17
成瀬が俺の方を見た。
「三浦は?」
「俺?」
「ほかに三浦いないでしょ」
花までこちらを向いたので、俺は膝から手を離した。
何か言わなければとは思っていた。けれど、すごかったと言うだけでは、花と同じになる。花は手の動きがすごかったと、ちゃんと自分の見たことを言っていた。
「途中で、同じところに戻ってたよね」
「うん」
「最初の方にあったやつ。何回か出てきて」
成瀬は頷いて待っていた。説明を足してもらえるかと思ったが、そうではないらしかった。
「あそこ、また来るかなと思って聞いてた」
「来た?」
「来た。だから、その辺は少し覚えたと思う」
成瀬の口元が緩んだ。
「じゃあ、明日も分かるね」
「忘れてなければ」
「一日くらい覚えててよ」
「曲名は、もう怪しいけど」
「そっちは後で教える」
彼女はそう言って机へ向き直った。弓の端を回してからケースへ収め、布を取り出して楽器を拭き始めた。
もっと何か言うべきなのかと思っていると、成瀬は布を動かしながら、もう一度こちらを見た。
「戻ってくるところ、私も好きだよ」
俺は頷いた。曲の中に、二人とも好きだと思うところがある。それだけのことが分かるまで、さっきは随分考えてしまった。
「いつから弾いてるの、その曲」
「小学生のときには弾いてたと思う。ちゃんと習ったのが何年生だったかは、ちょっと忘れた」
「そんな前から?」
「うん。お父さんの録音を家で聴いてたから、弾く前から知ってたの」
成瀬は楽器の向きを変え、布の端で弦の下を拭いた。
「最初は、知ってる曲だからすぐ弾けると思ってたんだけど」
「違った?」
「全然。聴いてると簡単そうなのに」
花が、自分もさっき指が動かなかったと言った。成瀬は笑いながら、最初はそうだよと答えた。
俺がこの曲を知ったのは、ついさっきだった。成瀬には、うまく弾けなかった頃まである。小学生の彼女が楽器を持つところを想像してみたが、顔が今より少し幼くなるだけで、それ以上は浮かばなかった。
今日初めて聴いた曲について、彼女は何年も前のことを話している。その違いが、なぜか少し気になった。
廊下から叔母が夕飯の声を掛けた。花が椅子から下りかけ、机の方を見た。
「トランプは?」
「あ、そうだ。ごめん、弾いてたら時間なくなっちゃった」
成瀬はケースの蓋へ手を置いた。
「ご飯の後でもいい? 二回」
「いいよ。今度はちゃんとね」
「うん」
「直人、もう落とさないでよ」
「次は花が混ぜればいいだろ」
「私だと、ばらばらになるもん」
落とす前提なら俺と変わらないと思ったが、花はもう部屋を出ていた。
成瀬はケースを閉じ、持ち上げる前に机の上を確かめた。俺も椅子を壁へ戻した。
夕食のとき、明日の演奏会は何時からなのか、俺から聞いた。
「二時から。私の順番は、お母さんに確認して返事をした後、森田さんが教えてくれるって」
「そっか。朝も行くんだよね」
「十一時に音を出せるみたい。さっきもらった紙に書いてあった」
花が自分も行くと言うと、叔母は明日の仕事の予定を確かめた。
「午後なら何とかなるかな。連れていけるようにするから」
花はそれを聞いて、食べかけの魚へ箸を戻した。
花の付き添いでなくても、俺は聴きに行くつもりだった。さっき少し覚えたところを、明日も自分で見つけてみたかった。
食後、成瀬は先に母親へ電話をすると言って部屋へ上がった。戻ってきたときには、片手にスマホを持っていた。
「出ていいって。森田さんにも連絡した」
「よかったね」
「うん。お父さんにも、後で話しておくって」
成瀬は画面を確かめ、鞄へしまった。
花が待ちかねたようにカードを差し出したので、俺は今度こそ落とさないように受け取った。成瀬は向かいへ座り、まだ配られていないうちから、袖を少し上げた。
*
翌朝、食堂へ下りると、成瀬はもう席に着いていた。今日は白いブラウスを着ていた。袖がいつもよりきちんと腕に沿っていて、膝には畳んだハンカチが置いてあった。
俺が座ると、成瀬は持っていたコップを少し遠くへ置いた。
「おはよう」
「おはよう。何時に出る?」
「十時半くらいでいいかな。十一時に音を出せるように、その前には着いておきたい」
「分かった」
答えてから、俺も朝から行くことになっているのか、一瞬気になった。昨日聞いたのは彼女の集合時刻だった。
成瀬は味噌汁の椀を持ち上げたが、俺の顔を見て止めた。
「三浦、午前中からで大丈夫?」
「うん。別に何もないし」
「じゃあ、一緒に行こう」
彼女は椀へ目を戻した。俺も箸を取った。
花は午後から来ることを、朝になっても少し不満に思っているようだった。自分だけ後で行くのかと聞き、午前中は準備だからと叔母に言われると、成瀬の方を見た。
「まだ弾かない?」
「少し音を出すけど、昨日みたいに一曲弾くのは午後だよ」
「じゃあ、昨日のところ分かるかな」
「分かると思う」
「直人より先に分かるかも」
俺が返事をする前に、成瀬がこちらを見た。
「三浦も覚えてるんだよね」
「昨日よりは」
「昨日、覚えたって言ってたじゃん」
花は勝負をするつもりらしかったが、どちらが先に分かったか確かめる方法は思いつかなかった。
食事を終えると、成瀬は部屋へ戻った。俺も着替え、昨日の本を鞄へ入れた。文化館では待つ時間があるだろう。席で読むかどうかは、行ってから決めればよかった。
玄関へ下りると、成瀬は楽器のケースを足元に置き、鞄の中を確かめていた。昨日もらった紙を出し、スマホを見て、またしまう。
「何か忘れた?」
「いや。一応」
彼女は鞄の口を閉じた。それから自分のブラウスを見下ろし、腰の辺りを手で伸ばした。
「これ、後ろしわになってない?」
成瀬が少し背を向けた。裾の辺りに、座っていたときについたらしい線があった。
「少し。でも、そんなに気にならないと思う」
「そっか」
自分でも後ろへ手を回したが、見えないので諦めたらしかった。ケースを背負い、玄関の鏡へ一度目を向けた。
俺が先に靴を履いて待っていると、成瀬が隣へ来た。
「今日、終わったら一緒に帰ろうね」
「うん」
「何時になるかは、ちょっと分かんないけど」
「俺は急いでないから」
成瀬は頷いて、サンダルのかかとを直した。
台所へ声を掛けると、叔母が顔を出した。花もその後ろから覗き、午後に会うのに大きく手を振った。
外へ出ると、昨日と同じように暑かった。成瀬は日向へ出る前に鞄から水を取り、一口飲んだ。俺も何となく空を見上げた。雨の心配はなさそうだった。
文化館へ向かう道で、彼女は昨日と違う角を曲がろうとした。
「そっちじゃない」
「あれ?」
「昨日、菓子屋に寄ったから。文化館はこっち」
成瀬は曲がりかけた足を戻した。
「帰り道しか覚えてなかった」
「帰りも一緒なら、大丈夫だろ」
「そうだね」
彼女はそう答えて、俺の隣へ戻ってきた。




