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文化館に着いたのは、一時の十分ほど前だった。入口のガラス戸を抜けると、汗をかいた腕に冷たい空気が当たった。
成瀬は肩のケースを持ち直し、受付へ向かった。
「昨日お電話した成瀬です。一時から練習室を予約しているんですけど」
受付の人が台帳を開いた。その横では、眼鏡を掛けた女性が、何枚かの紙を広げて話していた。成瀬の名前を聞くと、紙から顔を上げた。
「成瀬さんって、真帆さん?」
成瀬の手が、ケースの肩紐に掛かったまま止まった。
「はい」
「ヴァイオリンの?」
「……はい」
女性は一度、手元の紙を揃えた。
「急にごめんなさい。私、森田といいます。この町で音楽教室をやっていて。コンクールの演奏、公開されていた映像で拝見したんです」
「そうだったんですか。ありがとうございます」
「こちらには、ご旅行?」
「はい。近くの民宿に泊まっていて」
俺は受付から半歩離れたところで、二人の話を聞いていた。今度は父親の名前が出る前に、成瀬自身のことを知っている人だった。
森田さんは俺にも会釈をしてから、受付に置いていた紙を一枚取った。
「もしお時間があったら、少しご相談してもいいかしら」
紙には、明日の日付と、合同演奏会という文字があった。下にいくつかの音楽教室の名前が並んでいる。
「明日、ここの小ホールで、生徒たちの演奏会をするんです。もしよかったら、一曲、弾いていただけないかと思って」
成瀬は差し出された紙を受け取った。
「明日ですか」
「ええ。急なお願いなのは承知してるんだけど。生徒たちにも、ぜひ聴かせてあげたくて」
成瀬は紙の日付を見たまま、しばらく返事をしなかった。受付の人が記入用紙を差し出すと、礼を言い、演奏会の案内をその横に置いた。
昨日の夜、次の予定がいつも決まっていると話していたのを思い出した。今日は練習するために来たはずだった。俺は受付の上に並んだ二枚の紙を見て、それから成瀬を見た。
「どのくらいの会なんでしょうか」
「百席ほどのホールです。生徒の家族や、お知り合いが中心で。お一人、五分から十分くらいずつ」
「伴奏の方と合わせる時間は、取れないと思うんですけど」
「無伴奏でも、もちろん」
成瀬は案内を手元へ寄せた。
「一曲だけで、いいですか。今、準備できるものなら」
「ええ。それで十分です」
「あの、紹介は、どういうふうに?」
「お名前と学校、それから演奏歴を少し伺えればと思っていたけど」
成瀬は案内から顔を上げた。
「お父さんのことは、紹介に入れないでいただけますか。私の名前と、曲だけで」
言い終わってからも、森田さんの顔を見ていた。
「分かりました。紹介文は、明日ご本人に確認してもらいましょう」
「ありがとうございます」
成瀬は肩紐を持ち直し、もう一度案内に目を通した。それから小さく頷いた。
「それなら、弾かせていただきたいです。バッハの、ガヴォット・アン・ロンドーを」
森田さんの声が明るくなった。
「ありがとう。皆、喜ぶと思う。ただ、お家の方にも、出演していいか確認してもらえる?」
「はい。今日、お母さんと電話するので、そのときに聞きます」
「では、お返事をもらってから正式に決めましょう。連絡先、ここへ書いておくね」
森田さんは案内の余白へ番号を書き、明日の集合時刻と開演時刻も添えた。
成瀬が集合時刻を読み上げて確かめたので、俺もその数字を見た。朝、帰る日はまだ決めていないと言っていた。その成瀬が、今は明日の時間を確かめている。
お母さんに確認してからとはいえ、明日もここにいるつもりなのだ。少しほっとした。明日の朝も食堂で顔を合わせることを、俺はもう予定に入れかけていた。
「今日、ここで準備をしてるんですか」
成瀬が聞くと、森田さんは広げていた紙を見せた。
「そう。午後は何人か生徒も来ます。明日の段取りを合わせておこうと思って」
「では、お母さんに聞いたら、今日中にご連絡します」
「お願いします。練習前に引き止めてしまって、ごめんなさいね」
成瀬は案内を鞄へしまい、受付の用紙に記入した。
手続きを済ませ、廊下を歩いた。練習室の前まで来ると、成瀬は鍵を差し込む前に俺を振り返った。
「三浦、どうする?」
「本持ってきたから、下で読んでる。終わったら連絡して」
「二時間あるよ」
「分かってるよ」
成瀬は俺の鞄を見てから頷いた。
「じゃあ、終わったら送るね」
部屋の中へケースが運び込まれるのを見て、俺はロビーへ戻った。窓際の椅子に座って本を開くと、外を歩いている人の影が、ガラス越しに床を横切った。




