18
文化館のロビーには、昨日より人が多かった。椅子の上に楽譜の入った袋が置かれ、入口に近い机では、二人の女性がプログラムを重ねていた。
成瀬が受付に声を掛けると、奥から森田さんが出てきた。
「おはようございます。昨日はご連絡ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます」
森田さんは俺にも挨拶をしてから、成瀬へ紙を一枚渡した。
「紹介、これで大丈夫か見てもらえる?」
成瀬は立ったまま目を通した。俺のいる場所からも、彼女の名前と曲名が見えた。父親の名前はなかった。
「はい。これでお願いします」
「では、先に音を確かめましょうか。次の方が十一時十五分からなので、その前まで使えます」
「分かりました」
森田さんがホールへ向かい、成瀬も続いた。俺はついていきかけて、入口のところで足を止めた。
「あの、俺も入っていいんですか」
「客席ならどうぞ。真ん中辺りが空いてますから」
森田さんに言われ、俺は頷いた。成瀬は肩越しにこちらを見てから、舞台脇へ回っていった。
小さなホールだった。客席はまだほとんど空いていて、前の方に荷物がいくつか置かれている。俺は通路に近い席へ座り、鞄を足元に置いた。
舞台脇で楽器を出した成瀬が、中央へ歩いてきた。昨日は同じ机の上にあったものが、今日は客席から少し見上げる場所にある。
森田さんが譜面台を持って近づくと、成瀬は何か短く答えた。森田さんは頷き、譜面台を脇へ寄せた。
「この辺りで弾いても大丈夫ですか」
「ええ。そこで一度、音を出してみて」
「はい」
成瀬は客席へ顔を向け、足の位置を少し直した。俺は鞄から本を出そうとしていたが、手を引っ込めた。
音が鳴った。
昨日より大きいのか、小さいのか、すぐには分からなかった。離れているのに、部屋で聴いたときより長く残る感じがした。
成瀬は短く弾いて手を止め、森田さんへ顔を向けた。
「少し前でも弾いてみていいですか」
「どうぞ。端までは余裕があるから」
半歩ほど進んで、同じところをもう一度弾いた。俺には違いが分からなかったが、成瀬は今度の場所で頷いた。
昨日覚えたところが聞こえた。俺は続きを待ったが、曲はそこで止まった。彼女は別のところを少し弾き、それから楽器を下ろした。
「大丈夫です。ありがとうございます」
森田さんと話しながら、成瀬は舞台を下りた。
その間、俺がすることは特になかった。ケースを運ぼうかと思うより先に、彼女は自分で置き場所を確かめ、必要なことを聞いていた。
昨日の演奏を聴いて、弾ける人なのだということは分かったつもりだった。けれど、弾き始めるまでにも、成瀬には確かめることがいくつもあるらしい。森田さんも、一つ聞かれるたびにすぐ答えていた。俺だけが、どうしてそうするのかを少し後から考えていた。
客席のドアが開き、別の親子が入ってきた。俺は通路へ出て、ロビーへ戻った。
しばらくして、成瀬がケースを持って出てきた。
「お待たせ。もう少し打ち合わせあるかと思ったけど、終わった」
「もういいの?」
「うん。後は午後。森田さん、次の人のところ行くって」
成瀬はロビーの椅子の横へケースを置いた。それから、俺が持っていたペットボトルを見た。
「それ、まだ冷たい?」
「もう、そんなに」
「そっか。何か買ってこようかな」
「向こうに自販機あったよ」
指さすと、成瀬はそちらへ歩いた。俺も空になりかけていたので、一緒に行った。
自動販売機の前で、彼女は並んだ飲み物を見上げた。
「桃のやつ、ないね」
「この前飲んでたの?」
「うん。おいしかったから」
成瀬はしばらく迷ってから、水のボタンを押した。
「それでいいんだ」
「今日は、こっちにしとく」
取り出し口へ屈んだ彼女が、冷たい、と言って指を持ち替えた。その声を聞いて、俺も自分の飲み物を選んだ。さっきまで何を言えばいいか迷っていたのが、少し楽になった。
「本、読めた?」
成瀬が蓋を開けながら聞いた。
「出してない」
「すぐ終わったもんね」
「弾く方、見てたから」
成瀬の手が止まった。
「音を確かめてただけだよ」
「うん。分かった」
彼女は俺の顔を見てから、水を一口飲んだ。それ以上説明する必要はないと思ったらしく、ケースを置いた椅子へ戻っていった。俺もその隣へ、自分の鞄を置いた。
昼になると、俺たちは近くの店で買ったものを、文化館の休憩スペースで食べた。成瀬はサンドイッチの包みを開いたが、一つ取ってからも、しばらく中身を見ていた。
俺が二つ目のおにぎりを食べ始めると、彼女は壁の時計へ目を向けた。
「まだ十二時半だよ」
「うん」
成瀬は手元へ視線を戻し、サンドイッチを一口かじった。飲み込んでから水を飲み、蓋を閉める途中で、また時計を見た。
「緊張してる?」
「してる」
「そうなんだ」
「そんなに意外?」
「午前中、普通だったから」
成瀬はペットボトルを机へ置いた。
「普通にしてたつもりではあるけど」
「ああ、うん」
「何、その返事」
「いや。ちゃんと普通に見えてたよ」
彼女は少し笑った。それから食べかけのサンドイッチを包みの上へ戻した。
「今日の、ちょっと変な感じがするんだよね」
「変?」
「昨日ここに来るまで、出る予定なんてなかったじゃん。今日も海に行ってたかもしれないのに」
「またカニ?」
「まだ見てない岩、あったでしょ」
そんなに気になっていたのかと思っていると、成瀬は机の上の包みを指で押さえた。
「それなのに、自分から出ますって言ってきちゃった」
「やめたくなった?」
「違う。出たいんだけど」
返事はすぐだった。その後の言葉は、少し考えてから出てきた。
「いつもは、何を弾くか先生と話したり、家で聴いてもらったりしてからだから。今回、私がここで弾けるって言った曲を、そのまま弾くんだなって」
「紹介のことも、自分で言ってたね」
「うん。あれもちょっと緊張した。お父さんの名前、入れないでくださいって」
成瀬は俺を見て、口元だけを緩めた。
「森田さん、すぐ分かりましたって言ってくれたけど」
俺は頷いた。あのとき彼女が返事を待っていた間のことを、少し思い出した。
「いつもだって、弾きたくて弾いてるんだよ。ただ、今日のは……」
成瀬はそこで止まり、包みの端を折った。さっき折ったところとずれていたので、開いてやり直した。
「終わったときに、出てよかったって思いたい。自分で出るって言ったんだから、余計に」
俺は食べ終わったおにぎりの包みを丸めた。
大丈夫だと言おうとして、やめた。何が大丈夫なのか、自分でもよく分からなかった。成瀬がどのくらい弾ける人なのか、どんな演奏なら満足できるのか、俺は知らない。
けれど、知らないことを理由に黙っていると、彼女が話してくれたことまで、そのまま机の上に残してしまう気がした。
「俺は、昨日もっと聴きたかったよ」
成瀬が顔を上げた。
「え?」
「もう一曲くらい。終わったから、それ以上言わなかったけど」
「言ってくれればよかったのに」
「夕飯だったし」
「まあ、そうだけど」
彼女は少し前へ身体を寄せた。俺が何も続けないでいると、自分からまた口を開いた。
「今日も一曲だよ」
「それは知ってる」
「増えないよ」
「分かってるって」
俺は膝に置いた手を、一度握って開いた。
「でも、楽しみにしてる。昨日、もう一回聴きたいと思ったから」
成瀬はサンドイッチへ手を伸ばしかけ、そのまま包みの端に指を置いた。
「……そういうの、急に言うね」
「急にって」
「昨日は、曲名もう怪しいって言ってたのに」
「それとは別だろ」
「うん。別だけど」
成瀬は少し下を向いた。俺も何となく机へ目を落としたが、このまま食べ物の話へ戻すのも違う気がした。
「だから、頑張って」
言ってから顔を上げると、彼女もこちらを見ていた。
「うん」
一度頷いてから、成瀬は小さく息を吐いた。
「なんか、余計に緊張してきた」
「……今ので?」
「でも、嬉しかったから。言わなきゃよかったって顔しないで」
どんな顔をしたのかは分からなかった。成瀬が笑ったので、俺も少し笑って、空の包みを片づけた。
彼女はサンドイッチの残りを取り上げた。さっきより大きく口を開けたが、一口では食べきれず、慌てて包みを顎の下へ持っていった。
「落ちた?」
「まだ」
口の中にものがあるので、返事は短かった。
食べ終えると、成瀬はごみをまとめ、ケースを肩へ掛けた。スマホで時間を確かめてから、俺へ顔を向けた。
「行ってくるね」
「うん」
「花ちゃん来たら、よろしく」
彼女は廊下の方へ歩き、スタッフに声を掛けた。返事を聞くとすぐに頷き、案内された方へ曲がった。
俺は、その姿が見えなくなるまで見ていた。呼べばまだ振り返ってくれそうだったが、もう呼ぶ用事はなかった。




