20
ロビーへ出ると、客席にいた人たちがあちこちで立ち止まっていた。花は背伸びをして廊下の奥を見たが、成瀬はまだ出てこなかった。
叔母が花に水を飲ませている間、俺は入口の脇へ寄った。プログラムを畳んで鞄へ入れようとしたところで、廊下から成瀬が出てきた。
彼女は片手のスマホへ何か打ち込み、画面を確かめてからしまった。それからロビーを見回した。
俺が手を上げるより先に、目が合った。
「あ、いた」
成瀬が人の間を抜けてこちらへ来た。俺は入れかけていたプログラムを、そのまま手に持ち直した。
「お疲れ」
「ありがとう。どこ行ったのかと思った」
「ここにいたよ」
「うん。見つけた」
それだけのやり取りで、さっきまで考えていたことが少し遠のいた。成瀬は俺を探して、こちらへ歩いてきた。そのことが、思っていたより嬉しかった。
花が気づき、俺たちの間へ顔を出した。
「分かったよ!」
「昨日のところ?」
「うん。直人も分かったって」
成瀬は花へ笑いかけてから、俺を見た。
「どうだった?」
「短かった」
「え?」
「もっとある気がしてたら、終わった」
成瀬は少し目を開き、それから口元を緩めた。
「昨日と同じだけ弾いたよ」
「そうなんだろうけど」
「一曲って言ったでしょ」
「それはもう聞いた」
昼にも同じことを言われたのを思い出して、俺が笑うと、成瀬も笑った。舞台では見分けられなかった表情が、今はすぐ前にあった。
「昼に言ってたのは、どうだった?」
俺が尋ねると、成瀬は一度、ホールの方へ目を向けた。
「出てよかったかってこと?」
「うん」
彼女はこちらへ戻り、頷いた。
「よかった。ちゃんと」
「そっか」
俺も頷いた。よかったと言っている本人を見て、ようやく自分まで少し気が緩んだ。
叔母が声を掛けると、成瀬は姿勢を直して礼を言った。花はその横で、自分のプログラムを開いていた。
「ここ、名前書いて」
「もう書いてあるよ」
「真帆お姉ちゃんが書いたやつ」
成瀬は俺へ顔を向けた。俺が肩をすくめると、彼女は鞄を開いた。
「普通に書くよ」
「いいよ」
近くの机でペンを走らせ、印刷された名前の脇へ、もう一つ名前を書いた。花はそれを叔母へ見せにいった。
「俺も頼めばよかったかな」
成瀬がペンをしまいかけた手を止めた。
「書こうか?」
「いや、言ってみただけ」
「何それ。出しちゃったじゃん」
彼女がもう一度抜きかけたペンを見せたので、俺は持っていたプログラムを差し出した。
「じゃあ、せっかくだから」
「せっかくだから、って」
成瀬は笑いながら受け取った。自分の名前を書き足し、紙を俺の方へ戻す。
「はい」
「ありがとう」
自分から頼んだような形になって、少し気恥ずかしかった。俺は今度こそプログラムを畳み、鞄へ入れた。
帰り道で、もう少し今日の話ができそうだった。昼に言えなかったことも、今なら言えるかもしれない。何を言うのかまでは浮かばなかったが、成瀬が隣にいる間に考えればいいと思った。
「成瀬さん、集合写真を撮りますので、お願いします」
ホールの方から声が掛かった。
「はい」
成瀬はすぐに返事をし、ペンをしまった。
「写真、撮るみたい。あと、少し片づけもあるって」
「うん」
俺が頷くと、彼女は花にも声を掛け、ホールへ戻っていった。
さっきまで俺の持っている紙を覗いていた顔が、今度は呼んだ人の方を向いていた。俺はその背中を見送り、鞄の口を閉じた。
話が途中で終わったわけではない。集合写真を撮ることも、出演したのだから普通のことだろう。それなのに、成瀬が離れただけで、さっきまで賑やかだった場所が少し静かになった気がした。
叔母が仕事へ戻ると言った。花はまだいたそうにしていたが、名前を書いてもらったところを折らないように、プログラムを鞄へ入れた。
「直人は?」
「俺は、もう少し後で」
「じゃあ、真帆お姉ちゃんにもよろしくね」
二人を見送り、俺は入口近くの椅子へ座った。
朝、一緒に帰ろうと言われていた。写真が終われば戻ってくるのだろう。俺はそのつもりで待っていた。
ホールの扉が開いたとき、成瀬がケースの蓋を閉じているのが見えた。森田さんと何か話し、控室と書かれた部屋へ運んでいった。少しして手ぶらで戻ると、今度は舞台の方から呼ばれた。
俺は鞄の中のプログラムへ触れた。成瀬の書いた名前は、畳んだ紙の内側にあった。
探して来てくれた。今日の演奏をどう思ったかも、聞いてくれた。さっきはそれを、疑うことなく嬉しいと思えた。
けれど、ホールの方を見ていると、別の考えも浮かんだ。聴きに来た人がいれば、演奏した後に顔を見せるのは普通なのかもしれない。花にも叔母にも、お礼を言っていた。俺がそこにいたから、俺にも話してくれたのだろうか。
成瀬は俺の名前を呼んだ。それなのに、そんなふうにも考えられてしまう。
俺はプログラムから手を離した。写真が終わるまで、何時間も掛かるわけではない。一緒に帰る予定も変わっていない。さっき笑って話せたことまで、考え直す必要はないはずだった。
ホールの中で笑い声がした。成瀬の声かどうかは分からなかったが、俺は顔を上げた。
もう少し一緒に話していたかった。そのくらいは分かった。けれど、その「もう少し」がいつまでなのか、どんな返事があれば満足するのかは分からなかった。
鞄から本を出し、しおりのところを開いた。一段落読んでから、何が書いてあったのか分からず、最初へ目を戻した。




