出た。
俺は皿を厨房へ運んだ。もう何か手伝うことがないかと尋ねると、叔母は流しの方を向いたまま、大丈夫、と答えた。




