15
俺は、石田の指した廊下へ目を向けた。開いているドアの向こうに、楽器のケースを持った人が見えた。
「じゃあ俺、先戻るよ」
成瀬に言うと、彼女はこちらを向いた。
「いや、私も帰る」
「別に残れば? 道、もう分かるだろ」
「うん。でも、今日は三浦と帰る」
返事を考えている間に、成瀬は石田へ向き直った。
「誘ってくれてありがとうございます。また明日、会えたら」
「そうですね。急に引き止めてすみません」
「いえ。話せてよかったです」
石田は俺にも会釈をした。俺も頭を下げる。彼が廊下へ戻っていくのを見送ってから、成瀬は入口の方へ歩き出した。
自動ドアの前で立ち止まり、俺を振り返る。
「三浦?」
「ああ、うん」
外へ出ると、冷えていた腕に日が当たった。成瀬は眩しそうに目を細め、建物の影に沿って歩いた。
「よかったの?」
「何が?」
「さっきの。もう少し話したかったんじゃないかと思って」
「話はできたよ」
「ほかの人もいるって言ってたけど」
成瀬は歩く速さを少し落とした。
「三浦は、残りたかった?」
「俺は別に」
「じゃあ、帰ろうよ」
彼女はまた前を向いた。俺も隣へ並んだ。
二時間待っていたから、気を遣ったのかもしれない。俺は本を読んでいただけだし、そのままもう少し読んでいてもよかった。けれど、そう説明して文化館へ戻るように勧めるのも、今さら変だった。
それに、一緒に帰ることになって、さっきより気分が楽になっている。残ってもいいと言ったのは俺なのに、実際に隣へ来られると、それ以上は言いたくなくなった。
「本、結構読めた?」
成瀬が俺の鞄を見た。
「二つ目の話まで」
「面白かった?」
「うん。最初の方が好きだったけど」
「駅に迎えに行くやつ?」
「覚えてたんだ」
「昨日、お昼に言ってたでしょ」
成瀬は、俺が読んでいる間、プリンの写真を見ていた。話のことまで覚えているとは思わなかった。
「迎えの人、来た?」
「それ、言っていいの?」
「私、まだ読むか決めてないし」
「じゃあ、やめとく」
「そこまで聞いたら気になるじゃん」
俺が鞄へ目を落とすと、成瀬はすぐに首を振った。
「今ここで読まなくていいから」
商店街の端まで来たところで、菓子屋の前を通った。店先に、透明な袋へ詰めた小さな焼き菓子が並んでいた。
「花に何か買っていこうかな」
俺が足を止めると、成瀬も袋を覗き込んだ。
「こういうの、好き?」
「好きだと思う。あんまり嫌いな菓子ないし」
「いいな、それ」
成瀬は二種類の袋を持ち上げた。片方は丸く、もう片方は細長かった。
「こっち、私も食べてみたい」
「じゃあ、それにすれば」
「三浦は?」
俺は丸い方を指した。
「そっちは前に食べた。うまかったよ」
「じゃあ、両方」
彼女は二袋を持って、店の奥へ声を掛けた。会計を半分ずつ出すと、店の人は一つの紙袋にまとめてくれた。
成瀬が手を伸ばしたので、俺が先に受け取った。
「楽器あるだろ」
「ありがとう。潰さないでね」
「そんな持ち方しないよ」
言いながら袋の口を握り直すと、成瀬はそれを見て笑った。
文化館から歩いてきた道と、海からの道が合わさるところに、小さな公園があった。木の下のベンチが空いていたので、俺たちは少し休むことにした。
成瀬はケースを肩から下ろし、隣へ置いた。俺も菓子の袋を膝に乗せ、鞄から麦茶を出した。
「明日のことなんだけど」
成瀬が言った。
「演奏会?」
「うん。出るって言って、びっくりした?」
「した。練習しに来ただけだったし」
「私も。あそこで声掛けられると思わなかった」
彼女はケースの肩紐を、ベンチから落ちないように寄せた。
「でも、よかったの?」
「出るの?」
「昨日、次の予定がいつもあるって言ってたから。また頼まれて、断りにくかったんじゃないかと思って」
成瀬は俺を見た。それから、少しだけ視線を外した。
「断っても大丈夫だったと思うよ。森田さん、無理にとは言ってなかったし」
「うん」
「弾ける曲でいいって言ってくれたから。私も、弾いてみようかなって」
俺は麦茶の蓋を閉めた。成瀬はまだ、こちらへ顔を向けていた。
「お父さんの名前も出さないって。ちゃんと聞いてくれたし」
「成瀬がそれでいいなら、いいと思う」
「うん。私は、弾きたい」
そう言われて初めて、俺はさっきの返事が少し遠回りだったことに気づいた。彼女は引き受けた理由を話していたのに、俺は引き受けなくてもよかった理由を考えていた。
成瀬が鞄から案内を出した。折り目を開き、膝の上で押さえる。
「お母さんに聞いて、出られることになったらさ」
「うん」
「三浦も、聴きに来てほしい」
「花も行きたがるんじゃない?」
「そうだね。帰ったら話してみる」
「叔母さんは仕事あるから、俺が連れていくことになるかもしれないけど」
「うん。でも、三浦は?」
成瀬は案内から手を離した。
「三浦にも来てほしいって、言ってるんだけど」
俺は膝の紙袋へ目を落とした。中の菓子が片側に寄っていたので、袋を立て直した。そんなことをする必要は、今はなかった。
聴きに行くことに、不都合があるわけではない。ほかに予定もないし、文化館までの道ももう分かる。ただ、俺自身が来るかどうかを待たれていると分かると、さっきまでの答え方では済まない気がした。
「行くよ」
顔を上げて言うと、成瀬は頷いた。
「よかった」
彼女は案内を畳み、鞄へ戻した。どうして来るのかとも、楽しみにしているかとも聞かなかった。
俺は何か付け足そうかと思ったが、今度はそのまま黙っていた。
公園の入口で、自転車に乗った子どもがブレーキを掛けた。後ろから来た子を待っているらしく、片足をついたまま道路を見ていた。
「何着ていけばいいんだろ」
しばらくして、俺は聞いた。
「三浦が?」
「こういうの、あんまり行ったことないから」
「普通でいいよ。今日みたいなので」
成瀬は俺のシャツを見た。
「海で濡れてなければ」
「濡れたの、成瀬だろ」
「だから、濡れてなければいいって」
成瀬が笑いながら立ち上がったので、俺も菓子の袋を持った。彼女がケースを肩へ掛けるのを待ってから、宿へ向かって歩き出した。




