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第9話 天使が初心者講習を始めるそうです


 翌日、昼休み。


 徹が購買のコロッケパンを机に置くと、前の席から三枝が振り返った。


「稲垣」


「何?」


「昨日の写真、どうだった?」


 徹はパンの袋を開ける手を止めた。


「何で学校でその話するんだよ」


「装備更新の記録だっけ?」


「そうだよ」


「マリーさんも同じこと言ってたな」


「ならそうだろ」


「お前ら、言い訳の方向まで揃ってきたな」


「揃ってない」


 三枝はにやにやしながらも、少しだけ真面目な顔になった。


「ちなみに、写真は本人たちにだけ送った。投稿もしてない」


「それは助かる」


「昨日はテンション上がりすぎてたしな。マリーさん、有名人だし」


「分かってるならいいけど」


「何か、お前だんだん探索者っぽくなってきたな」


「俺はサポートだ。戦えないしな」


 徹はコロッケパンを一口かじる。


 少し離れた席で、綾瀬茉莉はノートに目を落としていた。


 授業の復習。


 の、はずだった。


 けれど、耳は勝手に徹たちの会話を拾っている。


――写真。


 昨日の写真には、《天使》マリーの隣に徹がいた。


 学校の綾瀬茉莉ではない自分。


 それでも、隣にいた。


「……」


 茉莉はノートの端に「写真」と書きかけて、手を止めた。


 前回の反省がある。


 同じ失敗はしない。


「綾瀬さん?」


 隣の女子が首を傾げる。


「何か、今すごく真剣な顔してなかった?」


「……復習です」


「昼休みに?」


「復習です」


「そっか……真面目だね」


「はい」


 茉莉は小さく頷いた。


 復習。


 間違いではない。


 たぶん。


     ◇


 徹の端末が、小さく震えた。


 ぴこん。


「また報酬?」


 三枝が身を乗り出す。


「違うだろ。勤勉手当おかわりとかやめろよ」


 徹は端末を見る。


【初心者講習 補助スタッフ依頼】


 対象者:稲垣徹


 推薦者:《天使》マリー


 内容:浅層探索講習における補助、装備確認、救護支援、隊列後方管理


 報酬:講習補助手当 50,000円


「……講習補助?」


「マリーさんの?」


「たぶん」


 横の男子が反応した。


「あ、それ見た。今日の夜、公式で告知されてたやつだろ? 《天使》マリーが浅層で装備とか隊列を教えるって」


 三枝が目を輝かせる。


「それ、俺らが昨日話してたやつじゃん。探索者登録に興味あるって」


「見学枠、申し込んだのか?」


「申し込んだ」


「早いな」


「善は急げって言うだろ」


「ダンジョンで急ぐな」


 徹は通知の詳細を開いた。


 参加者は登録前後の初心者。


 内容は装備確認、歩行訓練、戦闘回避、緊急時の退避手順。


 補助スタッフの役割は、最後尾の安全確認、遅れた参加者への声かけ、異常時の報告。


 戦闘行為は原則禁止。


「……これなら、俺でもできるか」


「むしろ稲垣向きじゃないか?」


 三枝が言う。


「荷物見る、周り見る、遅れてるやつ見る、報告する。お前、前からそればっかやってるだろ」


「ばっかって言うな」


「褒めてる」


「褒め方が雑なんだよ」


 徹は鞄の中を見る。


 昨日買った救急ポーチ、グローブ、補助用ロープ、簡易マーカー。


 どれもマリーが必要だと言い、徹自身も納得して買ったものだった。


「……まあ、装備の慣らしにはちょうどいいか」


「出た。仕事人」


「何だそれ」


「普通の高校生は、放課後に初心者講習の補助をして、装備の慣らしにはちょうどいいか、とは言わない」


「普通の高校生はダンジョンバイトしないだろ」


「それはそう」


 そのとき、少し離れた席の茉莉の端末も震えた。


【初心者講習 配信・実地スケジュール確認】


 対象者:《天使》マリー


 補助スタッフ:トオル


 備考:新規サポート装備確認あり


「……」


 茉莉は画面を伏せた。


 ほんの少しだけ、口元が緩みかける。


 だが、ここは教室だ。


 綾瀬茉莉の顔でいなければならない。


「綾瀬さん?」


「……通知です」


「何の通知?」


「勉強アプリです」


「綾瀬さん、本当に真面目だね」


「はい」


 茉莉は小さく頷いた。


 勉強アプリ。


 間違いではない。


 初心者講習も、ある意味では勉強だ。


 たぶん。


     ◇


 昼休みが終わる頃、徹は端末の依頼画面を開いた。


「もし俺らが当たったら、よろしくな」


 三枝が言う。


「俺は講師じゃない。補助スタッフだ」


「でも、お前が後ろにいると安心しそうではある」


「何だそれ」


「ちゃんと見てそうだから」


 徹は一瞬、返事に困った。


 昨日、マリーにも似たようなことを言われた。


 見るだけ。


 走るだけ。


 荷物を持つだけ。


 報告するだけ。


 それでも、役に立つことがある。


 なら、やる意味はある。


 徹は承諾ボタンを押した。


【初心者講習補助スタッフ依頼を承諾しました】


 すぐに集合場所と持参装備の通知が届く。


 第一浅層ゲート前。


 補助用ロープ、救急ポーチ、簡易マーカー、通信端末。


 徹は鞄の中を見る。


 昨日買ったばかりの装備が、全部そこにあった。


「……マリー、こうなるの分かってたのか?」


 三枝が笑う。


「良い上司だからな」


「そうだな」


 徹は素直に頷いた。


「本当に良い上司だ」


 少し離れた席で、綾瀬茉莉のペン先が、ぴたりと止まった。


「……」


 茉莉はノートの端を見る。


 今度は何も書いていない。


 書いていないのに。


 なぜか、そこに大きく「上司」と書かれた気がした。


 茉莉は静かに息を吸う。


 そして、何事もなかったようにノートを閉じた。



     ◇


 放課後。


 第一浅層ゲート前。


 徹が指定された集合場所へ向かうと、すでに数人の初心者が集まっていた。


 新品のヘルメット。


 ぎこちないグローブ。


 タグのついたままのリュック。


 明らかに今日が初めて、という顔ばかりだ。


 その中に、見覚えのある女子がいた。


「あ」


 徹に気づいた彼女が、ぱっと顔を明るくする。


 以前、ゴブリンから助けた初心者の女子だった。


「トオルさん!」


「どうも」


「今日、補助なんですか?」


「そうらしい」


「よかった……」


「何が?」


「知ってる人がいると、ちょっと安心します」


 徹は少しだけ困ったように頬をかいた。


「俺も初心者みたいなものだけどな」


「でも、ちゃんと見てくれるので」


 また、それだった。


 ちゃんと見ている。


 自分では、それしかできないと思っていたこと。


 けれど、周りはそこを見ている。


 徹は鞄から新しい救急ポーチを取り出し、腰の位置に固定した。


 昨日、マリーが第一候補と言ったものだ。


 片手で開く。


 中身もすぐ確認できる。


「……よし」


 徹が呟いたとき、周囲の空気が少し変わった。


 ざわり、と初心者たちの視線が入口の方へ向く。


 白い装備。


 整った髪。


 凛とした立ち姿。


 《天使》マリーが、浅層ゲート前に現れた。


 コメント欄が流れ始める。


『初心者講習きた』

『バックアップ君いる』

『装備新しくなってる?』


 マリーは初心者たちを見渡し、最後に徹を見る。


 徹の腰の救急ポーチ。


 グローブ。


 補助用ロープ。


 簡易マーカー。


 全部を確認してから、小さく頷いた。


「準備、できてるわね」


「ああ」


「今日は講習」


「分かってる」


「戦うことより、戻ることを覚えてもらう」


 マリーの声は、いつもより少しだけ硬かった。


 配信用の華やかさはある。


 けれど、それ以上に、講師としての緊張がある。


「トオル」


「何だ?」


「後ろを見て」


「了解」


 短い会話だった。


 けれど、徹にはそれで十分だった。


 マリーは前を見る。


 徹は後ろを見る。


 初心者たちは、その間にいる。


 それが、今日の隊列だった。


 マリーは一歩前へ出る。


「それでは、初心者講習を開始します」


 浅層ゲートのランプが青く光った。


 徹は救急ポーチの位置をもう一度確認し、初心者たちの顔を見渡した。


 緊張している者。


 浮かれている者。


 無理に笑っている者。


 全員、ちゃんと見る。


 それが今日の仕事だった。


第一浅層ゲートを抜けると、空気が少し変わった。


 学校の廊下とも、商業施設の通路とも違う。


 ひんやりとしていて、どこか湿っている。


 壁面には淡い光を放つ鉱石が埋まっていて、床は舗装されているようで、ところどころ自然の岩肌が残っている。


 浅層。


 それも講習用に管理されたルート。


 それでも、初心者たちの足取りは目に見えて硬くなった。


「立ち止まらないで」


 先頭のマリーが言う。


「でも、急がない。前の人の背中だけ見ない。左右と足元も見る」


 声はよく通る。


 配信のときの華やかさはある。


 けれど、今日は見せるための探索ではない。


 教えるための探索だった。


 徹は隊列の一番後ろを歩いていた。


 前には初心者たち。


 その先にマリー。


 徹の役目は、後方確認。


 遅れた者、荷物の揺れ、顔色を見る。


 何かあればすぐマリーへ伝える。


 戦闘ではない。


 だが、ぼんやり歩ける仕事でもなかった。


「一度止まるわ」


 マリーが手を上げた。


 初心者たちがぎこちなく止まる。


 一人、前の人にぶつかりかけた。


「あ、すみません!」


「距離」


 マリーが短く言う。


「近すぎるとぶつかる。遠すぎると分断される。腕一本分より少し広いくらいを目安にして」


 初心者たちが慌てて距離を取り直す。


 徹は最後尾からそれを見ていた。


 列の三番目の男子は、リュックの肩紐が片方だけ緩い。


 五番目の女子は、ヘルメットの顎紐が甘い。


 一番後ろに近い初心者の女子は、呼吸が浅い。


 以前、徹がゴブリンから助けた子だ。


「マリー」


 徹は声で呼んだ。


「何?」


「装備、少し直した方がいい」


 マリーは振り返る。


「任せる」


「了解」


 その一言で、初心者たちの視線が徹へ集まった。


 徹は少しだけ困った。


 目立ちたいわけではない。


 ただ、直した方がいいものは直した方がいい。


「まず、リュック。右に寄ってる。肩紐、左右合わせた方がいい」


「あ、本当だ」


「そのままだと走ったときに振られる」


「はい」


「あと、ヘルメット。顎紐が緩い。転んだときにずれる」


「す、すみません」


「謝らなくていい。今直せばいいから」


 徹は声を荒げない。


 急かさない。


 ただ、必要なことだけ言う。


 最後に、徹は初心者の女子を見る。


「大丈夫?」


「え?」


「呼吸、浅いから」


「あ……ちょっと緊張してて」


「肩を一回下げて。吸うより、吐く方を先に意識するといい」


「吐く方?」


「そう。息を吐けば、勝手に吸える」


 女子は言われた通り、小さく息を吐いた。


 少しだけ表情が和らぐ。


「……少し楽です」


「ならよかった」


「ありがとうございます」


「まだ何もしてない」


「してます」


 徹は返事に困り、頬をかいた。


 マリーが、ほんの少しだけ目を細める。


「続けるわ」


 その声で、隊列は再び動き始めた。


     ◇


 浅層の通路を進みながら、マリーは説明を続けた。


「初心者が最初に覚えることは、倒すことじゃない」


 前方の角を指差す。


「見えない場所に不用意に入らないこと。音を聞くこと。帰る道を覚えること」


 一人の男子が手を上げた。


「あの、でも、モンスターが出たら戦うんですよね?」


「戦えるなら」


「戦えない場合は?」


「逃げる」


 即答だった。


 初心者たちが少し驚いた顔をする。


「逃げていいんですか?」


「逃げていい。むしろ、逃げる判断が遅い方が危ない」


 マリーは腰の剣に手を触れない。


 戦う姿を見せるためではなく、戦わない判断を教えるために、そこに立っていた。


「探索者は強い人だけが続けられるわけじゃない。戻れる人が続けられる」


 徹は少しだけ眉を上げた。


 戦うことより、戻ることを覚えてもらう。


 今日の講習で一番伝えたいことは、たぶんそれなのだろう。


「トオル。マーカー」


「了解」


 徹は腰のポーチから簡易マーカーを取り出した。


 壁や床に貼ると、端末に帰路を表示する道具だ。


「ここに一つ置く」


 徹は通路の壁際にマーカーを貼った。


 端末に現在地と帰路が表示される。


「反応あり」


「初心者全員、端末を確認して」


 マリーが言うと、参加者たちは慌てて端末を取り出した。


「あ、出た」


「戻る方向が表示されてる」


「便利ですね」


「便利。でも、頼りすぎない」


 マリーは頷く。


「端末は壊れることもある。電波が乱れることもある。だから、目で覚える」


 徹はマーカーを貼った壁を見た。


 左側に薄く青い鉱石。


 右側に大きめの亀裂。


 足元には水たまり。


「左に青い鉱石。右に亀裂。足元に水たまり」


 徹が呟くと、近くの初心者が真似をした。


「左に青い鉱石、右に亀裂、足元に水たまり……」


 マリーがこちらを見る。


「いい覚え方」


「バイトで搬入口覚えるとき、目印使ってたから」


「役に立ってる」


「何でもバイト由来だな、俺」


「それがトオル」


「褒めてるのか?」


「褒めてる」


 徹は少しだけ視線を逸らした。


     ◇


 次の広間で、簡易戦闘回避の練習が始まった。


 講習用の小型ドローンが、低速で近づいてくる。


 赤いランプが点滅したら、攻撃の合図。


 初心者はそれを見て、横へ避ける。


 それだけだ。


 それだけなのに、最初の一人は盛大に転んだ。


「うわっ!」


「止まって」


 マリーが即座に言う。


 徹はすでに動いていた。


「膝、見せて」


「だ、大丈夫です」


「大丈夫かどうか見るだけ」


 徹は片膝をつき、救急ポーチを片手で開いた。


 昨日、マリーが第一候補と言ったポーチだ。


 開けやすく、取り出しやすい。


 徹は消毒シートと保護パッドを取り出す。


「擦っただけだな。動かせる?」


「はい」


「じゃあ貼って終わり。痛かったらすぐ言って」


「はい」


 処置はすぐに終わった。


 大げさなことは何もしていない。


 けれど、初心者たちの表情は少し変わっていた。


「手慣れてる」


「本当にサポートなんだ」


「本当にって何だよ」


 徹が言うと、初心者たちが少し笑った。


 緊張が、ほんの少し解ける。


 マリーはその空気を見てから、ドローンの前に立った。


「今の失敗は悪くない」


 転んだ男子が顔を上げる。


「悪く、ないんですか?」


「ここで転んだから、次に注意できる。問題は、転んだあとに黙ること。痛いのに平気なふりをすること」


 マリーは初心者たちを見る。


「違和感があったら言う。遅れたら言う。怖かったら言う。恥ずかしがらない」


 徹は救急ポーチを閉じながら頷いた。


「言わない方が、あとで面倒になるからな」


「そう。トオルに言って。私に届く」


 初心者たちの視線が、徹へ集まる。


 徹は少しだけ眉を寄せた。


「俺を伝言板みたいに言うな」


「違うの?」


「違わないけど」


 講習は、少しずつ形になっていった。


 最初は固かった初心者たちの動きも、何度か練習するうちに変わってくる。


 距離を取る。


 声を出す。


 止まるときは手を上げる。


 遅れたら言う。


 そのたびに、マリーが短く修正し、徹が後ろから補助する。


 派手な戦闘はない。


 大きな見せ場もない。


 けれど、徹には分かった。


 こういう地味な確認が、たぶん一番大事なのだ。


     ◇


 講習開始から三十分ほど経った頃。


 隊列は浅層の分岐前で止まった。


 正面は講習ルート。


 左は封鎖中の旧通路。


 右は見学用の退避スペースにつながる短い道。


 マリーは正面の通路を示す。


「この先で、最後に隊列移動を確認する」


 初心者たちが頷く。


 徹は最後尾で、ふと足元を見た。


 水たまり。


 それ自体は珍しくない。


 浅層は湿っている。


 だが、水の揺れ方が少し変だった。


 誰も動いていないのに、表面が細かく震えている。


「……」


 徹は視線を上げる。


 壁の青い鉱石が、ほんのわずかに明滅していた。


 さっき貼ったマーカーの表示も、一瞬だけ乱れる。


 矢印が右へ跳ね、すぐに元へ戻った。


 気のせい。


 そう思いかけて、徹は止めた。


 こういうとき、気のせいで済ませるな。


 プール監視のバイトで、何度も言われたことがある。


 違和感は、言え。


「マリー」


 徹は声を出した。


「何?」


「今、床が少し揺れた」


 初心者たちがざわつく。


 マリーの表情が変わる。


 ほんの少しだけ。


 けれど、徹には分かった。


 講師の顔から、探索者の顔になった。


「全員、止まって」


 マリーの声が通路に響く。


 その瞬間。


 どこか遠くで、低い音が鳴った。


 ごん。


 岩の奥から響くような音。


 初心者たちの表情が凍る。


「……何の音?」


 誰かが呟いた。


 徹は反射的に、最後尾の人数を数えた。


 一、二、三、四、五、六。


 全員いる。


 まだ、全員いる。


 マリーは前方を見たまま、短く言った。


「トオル。後ろ、下がれる?」


 徹は振り返る。


 来た道。


 その奥の壁面で、青い鉱石がまた明滅した。


 今度は、はっきりと。


 端末の帰路表示が、一瞬だけ消える。


「……表示が乱れてる」


「了解。全員、慌てない。隊列を崩さないで」


 その言葉が終わるより早く。


 足元が、小さく沈んだ。


 徹は救急ポーチを押さえ、反射的に声を出す。


「全員、その場で止まれ!」


 初心者たちが固まる。


 水たまりの表面が、細かく震えていた。


 そして、通路の奥から、もう一度。


 ごん。


 今度は、さっきより近かった。


ごん。


 低い音が、通路の奥から響いた。


 初心者たちの顔から、さっきまでの講習の空気が消える。


 一人が反射的に後ろへ下がろうとした。


「動くな。足元を見ろ」


「え?」


「水が揺れてる。床も動いてる」


 徹が言うと、その初心者は青ざめた顔で足元を見る。


 水たまりの表面が、小刻みに震えていた。


 マリーは前方に立ったまま、通路の奥を見ている。


 講師の顔ではない。


 探索者の顔だった。


「トオル。人数」


「六人。全員いる」


「怪我は?」


「今はなし」


「了解」


 マリーは短く頷いた。


 それだけで、徹は次に何をすべきか分かった。


 数える。


 見る。


 崩れそうなものから離す。


 声を出させる。


「全員、壁から離れろ。荷物は背負ったまま。手は空けて」


 初心者たちは動けない。


 いや、動き方が分からない。


 徹は一番近くにいた初心者の肩を軽く叩いた。


「大丈夫。走らなくていい。こっちに半歩」


「は、はい」


「次。隣も。足元、見ながら」


 声を低くする。


 急かさない。


 でも、止めない。


 慌てている人間に「急げ」と言うと、余計に危ない。


 バイトで人を誘導したとき、何度も覚えたことだった。


「マリー、右の退避スペースは?」


「使う」


「正面ルート中止。右へ退避する」


 マリーの声が通路に響いた。


「全員、私の指示を聞いて。隊列を崩さない。走らない。トオルの声も聞く」


『え、何か起きてる?』

『講習中止?』

『コメントしてる場合じゃないやつでは』


 コメント欄がざわつく。


 だが、マリーも徹も見ていない。


 今見るべきものは、画面ではなく、初心者と足元と通路だった。


「一人ずつ右へ。前の人が動いてから、次」


「了解」


 徹は最後尾から声を出した。


「一番前、動いて。次、待て。まだ。今。次」


 初心者たちが、ぎこちなく右の退避スペースへ向かう。


 そこまで入れば、ひとまず隊列を整えられる。


 そう思った、そのときだった。


 ばきっ。


 左側の壁に、亀裂が走った。


 初心者の女子が悲鳴を上げる。


「きゃっ!」


「見るな。前を見ろ」


 徹は即座に言った。


「止まるな。今は前の人について行く」


「で、でも」


「大丈夫。マリーが見てる」


 自分で言ってから、徹は少しだけ驚いた。


 けれど、それは事実だった。


 マリーは亀裂を見ている。


 落ちる岩の位置を見ている。


 初心者たちの動線を見ている。


 そして、徹が後ろを見ていることも分かっている。


 だから、徹は後ろを見ればいい。


「トオル」


「何だ?」


「ロープ」


「了解」


 徹は腰の補助用ロープを外した。


 昨日、自分で選んだ、濡れても滑りにくいロープだ。


 まさか、こんなに早く使うとは思っていなかった。


「最後尾二人、これ持って。握るだけでいい。離れるな」


「は、はい」


「強く巻きつけるな。転んだとき危ない。握るだけ」


 徹はロープの反対側を、自分の手に巻かずに握った。


 引きずられたときに危ないからだ。


「いい。ゆっくり」


 右の退避スペースまで、あと数メートル。


 マリーが前方で初心者を誘導する。


「そこ、足元に段差。右足から」


「はい!」


「次、顔を上げて。前だけ見ない」


「はい!」


 マリーの声がある。


 徹の声がある。


 それだけで、崩れかけていた隊列が、ぎりぎり形を保っていた。


 だが、ダンジョンは待ってくれなかった。


 ごごん。


 今度は足元から音がした。


 徹の靴底に、嫌な振動が伝わる。


 端末が警告音を鳴らす。


【警告:浅層地形異常】


【通信不安定】


【退避推奨】


「遅いんだよ」


 徹は思わず呟いた。


 通知は、起きてから来る。


 現場では、いつもそうだ。


「トオル!」


 マリーの声。


 退避スペースの入口手前で、初心者の一人が固まっていた。


 さっき転んだ男子だ。


 目が、床の亀裂に釘付けになっている。


「動けない……」


「見なくていい!」


 徹はロープを持ったまま、声を張った。


「俺を見る!」


「え?」


「床じゃなくて、俺を見ろ!」


 男子の視線が揺れる。


 徹は自分の胸を指差した。


「こっち。はい、一歩。右足」


「……っ」


「次、左。よし。そのままマリーの方へ」


 マリーが手を伸ばす。


 男子が退避スペースへ入る。


 その瞬間、天井から小さな石が落ちた。


 ぱらぱら、と雨のように。


 初心者たちが一斉に身を縮める。


「頭を下げて。止まらない」


 マリーが言う。


「トオル、後ろは?」


「残り二人と俺」


「急いで」


「了解」


 徹はロープを握り直した。


「行くぞ。歩けるか?」


「はい」


「こわいです」


「怖くていい。止まらなければいい」


 初心者の女子が泣きそうな顔で頷く。


 徹は二人を前へ出す。


 自分は最後尾。


 右の退避スペースまで、あと少し。


 そのとき、左側の旧通路から冷たい風が吹いた。


 封鎖中のはずの通路。


 黄色い警告テープが、ばたばたと揺れる。


 暗い。


 奥が見えない。


 だが、風が来ている。


 つまり、どこかにつながっている。


 そんなことを考えた瞬間、足元が大きく揺れた。


「っ!」


 初心者の女子がバランスを崩す。


 徹はロープを握って引き戻した。


「踏ん張れ!」


「きゃあっ!」


「膝曲げろ! 棒立ちになるな!」


 女子がぎりぎり持ちこたえる。


 だが、男子の方が足を滑らせた。


「うわっ!」


 徹は反射的に手を伸ばす。


 グローブ越しに、男子の袖を掴んだ。


 滑らない。


 昨日、マリーが選んだグローブだ。


 濡れても滑りにくいと言っていた。


「立てるか!」


「は、はい!」


「なら立て! 今!」


 男子が必死に立ち上がる。


 徹は二人を退避スペースへ押し出すように誘導した。


「マリー、最後尾入る!」


「確認」


 マリーがこちらを見る。


 その瞬間。


 正面の通路と退避スペースの間に、天井から大きな岩片が落ちた。


 どんっ。


 鈍い音。


 粉塵。


 視界が白く濁る。


「マリー!」


 徹が叫ぶ。


 向こう側で、マリーの白い影が揺れた。


「無事!」


 短い返事。


 その声に、徹は一瞬だけ息を吐いた。


 だが、安心するには早すぎた。


 岩片は通路を完全には塞いでいない。


 けれど、隊列を分断するには十分だった。


 マリーは退避スペース側。


 徹はまだ通路側。


 そして、徹のそばには、最後尾の初心者二人がいる。


「トオル、こっちへ!」


「行く!」


 徹は二人を見る。


「走るな。でも急ぐ」


「はい!」


「ロープ離すな」


 二人を先に出す。


 徹は最後に動く。


 その瞬間、端末が激しく鳴った。


【警告:地盤崩落】


【危険区域】


【即時退避】


「だから遅いって!」


 徹は叫び、足を踏み出した。


 だが、次の瞬間。


 床が、抜けた。


「――っ!」


 音が消えた。


 いや、違う。


 落ちる音が大きすぎて、何も聞こえなくなった。


 徹の視界が傾く。


 初心者の悲鳴。


 粉塵。


 岩の割れる音。


 マリーの声。


「トオル!」


 徹は反射的にロープを掴んだ。


 初心者二人が、同時に落ちかけている。


「離すな!」


 叫んだ。


 叫んだつもりだった。


 声が届いたかどうかは分からない。


 足場が崩れる。


 壁が遠ざかる。


 退避スペースの光が、上へ流れていく。


 白い装備のマリーが、こちらへ手を伸ばしているのが見えた。


 けれど、届かない。


 徹はロープを握ったまま、落ちる初心者たちの方へ体を向けた。


 できること。


 今、自分にできること。


 戦うことではない。


 支えること。


 数えること。


 離さないこと。


「全員、ロープ握れ!」


 次の瞬間。


 徹たちは、崩れた床の下へ落ちた。


落ちた。


 そう理解したときには、徹の背中に衝撃が走っていた。


「ぐっ……!」


 肺の中の空気が、一瞬で押し出される。


 視界が暗い。


 耳の奥で、岩の崩れる音だけが反響している。


 痛い。


 だが、動ける。


 徹はロープを握ったまま、歯を食いしばって起き上がった。


「……全員、返事!」


 声は掠れていた。


 それでも、出した。


「一人目!」


「は、はい!」


「二人目!」


「い、います!」


 初心者二人の声。


 震えている。


 けれど、生きている。


 徹は周囲を見た。


 落ちた先は、細い旧通路のようだった。


 天井は低く、壁は黒ずんでいる。


 足元には崩れた岩と砂。


 上を見上げると、さっきまでいた通路の光が、遠く歪んで見えた。


 マリーの白い姿は見えない。


「怪我は?」


「腕、痛いです」


「足をひねったかも……」


「分かった。動くな」


 徹は腰の救急ポーチを片手で開いた。


 女子の腕は擦り傷。


 男子は足首を押さえている。


 腫れはまだ大きくないが、無理に歩かせるのは危ない。


「腕は拭く。足は固定する。痛かったら言え。黙るな」


「はい」


 処置をしながら、もう一度数える。


 一、二。


 ここにいるのは二人。


 上にいるはずの初心者は四人。


 合計六人。


 落ちたのは、自分と二人。


 全員の位置は、まだ把握できている。


 それだけで、少しだけ息ができた。


 端末を見る。


 通信表示は不安定。


 帰路表示は消えている。


 だが、短距離通信のランプだけが弱く点滅していた。


「マリー、聞こえるか」


 ざざっ。


 雑音。


 それから、途切れ途切れの声。


『……トオル?』


「聞こえる。こっちは三人。俺と初心者二人。全員生きてる」


『怪我は』


「軽傷一人。足首一人。処置中」


『場所は』


「旧通路っぽい。上とはつながってない。帰路表示は消えてる」


 通信の向こうで、マリーが息を呑む気配がした。


『すぐ行く』


「待て」


 徹は反射的に言った。


 自分でも驚くくらい、強い声だった。


『……どうして?』


「上の地盤、まだ動いてる。無理に崩したら、こっちにも落ちる」


 徹は天井を見る。


 細かい砂が、まだぱらぱらと落ちていた。


「マリーはそっちの四人を見てくれ。こっちは俺が見る」


『でも』


「人数は把握してる。怪我も見てる。すぐ動かない」


 少し間が空いた。


 通信の向こうで、マリーが何かを抑えているような沈黙。


『……分かった』


「大丈夫。俺は戦えないけど、見るのはできる」


『知ってる』


 その一言だけで、徹の胸が少し軽くなった。


『トオル』


「何だ?」


『絶対に、勝手に進まないで』


「了解」


『危なかったら、すぐ言って』


「了解」


『二人を離さないで』


「ああ」


 通信が、また雑音に呑まれる。


 完全には切れていない。


 けれど、長く話せる状態ではなかった。


     ◇


 徹は二人を壁際から少し離した。


 崩れやすそうな場所。


 天井から砂が落ちている場所。


 足元の水たまり。


 そのどれも避ける。


「ここに座って。壁にもたれすぎるな」


「は、はい」


「足首、固定するぞ」


 徹は簡易包帯とサポートテープを取り出した。


 プール監視のバイトで見た捻挫の応急処置を思い出す。


 無理に動かさず、固定する。


「痛い?」


「少し」


「強く痛んだら言え」


 男子は頷いた。


 女子は、まだロープを握っていた。


 指が白くなるほど強く。


「もう少し緩めていい。握りすぎると、必要なとき握れなくなる」


「……はい」


 女子は少しだけ力を抜いた。


 それでも、ロープは離さない。


「すみません」


「何が?」


「私たちのせいで」


「違う」


 徹は即答した。


「これはダンジョンのせいだ。誰かのせいにする時間じゃない」


「でも」


「今やることは、謝ることじゃない。返事すること。痛かったら言うこと。勝手に動かないこと」


 女子は唇を噛み、それから頷いた。


「……はい」


 徹は小さく息を吐いた。


 自分も怖い。


 背中は痛いし、足も震えている。


 それでも、ここで自分が崩れたら二人も崩れる。


 だから、声だけは落ち着かせる。


 それが、今の仕事だった。


『バックアップ君、落ちた?』

『通信切れかけてる』

『初心者二人と一緒?』

『マリー、顔がやばい』

『頼む、無事でいてくれ』


 途切れ途切れの配信コメントが端末に流れる。


 徹はコメント欄を閉じた。


 見るものは、そこではない。


     ◇


 しばらくして、通路の奥から冷たい風が吹いた。


 先ほど上で感じた風と似ている。


 つまり、この旧通路はどこかにつながっている。


 だが、勝手に進むなと言われている。


 徹は端末の簡易ライトをつけ、奥を照らした。


 狭い。


 暗い。


 だが、完全な行き止まりではない。


 床には古い誘導線の跡があった。


 消えかけた矢印。


 管理ルートで使われなくなった標識。


「……旧退避路か?」


 徹は呟く。


 男子が顔を上げた。


「進むんですか?」


「まだ進まない」


「でも、ここにいたら」


「分かってる。でも、足を痛めてる。上も崩れてる。動くなら、理由がいる」


 徹はもう一度、通信を入れた。


「マリー、聞こえるか」


 ざざっ。


『……聞こえる』


「こっち、古い誘導線がある。風も来てる。たぶん旧退避路」


『標識は?』


「消えかけてる。奥向きの矢印。水は少ない。天井は低いけど、今いる場所より砂は落ちてない」


『……管理に確認する。そこを動かないで』


「了解」


『トオル』


「何だ?」


『判断、合ってる』


 徹は一瞬、言葉に詰まった。


「……まだ何もしてない」


『してる』


 通信が途切れた。


 短い言葉。


 けれど、不思議と効いた。


 マリーが前にいない。


 隣にもいない。


 それでも、見てくれている。


「……よし」


 徹は二人を見る。


「今は待機。勝手に動かない。でも、次に動けるようにする。ロープ、持てるな?」


「持てます」


「足は?」


「痛いです。でも、言えます」


「それでいい」


 徹は頷いた。


 講習でマリーが言っていた。


 違和感があったら言う。


 遅れたら言う。


 怖かったら言う。


 恥ずかしがらない。


 今、それを実際にやるしかない。


 そのとき。


 旧通路の奥で、何かが擦れる音がした。


 かさり。


 三人が同時に息を止める。


 徹はライトを下げた。


 暗がりの奥。


 崩れた石の向こうで、小さな影が動いた。


 鼠に似た、浅層の雑魚。


 戦闘職なら問題にもならない相手。


 だが、今の三人には違う。


 男子は足を痛めている。


 女子は初心者。


 徹は戦えない。


「……声を出すな」


 二人が震えながら頷く。


 徹はロープを握り直した。


 戦えない。


 魔法も使えない。


 マリーも、ここにはいない。


 だから。


 戦わずに、守るしかない。


 徹は端末の通信ボタンを押した。


「マリー」


 雑音の向こうで、かすかに声が返る。


『……何?』


「こっちに、小型が一匹いる」


 通信の向こうで、空気が凍った気がした。


『トオル、絶対に――』


 そこで、通信が切れた。


 ざざっ、という音だけが残る。


 暗がりの奥で、小さな影がこちらを向いた。


 徹は二人を背にかばうように、一歩前へ出る。


 ロープを握った手が汗で湿っている。


 それでも、離さない。


「大丈夫」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


「俺が見る」


 小さな影が、ゆっくりと近づいてくる。


 そのころ。


 上の退避スペースでは、通信の切れた端末を握りしめたマリーが、初めてはっきりと表情を変えていた。


「……トオル」


 その声は、配信用の《天使》のものではなかった。


 同級生を心配する、綾瀬茉莉の声だった。



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