19
開場の少し前に、花が叔母と来た。入口で俺を見つけると、花は手に持っていた小さな鞄を振った。
「真帆お姉ちゃんは?」
「向こう。準備してる」
「もう着替えた?」
「朝と同じだと思うけど」
花は少し意外そうな顔をした。どんな服で出てくると思っていたのか聞こうとしたところで、受付の人が扉を開けた。
プログラムを受け取り、三人で客席へ入った。花は前へ行きたがったが、叔母が通路の近くで足を止めたので、その並びに座った。
花が俺の隣へ来て、プログラムを開いた。
「どこ?」
成瀬の名前を指すと、彼女はその下の曲名を読もうとした。途中で諦めたらしく、名前の方だけをもう一度見た。
「まだ先だね」
「ほかの人も弾くから」
二時になると、森田さんが舞台へ上がって挨拶をした。客席で話していた人たちが前を向き、俺も鞄の中のスマホを確かめた。
最初は小さな子のピアノだった。先生らしい人が椅子の高さを直し、足元へ台を置いた。弾き終えて頭を下げると、前の方の席から大きな拍手が起こった。
知らない曲ばかりだった。花はときどきプログラムへ目を落とし、今どこなのかを指で追った。俺も一緒に確かめたが、途中からは、曲が終わるまで紙を見なくなった。
石田が出てきたとき、俺は顔を上げた。
昨日は半袖だった腕が、今日は長袖のシャツに隠れていた。楽器を構えると、ロビーで成瀬へ話しかけていたときとは、顔の向きまで違った。
途中から速くなってしまうと、彼は言っていた。俺にはどこがそうなのか分からなかったが、昨日話していたときの手の動きは思い出せた。その手を見て、成瀬はすぐに頷いていた。
あの二人が知っているのは、曲名だけではないのだろう。うまくいかなかったところや、何度も弾き直したところまで、話の途中に含まれていたのかもしれない。俺は昨日、その説明が始まるのを待っていた。けれど、二人には説明する必要がなかった。
石田の演奏が終わると、俺も拍手をした。昨日の彼と、今頭を下げている彼が、ようやくつながったような気がした。
何人かの演奏を挟み、成瀬の名前が呼ばれた。
父親の名前は出なかった。成瀬真帆という名前と曲名が読み上げられ、舞台脇から彼女が出てきた。
「来た」
花が小さく言った。
白いブラウスは朝と同じだった。背中のしわが気になっていたことを思い出し、見ようとしたが、成瀬はもう客席へ向き直っていた。
頭を下げ、楽器を構える。午前中に音を確かめた辺りで、足が止まった。半歩動いては弾き直していた場所を、今は迷わず選んでいた。
近くで鳴っていたプログラムの紙の音が止まった。
最初の音を聴いて、俺は少し嬉しくなった。もう知っている曲だった。昨日は何も分からないまま聴き始めたのに、今日は、ここから始まるのだと分かる。
花がこちらを見たので頷くと、彼女は満足そうに舞台へ目を戻した。
俺も成瀬を見た。昼にはサンドイッチを持ったまま時計を見ていた人が、今は一度も客席の時計を見ないで弾いている。当たり前かもしれないが、その当たり前のことが、俺には少し不思議だった。
曲が続いた。昨日覚えたところが戻ってきて、俺は次の音を待った。思っていたとおりの音が来た。もう少し聴いていたいと言ったのは、間違いではなかった。
なのに、演奏が進むにつれて、胸の辺りが少し落ち着かなくなった。
成瀬を遠く感じる理由を、昨日は部屋や話題のせいにできた。石田たちの会話を知らないのは、俺がヴァイオリンを弾かないからだ。演奏している間に話しかけられないのも、当然のことだった。
けれど今は、曲を知っていても、彼女が何をしているか分かっていても、同じ感じがした。
俺は成瀬と食事をした。海へ行き、本屋へ行き、花とトランプをした。何を言うと笑うのか、少しなら分かるようになったつもりだった。彼女が昨日のことを覚えていて、話を続けてくれるのが嬉しかった。
その一つ一つを、俺は成瀬を知ったこととして数えていたのだと思う。
舞台の彼女が、弓を持つ腕を動かした。俺には見分けられないくらい細かな動きが、音を途切れさせずに続いていた。
小学生の頃から弾いていたというのは、こういうことなのだろうか。ただ何年も前に一度弾いたことがある、という話ではなかった。覚えた曲を繰り返し弾き、誰かに聴いてもらい、うまくいかなければまた弾く。その間に学校へ行ったり、夕飯を食べたりして、次の日も楽器を持つ。
俺が見ていないところに、そういう一日が何日もある。
本屋で見た父親の写真も、今になって別のものにつながった。雑誌に載っている有名な人が家にいる、というだけではない。その人の録音を聴いて曲を覚え、練習していたら部屋へ入ってきて、今の弾き方が好きだと言われる。成瀬には、それが自分の家であったこととして話せる。
俺は話として聞いていただけだった。その続きを、今日初めて目の前で見ているのかもしれなかった。
曲がまた、知っているところへ戻った。
俺は考えかけていたことをやめ、音を追った。さっきと同じはずなのに、戻ってくるたびに待っていてよかったと思う。成瀬の演奏が終わってほしくない。その気持ちのまま、彼女について知らないことの多さも、さっきよりはっきりしていった。
この数日間の成瀬が、普段と違う人だったとは思わない。朝のブラウスも、昼の食べかけのサンドイッチも、ここまで続いている。
ただ、その続き方を知っているのが俺だけではないことを、妙に気にしていた。石田なら、今の演奏について俺とは違うことを話せるのだろう。森田さんには、成瀬がどんな音を確かめたくて立つ場所を変えたのか、すぐに分かったのだろう。
俺が昨日知ったことは、彼女の中ではずっと前から続いていた。
それは、出会って数日の相手なら当然のことだった。なのに、当然だと考えても、気持ちはそのとおりには収まらなかった。
最後の音が伸びた。成瀬の弓が離れ、客席に拍手が広がった。
俺も手を叩いた。もう終わったのかと思った。
成瀬は楽器を下ろし、頭を下げた。顔を上げたとき、どこを見ていたのか確かめようとしたが、客席には何人も人がいた。こちらを見たようにも思えたし、そう思いたかっただけかもしれなかった。
彼女はもう一度礼をして、舞台脇へ歩いた。次の出演者と少し顔を向け合ってから、奥へ消えた。
「分かったよ」
花が俺の袖を引いた。
「うん。俺も」
「昨日のとこ」
俺は頷いた。花は嬉しそうにプログラムを膝へ置き直した。
次の演奏が始まったので、俺たちはまた前を向いた。俺は最後まで席に座っていたが、曲の切れ目になると、成瀬が消えた舞台脇へ目が行った。




