↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/29

16

 宿へ戻ると、花は食堂でドリルを開いていた。菓子の袋を見せると、鉛筆を置いて立ち上がりかけ、台所にいた叔母に呼び止められた。


 成瀬は花の隣で袋の中を見せてから、楽器を置きに上がった。俺も部屋へ戻り、鞄から本を出した。


 しばらく休んで下りてくると、食堂の隣の机にトランプが出ていた。花が椅子の上で膝を立て、カードを揃えている。成瀬も自分の部屋から出てきたところだった。


「真帆お姉ちゃん、こっち」


「二回だったね」


「うん。直人、混ぜて」


 渡されたカードを俺が切っている間に、成瀬が明日の演奏会のことを話した。


「お母さんに聞いてからだけど、出るかもしれないの」


「ヴァイオリン?」


「そう」


「今日、聴けない?」


 花は成瀬の背中の方を覗いた。そこにケースはなかったが、階段の上を見てから、また彼女の顔へ戻った。


「練習してきたんでしょ」


「してきたけど、ここで弾いていいかは聞かないと」


「お母さん、真帆お姉ちゃん、弾いていい?」


 成瀬が口を開くより早く、花が台所へ声を飛ばした。叔母が顔を出したので、成瀬もそちらへ向き直った。


「一曲だけなんですけど。今、音を出しても大丈夫ですか」


 叔母は時計を見てから、廊下の奥を確かめた。


「昨日の部屋ならいいよ。夕飯の支度ができるまでね」


「ありがとうございます」


 花が椅子から下りた。俺は切り終えたカードを箱へ戻そうとして、数枚落とした。


「直人、早く」


「先に行ってていいよ」


「全部拾ってね」


 落としたのは俺なので、言い返すこともできなかった。


 奥の部屋へ行くと、花はもう椅子に座っていた。普段は宿の人が荷物を整理したりする部屋で、壁際に畳んだ座布団が積んである。花が隣の椅子を叩いたので、俺もそこへ座った。


 成瀬はケースを持ってきて、机の上に置いた。蓋を開くと、内側の布に包まれた楽器が見えた。いつも肩に掛かっていたケースの中を、俺はようやくきちんと見た気がした。


「触っていい?」


 花が腰を浮かせた。


「今は見てて。出すから」


 成瀬は楽器を取り上げ、花が見えるように少し向きを変えた。茶色い表面が、窓からの光を受けて明るくなった。


「ここ、穴開いてる」


「うん。両方にあるでしょ」


「変な形」


「そう?」


 成瀬は自分でも覗き込み、それから机の上へ目を戻した。弓を取り、端の金具を指で回した。さっきまで少したるんで見えた白い部分が、真っすぐになる。


 花はその手元を見て、また何か聞こうとしたが、成瀬が楽器を肩へ乗せたので口を閉じた。


 音が一つ鳴った。


 思っていたよりも大きくて、俺は背もたれから少し身体を起こした。昨日は廊下越しに聞いていた音だった。目の前で鳴ると、楽器だけでなく、成瀬の腕や肩まで一緒に響いているように見えた。


 彼女は音を聞きながら、楽器に付いた小さな金具を動かした。もう一度弓を滑らせ、確かめてから下ろした。


「それが曲?」


 花が聞いた。


「今のは、音を合わせてたの」


「まだ始まってない?」


「まだ。これから」


 花は椅子へ座り直し、両手を膝に乗せた。成瀬がこちらを見たので、俺も頷いた。


「明日も、この曲を弾こうと思ってる」


 曲名を言われても覚えられる自信がなかったが、文化館で聞いた言葉だということは分かった。成瀬は俺たちから二、三歩離れたところに立った。


 頬に落ちていた髪を指で払い、耳へ掛けた。それからヴァイオリンを肩に乗せ、顎を添えた。


 何でもない動作だった。けれど、さっきまでこちらへ向いていた顔が、その一続きの動きの中で少し上を向き、視線の置き場所が変わった。俺はなぜか、そこから目を離さなかった。


 弓が弦に触れ、今度は音が続いて出てきた。


 花が横で顔を上げた。俺も成瀬を見たまま聞いていた。速く動く指を追おうとしたが、すぐに分からなくなった。右手の弓の方なら見ていられるかと思うと、そちらも、いつ向きを変えたのか見失うことがあった。


 成瀬は俺たちに説明しなかった。少し前までなら、花が不思議そうに見ていることに気づけば、何か言ったかもしれない。今は花も何も聞かず、膝の上で指先だけを動かしていた。


 俺は、朝の岩場で成瀬が黙って穴を見つめていた顔を思い出しかけた。何かに集中しているという点では同じなのに、目の前の彼女には、うっかり声を掛けられなかった。


 別に、遠くに立っているわけではない。手を伸ばせば届きそうなくらい近い。なのに、名前を呼んでこちらを向いてもらうことが、ひどくもったいないことのように思えた。


 昼間、石田と話す成瀬を見ていたときのことが、ふと浮かんだ。今は俺たちに向けて弾いてくれているのに、あのときの落ち着かなさが少しだけ戻ってきた。


 初めて聞く曲だったが、途中で、さっきも聞いたと思うところがあった。次に続く音を何となく待てるようになり、待っていた音が来ると、それだけで少し嬉しかった。


 もう一度そこへ戻ってきてほしいと思い始めた頃には、指の動きを追うのをやめていた。


 成瀬の弓が大きく動いた。音が伸び、その後に短い音がいくつか続いた。俺は続きを待っていたが、彼女は弓を離した。


 部屋が急に静かになった。


 廊下の向こうで誰かが歩いていた。いつから聞こえていたのか分からなかった。


「終わり?」


 花が声を落として聞いた。


「うん。終わり」


 成瀬は楽器を肩から下ろした。花が拍手を始めたので、俺も手を叩いた。


 彼女は少し頭を下げた。顔を上げたときには、口元が緩んでいた。


「どうだった?」


「すごい。手、ずっと動いてた」


「そこ?」


「だって、見てたけど分かんなかったもん」


 成瀬は笑って、弓を持った方の腕を少し上げた。


「こっち?」


「どっちも」


「そっか。ありがとう」


 花は自分の左手を持ち上げ、指を順番に動かそうとした。薬指のところで止まり、反対の手で押さえている。


 成瀬がそれを見て、そっちの手まで使ったら楽器を持てないよと言った。花が両手を下ろすと、彼女はまた笑った。


 俺は拍手をやめた手を膝に置いた。目の前の成瀬が、花の言葉に普通に返事をしている。その声まで、少し久しぶりに聞いた気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。