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スマホが震えたとき、時計は三時の少し前だった。
栞を挟んで顔を上げると、廊下の向こうから成瀬が来た。ケースを肩に掛け、もう片方の手には借りた鍵を持っていた。
「お待たせ」
「終わった?」
「うん。鍵返してくる」
受付へ向かう成瀬を、俺は鞄を持って待った。練習室では何をしていたのだろう。二時間でどのくらい弾けるものなのかも、俺にはよく分からなかった。本の方は、二つ目の話まで読み終えていた。
鍵を返した成瀬が戻ってくる途中で、別の廊下から出てきた男が足を止めた。俺たちと同じくらいの歳で、半袖のシャツの袖口が少し折れていた。
「あの、成瀬さんですか」
「はい」
「森田先生から聞きました。明日、弾いてもらえるかもしれないって」
「はい。お母さんに確認してからになるんですけど」
彼は近づいてきてから、俺にも顔を向けた。
「石田悠介です。僕も明日出るので、よろしくお願いします」
「三浦です。俺は、付き添いで」
「あ、そうなんですね。近くに住んでるんですか?」
「いや、叔母がこっちにいて。夏休みだから来てるだけで」
「そうなんだ。僕、ずっとこの辺なんです」
石田は入口の外へ目を向けてから、成瀬へ向き直った。成瀬も改めて名乗り、どこの教室に通っているのか聞いた。
「森田先生のところです。小学校のときから」
「じゃあ、結構長いんですね」
「長いだけですけど。今、高二で」
「私も二年です」
石田は少し驚いたように眉を上げた。
「同い年だったんだ。映像で見たとき、もっと上かと思ってました」
「そんなに?」
「いや、弾いてるときの感じが」
成瀬は肩紐の位置を直しながら、少しだけ顎を引いた。
「明日は、何を弾くんですか」
石田が曲名を答えると、成瀬はすぐに頷いた。俺は、知っている題名かもしれないと思って聞いていたが、最後まで聞いても心当たりがなかった。
「あそこ、最後の方になると、右手が固まってくるんですよね」
「最初から、結構速く弾いてます?」
「最初は、そうでもないつもりなんですけど。録ってみると、途中から速くなってて」
「ああ、私もある。弾いてるときは気づかないんですよね」
成瀬は小さく笑い、石田の動かした手を見た。
「特に、戻ってきたところで」
「あそこですよね。私、一回ゆっくりにすると、次もその速さで弾いちゃって」
「分かります。今度は遅いって言われる」
「そうそう」
二人の声が少し重なった。成瀬は口を開けて笑ってから、では普段どう練習しているのかと聞いた。
俺は、最初に出てきた曲名をまだ頭の中で繰り返していた。どんな曲なのか聞こうと思えば聞けたが、その間に話は別の箇所へ進んでいた。
成瀬とヴァイオリンの話をするとき、俺はたいてい何かを教えてもらっていた。誰に習っているのか、いつから弾いているのか。彼女が答え、俺が頷くと、それで一つの話が済んだ。
石田には、その答えの先に自分の話があるらしかった。成瀬が言い終わる前に頷き始めるし、途中までしか言わなくても、彼女にはどこの話か分かる。俺が聞いていたのと同じヴァイオリンの話なのに、随分と先まで進んでいく。
「すみません。分かんない話ばっかりで」
不意に石田がこちらを向いた。
「いや、大丈夫。俺、楽器やったことないから」
「僕も、ヴァイオリン以外は全然なんですけどね」
「ピアノは?」
成瀬が聞くと、石田は口を横へ引いた。
「ちょっとだけ。両手になると、急に駄目で」
「分かる。片方ずつなら弾けるのにね」
二人が笑ったので、俺も少し遅れて笑った。言っていることは分かるけれど、同じ失敗を思い出しているわけではなかった。
石田は俺にも話を向けてくれる。成瀬も、ときどきこちらを見る。なのに、返事をする前に一拍置いてしまう。三人で立っていること自体には何もおかしなところがないのに、俺だけ少し間が合わなかった。
朝、カニを見つけたときには、成瀬が振り返るより先に俺も同じものを見ていた。今は、彼女が何に頷いたのかを、少し後から考えている。
昨夜聞いた、家で練習している成瀬の話が、少しだけ具体的になった気がした。俺の知らない曲にも、うまくいかない箇所や、誰かと笑って話せる失敗がある。当たり前なのだろうけれど、ケースを持って歩く姿だけでは、そこまでは思いつかなかった。
知っていることは増えたはずなのに、さっきまでより、成瀬へ何を話しかければいいのか迷っていた。
奥の廊下から、誰かが石田を呼んだ。彼は振り返って手を上げ、こちらへ向き直った。
「この後、時間あります? ほかの子も来てるんで、よかったら少し話しませんか」
石田の視線は成瀬から俺へも動いた。廊下の先では、開いたドアの向こうから何人かの声が聞こえていた。




