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 文化館のロビーには、昨日より人が多かった。椅子の上に楽譜の入った袋が置かれ、入口に近い机では、二人の女性がプログラムを重ねていた。


 成瀬が受付に声を掛けると、奥から森田さんが出てきた。


「おはようございます。昨日はご連絡ありがとう」


「こちらこそ、ありがとうございます」


 森田さんは俺にも挨拶をしてから、成瀬へ紙を一枚渡した。


「紹介、これで大丈夫か見てもらえる?」


 成瀬は立ったまま目を通した。俺のいる場所からも、彼女の名前と曲名が見えた。父親の名前はなかった。


「はい。これでお願いします」


「では、先に音を確かめましょうか。次の方が十一時十五分からなので、その前まで使えます」


「分かりました」


 森田さんがホールへ向かい、成瀬も続いた。俺はついていきかけて、入口のところで足を止めた。


「あの、俺も入っていいんですか」


「客席ならどうぞ。真ん中辺りが空いてますから」


 森田さんに言われ、俺は頷いた。成瀬は肩越しにこちらを見てから、舞台脇へ回っていった。


 小さなホールだった。客席はまだほとんど空いていて、前の方に荷物がいくつか置かれている。俺は通路に近い席へ座り、鞄を足元に置いた。


 舞台脇で楽器を出した成瀬が、中央へ歩いてきた。昨日は同じ机の上にあったものが、今日は客席から少し見上げる場所にある。


 森田さんが譜面台を持って近づくと、成瀬は何か短く答えた。森田さんは頷き、譜面台を脇へ寄せた。


「この辺りで弾いても大丈夫ですか」


「ええ。そこで一度、音を出してみて」


「はい」


 成瀬は客席へ顔を向け、足の位置を少し直した。俺は鞄から本を出そうとしていたが、手を引っ込めた。


 音が鳴った。


 昨日より大きいのか、小さいのか、すぐには分からなかった。離れているのに、部屋で聴いたときより長く残る感じがした。


 成瀬は短く弾いて手を止め、森田さんへ顔を向けた。


「少し前でも弾いてみていいですか」


「どうぞ。端までは余裕があるから」


 半歩ほど進んで、同じところをもう一度弾いた。俺には違いが分からなかったが、成瀬は今度の場所で頷いた。


 昨日覚えたところが聞こえた。俺は続きを待ったが、曲はそこで止まった。彼女は別のところを少し弾き、それから楽器を下ろした。


「大丈夫です。ありがとうございます」


 森田さんと話しながら、成瀬は舞台を下りた。


 その間、俺がすることは特になかった。ケースを運ぼうかと思うより先に、彼女は自分で置き場所を確かめ、必要なことを聞いていた。


 昨日の演奏を聴いて、弾ける人なのだということは分かったつもりだった。けれど、弾き始めるまでにも、成瀬には確かめることがいくつもあるらしい。森田さんも、一つ聞かれるたびにすぐ答えていた。俺だけが、どうしてそうするのかを少し後から考えていた。


 客席のドアが開き、別の親子が入ってきた。俺は通路へ出て、ロビーへ戻った。


 しばらくして、成瀬がケースを持って出てきた。


「お待たせ。もう少し打ち合わせあるかと思ったけど、終わった」


「もういいの?」


「うん。後は午後。森田さん、次の人のところ行くって」


 成瀬はロビーの椅子の横へケースを置いた。それから、俺が持っていたペットボトルを見た。


「それ、まだ冷たい?」


「もう、そんなに」


「そっか。何か買ってこようかな」


「向こうに自販機あったよ」


 指さすと、成瀬はそちらへ歩いた。俺も空になりかけていたので、一緒に行った。


 自動販売機の前で、彼女は並んだ飲み物を見上げた。


「桃のやつ、ないね」


「この前飲んでたの?」


「うん。おいしかったから」


 成瀬はしばらく迷ってから、水のボタンを押した。


「それでいいんだ」


「今日は、こっちにしとく」


 取り出し口へ屈んだ彼女が、冷たい、と言って指を持ち替えた。その声を聞いて、俺も自分の飲み物を選んだ。さっきまで何を言えばいいか迷っていたのが、少し楽になった。


「本、読めた?」


 成瀬が蓋を開けながら聞いた。


「出してない」


「すぐ終わったもんね」


「弾く方、見てたから」


 成瀬の手が止まった。


「音を確かめてただけだよ」


「うん。分かった」


 彼女は俺の顔を見てから、水を一口飲んだ。それ以上説明する必要はないと思ったらしく、ケースを置いた椅子へ戻っていった。俺もその隣へ、自分の鞄を置いた。


 昼になると、俺たちは近くの店で買ったものを、文化館の休憩スペースで食べた。成瀬はサンドイッチの包みを開いたが、一つ取ってからも、しばらく中身を見ていた。


 俺が二つ目のおにぎりを食べ始めると、彼女は壁の時計へ目を向けた。


「まだ十二時半だよ」


「うん」


 成瀬は手元へ視線を戻し、サンドイッチを一口かじった。飲み込んでから水を飲み、蓋を閉める途中で、また時計を見た。


「緊張してる?」


「してる」


「そうなんだ」


「そんなに意外?」


「午前中、普通だったから」


 成瀬はペットボトルを机へ置いた。


「普通にしてたつもりではあるけど」


「ああ、うん」


「何、その返事」


「いや。ちゃんと普通に見えてたよ」


 彼女は少し笑った。それから食べかけのサンドイッチを包みの上へ戻した。


「今日の、ちょっと変な感じがするんだよね」


「変?」


「昨日ここに来るまで、出る予定なんてなかったじゃん。今日も海に行ってたかもしれないのに」


「またカニ?」


「まだ見てない岩、あったでしょ」


 そんなに気になっていたのかと思っていると、成瀬は机の上の包みを指で押さえた。


「それなのに、自分から出ますって言ってきちゃった」


「やめたくなった?」


「違う。出たいんだけど」


 返事はすぐだった。その後の言葉は、少し考えてから出てきた。


「いつもは、何を弾くか先生と話したり、家で聴いてもらったりしてからだから。今回、私がここで弾けるって言った曲を、そのまま弾くんだなって」


「紹介のことも、自分で言ってたね」


「うん。あれもちょっと緊張した。お父さんの名前、入れないでくださいって」


 成瀬は俺を見て、口元だけを緩めた。


「森田さん、すぐ分かりましたって言ってくれたけど」


 俺は頷いた。あのとき彼女が返事を待っていた間のことを、少し思い出した。


「いつもだって、弾きたくて弾いてるんだよ。ただ、今日のは……」


 成瀬はそこで止まり、包みの端を折った。さっき折ったところとずれていたので、開いてやり直した。


「終わったときに、出てよかったって思いたい。自分で出るって言ったんだから、余計に」


 俺は食べ終わったおにぎりの包みを丸めた。


 大丈夫だと言おうとして、やめた。何が大丈夫なのか、自分でもよく分からなかった。成瀬がどのくらい弾ける人なのか、どんな演奏なら満足できるのか、俺は知らない。


 けれど、知らないことを理由に黙っていると、彼女が話してくれたことまで、そのまま机の上に残してしまう気がした。


「俺は、昨日もっと聴きたかったよ」


 成瀬が顔を上げた。


「え?」


「もう一曲くらい。終わったから、それ以上言わなかったけど」


「言ってくれればよかったのに」


「夕飯だったし」


「まあ、そうだけど」


 彼女は少し前へ身体を寄せた。俺が何も続けないでいると、自分からまた口を開いた。


「今日も一曲だよ」


「それは知ってる」


「増えないよ」


「分かってるって」


 俺は膝に置いた手を、一度握って開いた。


「でも、楽しみにしてる。昨日、もう一回聴きたいと思ったから」


 成瀬はサンドイッチへ手を伸ばしかけ、そのまま包みの端に指を置いた。


「……そういうの、急に言うね」


「急にって」


「昨日は、曲名もう怪しいって言ってたのに」


「それとは別だろ」


「うん。別だけど」


 成瀬は少し下を向いた。俺も何となく机へ目を落としたが、このまま食べ物の話へ戻すのも違う気がした。


「だから、頑張って」


 言ってから顔を上げると、彼女もこちらを見ていた。


「うん」


 一度頷いてから、成瀬は小さく息を吐いた。


「なんか、余計に緊張してきた」


「……今ので?」


「でも、嬉しかったから。言わなきゃよかったって顔しないで」


 どんな顔をしたのかは分からなかった。成瀬が笑ったので、俺も少し笑って、空の包みを片づけた。


 彼女はサンドイッチの残りを取り上げた。さっきより大きく口を開けたが、一口では食べきれず、慌てて包みを顎の下へ持っていった。


「落ちた?」


「まだ」


 口の中にものがあるので、返事は短かった。


 食べ終えると、成瀬はごみをまとめ、ケースを肩へ掛けた。スマホで時間を確かめてから、俺へ顔を向けた。


「行ってくるね」


「うん」


「花ちゃん来たら、よろしく」


 彼女は廊下の方へ歩き、スタッフに声を掛けた。返事を聞くとすぐに頷き、案内された方へ曲がった。


 俺は、その姿が見えなくなるまで見ていた。呼べばまだ振り返ってくれそうだったが、もう呼ぶ用事はなかった。

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