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 成瀬が俺の方を見た。


「三浦は?」


「俺?」


「ほかに三浦いないでしょ」


 花までこちらを向いたので、俺は膝から手を離した。


 何か言わなければとは思っていた。けれど、すごかったと言うだけでは、花と同じになる。花は手の動きがすごかったと、ちゃんと自分の見たことを言っていた。


「途中で、同じところに戻ってたよね」


「うん」


「最初の方にあったやつ。何回か出てきて」


 成瀬は頷いて待っていた。説明を足してもらえるかと思ったが、そうではないらしかった。


「あそこ、また来るかなと思って聞いてた」


「来た?」


「来た。だから、その辺は少し覚えたと思う」


 成瀬の口元が緩んだ。


「じゃあ、明日も分かるね」


「忘れてなければ」


「一日くらい覚えててよ」


「曲名は、もう怪しいけど」


「そっちは後で教える」


 彼女はそう言って机へ向き直った。弓の端を回してからケースへ収め、布を取り出して楽器を拭き始めた。


 もっと何か言うべきなのかと思っていると、成瀬は布を動かしながら、もう一度こちらを見た。


「戻ってくるところ、私も好きだよ」


 俺は頷いた。曲の中に、二人とも好きだと思うところがある。それだけのことが分かるまで、さっきは随分考えてしまった。


「いつから弾いてるの、その曲」


「小学生のときには弾いてたと思う。ちゃんと習ったのが何年生だったかは、ちょっと忘れた」


「そんな前から?」


「うん。お父さんの録音を家で聴いてたから、弾く前から知ってたの」


 成瀬は楽器の向きを変え、布の端で弦の下を拭いた。


「最初は、知ってる曲だからすぐ弾けると思ってたんだけど」


「違った?」


「全然。聴いてると簡単そうなのに」


 花が、自分もさっき指が動かなかったと言った。成瀬は笑いながら、最初はそうだよと答えた。


 俺がこの曲を知ったのは、ついさっきだった。成瀬には、うまく弾けなかった頃まである。小学生の彼女が楽器を持つところを想像してみたが、顔が今より少し幼くなるだけで、それ以上は浮かばなかった。


 今日初めて聴いた曲について、彼女は何年も前のことを話している。その違いが、なぜか少し気になった。


 廊下から叔母が夕飯の声を掛けた。花が椅子から下りかけ、机の方を見た。


「トランプは?」


「あ、そうだ。ごめん、弾いてたら時間なくなっちゃった」


 成瀬はケースの蓋へ手を置いた。


「ご飯の後でもいい? 二回」


「いいよ。今度はちゃんとね」


「うん」


「直人、もう落とさないでよ」


「次は花が混ぜればいいだろ」


「私だと、ばらばらになるもん」


 落とす前提なら俺と変わらないと思ったが、花はもう部屋を出ていた。


 成瀬はケースを閉じ、持ち上げる前に机の上を確かめた。俺も椅子を壁へ戻した。


 夕食のとき、明日の演奏会は何時からなのか、俺から聞いた。


「二時から。私の順番は、お母さんに確認して返事をした後、森田さんが教えてくれるって」


「そっか。朝も行くんだよね」


「十一時に音を出せるみたい。さっきもらった紙に書いてあった」


 花が自分も行くと言うと、叔母は明日の仕事の予定を確かめた。


「午後なら何とかなるかな。連れていけるようにするから」


 花はそれを聞いて、食べかけの魚へ箸を戻した。


 花の付き添いでなくても、俺は聴きに行くつもりだった。さっき少し覚えたところを、明日も自分で見つけてみたかった。


 食後、成瀬は先に母親へ電話をすると言って部屋へ上がった。戻ってきたときには、片手にスマホを持っていた。


「出ていいって。森田さんにも連絡した」


「よかったね」


「うん。お父さんにも、後で話しておくって」


 成瀬は画面を確かめ、鞄へしまった。


 花が待ちかねたようにカードを差し出したので、俺は今度こそ落とさないように受け取った。成瀬は向かいへ座り、まだ配られていないうちから、袖を少し上げた。


*


 翌朝、食堂へ下りると、成瀬はもう席に着いていた。今日は白いブラウスを着ていた。袖がいつもよりきちんと腕に沿っていて、膝には畳んだハンカチが置いてあった。


 俺が座ると、成瀬は持っていたコップを少し遠くへ置いた。


「おはよう」


「おはよう。何時に出る?」


「十時半くらいでいいかな。十一時に音を出せるように、その前には着いておきたい」


「分かった」


 答えてから、俺も朝から行くことになっているのか、一瞬気になった。昨日聞いたのは彼女の集合時刻だった。


 成瀬は味噌汁の椀を持ち上げたが、俺の顔を見て止めた。


「三浦、午前中からで大丈夫?」


「うん。別に何もないし」


「じゃあ、一緒に行こう」


 彼女は椀へ目を戻した。俺も箸を取った。


 花は午後から来ることを、朝になっても少し不満に思っているようだった。自分だけ後で行くのかと聞き、午前中は準備だからと叔母に言われると、成瀬の方を見た。


「まだ弾かない?」


「少し音を出すけど、昨日みたいに一曲弾くのは午後だよ」


「じゃあ、昨日のところ分かるかな」


「分かると思う」


「直人より先に分かるかも」


 俺が返事をする前に、成瀬がこちらを見た。


「三浦も覚えてるんだよね」


「昨日よりは」


「昨日、覚えたって言ってたじゃん」


 花は勝負をするつもりらしかったが、どちらが先に分かったか確かめる方法は思いつかなかった。


 食事を終えると、成瀬は部屋へ戻った。俺も着替え、昨日の本を鞄へ入れた。文化館では待つ時間があるだろう。席で読むかどうかは、行ってから決めればよかった。


 玄関へ下りると、成瀬は楽器のケースを足元に置き、鞄の中を確かめていた。昨日もらった紙を出し、スマホを見て、またしまう。


「何か忘れた?」


「いや。一応」


 彼女は鞄の口を閉じた。それから自分のブラウスを見下ろし、腰の辺りを手で伸ばした。


「これ、後ろしわになってない?」


 成瀬が少し背を向けた。裾の辺りに、座っていたときについたらしい線があった。


「少し。でも、そんなに気にならないと思う」


「そっか」


 自分でも後ろへ手を回したが、見えないので諦めたらしかった。ケースを背負い、玄関の鏡へ一度目を向けた。


 俺が先に靴を履いて待っていると、成瀬が隣へ来た。


「今日、終わったら一緒に帰ろうね」


「うん」


「何時になるかは、ちょっと分かんないけど」


「俺は急いでないから」


 成瀬は頷いて、サンダルのかかとを直した。


 台所へ声を掛けると、叔母が顔を出した。花もその後ろから覗き、午後に会うのに大きく手を振った。


 外へ出ると、昨日と同じように暑かった。成瀬は日向へ出る前に鞄から水を取り、一口飲んだ。俺も何となく空を見上げた。雨の心配はなさそうだった。


 文化館へ向かう道で、彼女は昨日と違う角を曲がろうとした。


「そっちじゃない」


「あれ?」


「昨日、菓子屋に寄ったから。文化館はこっち」


 成瀬は曲がりかけた足を戻した。


「帰り道しか覚えてなかった」


「帰りも一緒なら、大丈夫だろ」


「そうだね」


 彼女はそう答えて、俺の隣へ戻ってきた。

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