↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/29

19

 開場の少し前に、花が叔母と来た。入口で俺を見つけると、花は手に持っていた小さな鞄を振った。


「真帆お姉ちゃんは?」


「向こう。準備してる」


「もう着替えた?」


「朝と同じだと思うけど」


 花は少し意外そうな顔をした。どんな服で出てくると思っていたのか聞こうとしたところで、受付の人が扉を開けた。


 プログラムを受け取り、三人で客席へ入った。花は前へ行きたがったが、叔母が通路の近くで足を止めたので、その並びに座った。


 花が俺の隣へ来て、プログラムを開いた。


「どこ?」


 成瀬の名前を指すと、彼女はその下の曲名を読もうとした。途中で諦めたらしく、名前の方だけをもう一度見た。


「まだ先だね」


「ほかの人も弾くから」


 二時になると、森田さんが舞台へ上がって挨拶をした。客席で話していた人たちが前を向き、俺も鞄の中のスマホを確かめた。


 最初は小さな子のピアノだった。先生らしい人が椅子の高さを直し、足元へ台を置いた。弾き終えて頭を下げると、前の方の席から大きな拍手が起こった。


 知らない曲ばかりだった。花はときどきプログラムへ目を落とし、今どこなのかを指で追った。俺も一緒に確かめたが、途中からは、曲が終わるまで紙を見なくなった。


 石田が出てきたとき、俺は顔を上げた。


 昨日は半袖だった腕が、今日は長袖のシャツに隠れていた。楽器を構えると、ロビーで成瀬へ話しかけていたときとは、顔の向きまで違った。


 途中から速くなってしまうと、彼は言っていた。俺にはどこがそうなのか分からなかったが、昨日話していたときの手の動きは思い出せた。その手を見て、成瀬はすぐに頷いていた。


 あの二人が知っているのは、曲名だけではないのだろう。うまくいかなかったところや、何度も弾き直したところまで、話の途中に含まれていたのかもしれない。俺は昨日、その説明が始まるのを待っていた。けれど、二人には説明する必要がなかった。


 石田の演奏が終わると、俺も拍手をした。昨日の彼と、今頭を下げている彼が、ようやくつながったような気がした。


 何人かの演奏を挟み、成瀬の名前が呼ばれた。


 父親の名前は出なかった。成瀬真帆という名前と曲名が読み上げられ、舞台脇から彼女が出てきた。


「来た」


 花が小さく言った。


 白いブラウスは朝と同じだった。背中のしわが気になっていたことを思い出し、見ようとしたが、成瀬はもう客席へ向き直っていた。


 頭を下げ、楽器を構える。午前中に音を確かめた辺りで、足が止まった。半歩動いては弾き直していた場所を、今は迷わず選んでいた。


 近くで鳴っていたプログラムの紙の音が止まった。


 最初の音を聴いて、俺は少し嬉しくなった。もう知っている曲だった。昨日は何も分からないまま聴き始めたのに、今日は、ここから始まるのだと分かる。


 花がこちらを見たので頷くと、彼女は満足そうに舞台へ目を戻した。


 俺も成瀬を見た。昼にはサンドイッチを持ったまま時計を見ていた人が、今は一度も客席の時計を見ないで弾いている。当たり前かもしれないが、その当たり前のことが、俺には少し不思議だった。


 曲が続いた。昨日覚えたところが戻ってきて、俺は次の音を待った。思っていたとおりの音が来た。もう少し聴いていたいと言ったのは、間違いではなかった。


 なのに、演奏が進むにつれて、胸の辺りが少し落ち着かなくなった。


 成瀬を遠く感じる理由を、昨日は部屋や話題のせいにできた。石田たちの会話を知らないのは、俺がヴァイオリンを弾かないからだ。演奏している間に話しかけられないのも、当然のことだった。


 けれど今は、曲を知っていても、彼女が何をしているか分かっていても、同じ感じがした。


 俺は成瀬と食事をした。海へ行き、本屋へ行き、花とトランプをした。何を言うと笑うのか、少しなら分かるようになったつもりだった。彼女が昨日のことを覚えていて、話を続けてくれるのが嬉しかった。


 その一つ一つを、俺は成瀬を知ったこととして数えていたのだと思う。


 舞台の彼女が、弓を持つ腕を動かした。俺には見分けられないくらい細かな動きが、音を途切れさせずに続いていた。


 小学生の頃から弾いていたというのは、こういうことなのだろうか。ただ何年も前に一度弾いたことがある、という話ではなかった。覚えた曲を繰り返し弾き、誰かに聴いてもらい、うまくいかなければまた弾く。その間に学校へ行ったり、夕飯を食べたりして、次の日も楽器を持つ。


 俺が見ていないところに、そういう一日が何日もある。


 本屋で見た父親の写真も、今になって別のものにつながった。雑誌に載っている有名な人が家にいる、というだけではない。その人の録音を聴いて曲を覚え、練習していたら部屋へ入ってきて、今の弾き方が好きだと言われる。成瀬には、それが自分の家であったこととして話せる。


 俺は話として聞いていただけだった。その続きを、今日初めて目の前で見ているのかもしれなかった。


 曲がまた、知っているところへ戻った。


 俺は考えかけていたことをやめ、音を追った。さっきと同じはずなのに、戻ってくるたびに待っていてよかったと思う。成瀬の演奏が終わってほしくない。その気持ちのまま、彼女について知らないことの多さも、さっきよりはっきりしていった。


 この数日間の成瀬が、普段と違う人だったとは思わない。朝のブラウスも、昼の食べかけのサンドイッチも、ここまで続いている。


 ただ、その続き方を知っているのが俺だけではないことを、妙に気にしていた。石田なら、今の演奏について俺とは違うことを話せるのだろう。森田さんには、成瀬がどんな音を確かめたくて立つ場所を変えたのか、すぐに分かったのだろう。


 俺が昨日知ったことは、彼女の中ではずっと前から続いていた。


 それは、出会って数日の相手なら当然のことだった。なのに、当然だと考えても、気持ちはそのとおりには収まらなかった。


 最後の音が伸びた。成瀬の弓が離れ、客席に拍手が広がった。


 俺も手を叩いた。もう終わったのかと思った。


 成瀬は楽器を下ろし、頭を下げた。顔を上げたとき、どこを見ていたのか確かめようとしたが、客席には何人も人がいた。こちらを見たようにも思えたし、そう思いたかっただけかもしれなかった。


 彼女はもう一度礼をして、舞台脇へ歩いた。次の出演者と少し顔を向け合ってから、奥へ消えた。


「分かったよ」


 花が俺の袖を引いた。


「うん。俺も」


「昨日のとこ」


 俺は頷いた。花は嬉しそうにプログラムを膝へ置き直した。


 次の演奏が始まったので、俺たちはまた前を向いた。俺は最後まで席に座っていたが、曲の切れ目になると、成瀬が消えた舞台脇へ目が行った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。