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 ロビーへ出ると、客席にいた人たちがあちこちで立ち止まっていた。花は背伸びをして廊下の奥を見たが、成瀬はまだ出てこなかった。


 叔母が花に水を飲ませている間、俺は入口の脇へ寄った。プログラムを畳んで鞄へ入れようとしたところで、廊下から成瀬が出てきた。


 彼女は片手のスマホへ何か打ち込み、画面を確かめてからしまった。それからロビーを見回した。


 俺が手を上げるより先に、目が合った。


「あ、いた」


 成瀬が人の間を抜けてこちらへ来た。俺は入れかけていたプログラムを、そのまま手に持ち直した。


「お疲れ」


「ありがとう。どこ行ったのかと思った」


「ここにいたよ」


「うん。見つけた」


 それだけのやり取りで、さっきまで考えていたことが少し遠のいた。成瀬は俺を探して、こちらへ歩いてきた。そのことが、思っていたより嬉しかった。


 花が気づき、俺たちの間へ顔を出した。


「分かったよ!」


「昨日のところ?」


「うん。直人も分かったって」


 成瀬は花へ笑いかけてから、俺を見た。


「どうだった?」


「短かった」


「え?」


「もっとある気がしてたら、終わった」


 成瀬は少し目を開き、それから口元を緩めた。


「昨日と同じだけ弾いたよ」


「そうなんだろうけど」


「一曲って言ったでしょ」


「それはもう聞いた」


 昼にも同じことを言われたのを思い出して、俺が笑うと、成瀬も笑った。舞台では見分けられなかった表情が、今はすぐ前にあった。


「昼に言ってたのは、どうだった?」


 俺が尋ねると、成瀬は一度、ホールの方へ目を向けた。


「出てよかったかってこと?」


「うん」


 彼女はこちらへ戻り、頷いた。


「よかった。ちゃんと」


「そっか」


 俺も頷いた。よかったと言っている本人を見て、ようやく自分まで少し気が緩んだ。


 叔母が声を掛けると、成瀬は姿勢を直して礼を言った。花はその横で、自分のプログラムを開いていた。


「ここ、名前書いて」


「もう書いてあるよ」


「真帆お姉ちゃんが書いたやつ」


 成瀬は俺へ顔を向けた。俺が肩をすくめると、彼女は鞄を開いた。


「普通に書くよ」


「いいよ」


 近くの机でペンを走らせ、印刷された名前の脇へ、もう一つ名前を書いた。花はそれを叔母へ見せにいった。


「俺も頼めばよかったかな」


 成瀬がペンをしまいかけた手を止めた。


「書こうか?」


「いや、言ってみただけ」


「何それ。出しちゃったじゃん」


 彼女がもう一度抜きかけたペンを見せたので、俺は持っていたプログラムを差し出した。


「じゃあ、せっかくだから」


「せっかくだから、って」


 成瀬は笑いながら受け取った。自分の名前を書き足し、紙を俺の方へ戻す。


「はい」


「ありがとう」


 自分から頼んだような形になって、少し気恥ずかしかった。俺は今度こそプログラムを畳み、鞄へ入れた。


 帰り道で、もう少し今日の話ができそうだった。昼に言えなかったことも、今なら言えるかもしれない。何を言うのかまでは浮かばなかったが、成瀬が隣にいる間に考えればいいと思った。


「成瀬さん、集合写真を撮りますので、お願いします」


 ホールの方から声が掛かった。


「はい」


 成瀬はすぐに返事をし、ペンをしまった。


「写真、撮るみたい。あと、少し片づけもあるって」


「うん」


 俺が頷くと、彼女は花にも声を掛け、ホールへ戻っていった。


 さっきまで俺の持っている紙を覗いていた顔が、今度は呼んだ人の方を向いていた。俺はその背中を見送り、鞄の口を閉じた。


 話が途中で終わったわけではない。集合写真を撮ることも、出演したのだから普通のことだろう。それなのに、成瀬が離れただけで、さっきまで賑やかだった場所が少し静かになった気がした。


 叔母が仕事へ戻ると言った。花はまだいたそうにしていたが、名前を書いてもらったところを折らないように、プログラムを鞄へ入れた。


「直人は?」


「俺は、もう少し後で」


「じゃあ、真帆お姉ちゃんにもよろしくね」


 二人を見送り、俺は入口近くの椅子へ座った。


 朝、一緒に帰ろうと言われていた。写真が終われば戻ってくるのだろう。俺はそのつもりで待っていた。


 ホールの扉が開いたとき、成瀬がケースの蓋を閉じているのが見えた。森田さんと何か話し、控室と書かれた部屋へ運んでいった。少しして手ぶらで戻ると、今度は舞台の方から呼ばれた。


 俺は鞄の中のプログラムへ触れた。成瀬の書いた名前は、畳んだ紙の内側にあった。


 探して来てくれた。今日の演奏をどう思ったかも、聞いてくれた。さっきはそれを、疑うことなく嬉しいと思えた。


 けれど、ホールの方を見ていると、別の考えも浮かんだ。聴きに来た人がいれば、演奏した後に顔を見せるのは普通なのかもしれない。花にも叔母にも、お礼を言っていた。俺がそこにいたから、俺にも話してくれたのだろうか。


 成瀬は俺の名前を呼んだ。それなのに、そんなふうにも考えられてしまう。


 俺はプログラムから手を離した。写真が終わるまで、何時間も掛かるわけではない。一緒に帰る予定も変わっていない。さっき笑って話せたことまで、考え直す必要はないはずだった。


 ホールの中で笑い声がした。成瀬の声かどうかは分からなかったが、俺は顔を上げた。


 もう少し一緒に話していたかった。そのくらいは分かった。けれど、その「もう少し」がいつまでなのか、どんな返事があれば満足するのかは分からなかった。


 鞄から本を出し、しおりのところを開いた。一段落読んでから、何が書いてあったのか分からず、最初へ目を戻した。


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