表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
10/10

第10話 天使のサポートに、何をした

暗がりの奥で、小さな影が動いていた。


 鼠に似た浅層の雑魚。


 大きさは、せいぜい小型犬ほど。


 戦闘職なら、問題にもならない相手だ。


 だが、今の徹たちには違う。


 男子は足を痛めている。


 女子は震えている。


 徹は、戦えない。


「……声を出すな」


 徹は小さく言った。


 二人が息を呑む。


 返事はない。


 それでいい。


 声を出せば、相手に気づかれる。


 徹は端末のライトを下げた。


 直接照らさない。


 目を刺激しない。


 床だけを照らす。


 小型モンスターは、崩れた石の間から鼻をひくつかせていた。


 こっちを見ている。


 いや。


 見ているというより、探っている。


 音。


 匂い。


 動き。


 どれに反応するのか分からない。


 なら、全部減らすしかない。


 徹は呼吸を浅くした。


 ロープを握る手に、汗が滲む。


 怖い。


 もし飛びかかられたら、どうにもならない。


 相手はモンスターだ。


 こっちはただの高校生だ。


 できることを探せ。


 戦うな。


 守れ。


 戻れ。


 マリーが言っていた。


 初心者が最初に覚えることは、倒すことじゃない。


 徹は腰のポーチに指を伸ばした。


 救急用品ではない。


 簡易マーカー。


 薄い円盤状の道具だ。


 投げれば音が出る。


 いや、跳ねる音は大きすぎる。


 転がす。


 できるだけ、遠くへ。


 徹はマーカーを一つ取り出す。


 女子が目を見開いた。


 徹は唇の前に指を立てる。


 静かに。


 それから、通路の右側へ、そっとマーカーを転がした。


 ころ。


 ころころ。


 小さな音が、暗がりに流れる。


 モンスターの耳が動いた。


 顔が、音の方へ向く。


 今。


 徹はロープを軽く引いた。


 一回。


 女子が気づく。


 もう一回。


 男子も、ロープを握り直した。


 声は出さない。


 徹は手で合図する。


 前へ。


 ゆっくり。


 女子が一歩動く。


 男子も続く。


 足を痛めているから、動きが遅い。


 それでもいい。


 走るな。


 急ぐな。


 止まるな。


 徹は最後に動いた。


 ライトは床。


 足音は小さく。


 視線は前と後ろ。


 小型モンスターはマーカーの方へ近づいている。


 鼻先でつつく。


 かち。


 硬い音がした。


 その瞬間、男子の足が小石を踏んだ。


 ぱき。


 小さな音。


 だが、旧通路では大きく響いた。


 モンスターの顔が、こちらへ向いた。


「……っ」


 女子が悲鳴を上げかける。


 徹はすぐに手を伸ばし、彼女の肩を押さえた。


 強くではない。


 止めるだけ。


 目で言う。


 まだ。


 まだ動くな。


 モンスターが、じっとこちらを見る。


 赤黒い小さな目。


 濡れた牙。


 細い前足。


 徹の背筋に、冷たいものが走った。


 飛びかかってくるか。


 いや、まだだ。


 まだ迷っている。


 徹はゆっくり息を吐いた。


 ポーチから、もう一つマーカーを取り出す。


 今度は転がせない。


 動けば気づかれる。


 なら、音を別に作る。


 徹はマーカーの起動部を押し、指先で床へ置いた。


 ぴ。


 小さな電子音。


 端末と同期する音だ。


 モンスターの耳が、また動く。


 徹はすぐ、端末のライトを一瞬だけ右の壁へ向けた。


 白い光が、壁の鉱石に反射する。


 モンスターが、そちらへ首を振った。


 その隙に、徹はロープを引いた。


 行け。


 二人が動く。


 今度は少しだけ早く。


 それでも走らない。


 旧通路の奥。


 かすかな風が流れている方へ。


 徹は最後尾で、モンスターから目を離さない。


 心臓がうるさい。


 足が震えている。


 けれど、声は出さない。


 戦わずに、距離を取る。


 それだけに集中する。


     ◇


 その頃。


 上の退避スペースでは、マリーが通信端末を握りしめていた。


『トオル、絶対に――』


 そこで切れた。


 それきり、返事がない。


 端末の表示は、不安定通信。


 位置情報は途切れ途切れ。


 配信画面も、砂嵐に近いノイズを映している。


 コメント欄だけが、異様な速度で流れていた。


『通信切れた!?』

『今、小型って言ったよな』

『バックアップ君、戦えないぞ』

『マリー様、早く』

『初心者二人もいるんだぞ』


 マリーはコメント欄を見ていない。


 見ているのは、旧退避路Bの簡易図面。


 退避スペース裏の保守扉につながっているが、途中に狭窄部と段差。


 通信不安定。


 モンスター出現の可能性あり。


「扉の開放は」


「今、権限確認中です!」


 管理スタッフが慌てて答える。


「早く」


「はい!」


 マリーの声は低かった。


 怒鳴ってはいない。


 けれど、その場の空気が一段冷える。


 そばにいた初心者四人は、誰も声を出せなかった。


 講習中のマリーとは違う。


 配信で笑う《天使》とも違う。


 今のマリーは、白い装備のまま、今にも壁を斬り裂きそうな目をしていた。


「マリーさん……」


 初心者の一人が、おそるおそる言う。


「あの、トオルさんたちは」


「生きてる」


 即答だった。


「トオルは、二人を見てる」


 自分に言い聞かせるような声だった。


「だから、私はここを開ける」


 マリーは保守扉の前に立つ。


 厚い金属扉。


 管理用のロックが三重にかかっている。


 正規の手順で開けるなら、管理側の承認が必要だ。


 それは分かっている。


 分かっているが。


 通信が切れた。


 トオルが戦えないことも知っている。


 初心者が二人いる。


 足を痛めた子もいる。


 時間が、削れていく。


「権限は」


「あと少しです!」


「何秒」


「え?」


「あと何秒」


 スタッフが青ざめる。


「三十……いえ、二十秒!」


「十秒で」


「む、無茶です!」


「十秒」


 マリーは扉に手を当てた。


 指先が、白くなる。


 そのとき、端末に一瞬だけ音が戻った。


 ざざっ。


 かすかな呼吸音。


 そして、徹の低い声。


『……走るな。音を立てるな。俺の合図で動け』


 マリーの目が見開かれる。


「トオル!」


 返事はない。


 音はまた切れた。


 だが、一瞬だけ聞こえた。


 徹の声。


 落ち着かせようとしている声。


 守ろうとしている声。


 マリーは奥歯を噛んだ。


「……」


 その表情を見て、初心者の一人が小さく呟いた。


「マリーさん、泣きそう……?」


「泣いてない」


 マリーは即答した。


 けれど、声が少し震えていた。


     ◇


 旧通路。


 徹たちは、少しずつ距離を取っていた。


 小型モンスターは完全には諦めていない。


 こちらを追うか。


 音の方へ行くか。


 迷うように、石の上で前足を動かしている。


 徹は二人を先に進ませる。


 女子はロープを握り、男子の腕を支えている。


 男子は痛みに顔を歪めながらも、黙っていない。


「足、痛いです」


「分かった。あと三歩で止まる」


「はい」


 三歩。


 そこで止める。


 約束したからだ。


 長く止まりすぎると追いつかれる。


 でも、無理に歩かせれば足が悪くなる。


 徹は頭の中で、距離と時間を数えた。


 一、二、三。


「止まる。十秒」


「はい」


「音を出すな」


 二人が頷く。


 モンスターが、またこちらを見る。


 近づいてくる。


 ゆっくり。


 だが、確実に。


 距離は十メートルもない。


 徹の手の中に、もう使えるマーカーは少ない。


 武器はない。


 戦闘能力もない。


 あるのはロープ。


 ライト。


 救急ポーチ。


 それから、旧通路の地形。


 使えるものを探せ。


 徹は端末のライトを一度消した。


 暗くなる。


 女子が息を呑む。


 徹はすぐに小声で言った。


「大丈夫。消しただけ」


 モンスターの動きが止まる。


 光を見失った。


 次に、徹はライトを床すれすれに向けて、右側の水たまりだけを照らした。


 水面が揺れて、光がちらちらと反射する。


 モンスターの目が、そちらを追った。


 徹はロープを軽く引く。


 進め。


 二人が動く。


 ゆっくり。


 静かに。


 角を曲がる。


 冷たい風が、少しだけ強くなった。


 徹は背後を見る。


 小型モンスターは追ってきていない。


 水たまりの反射を、まだじっと見ている。


 徹は息を殺したまま、さらに三歩進んだ。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 そこで、ようやく細く息を吐いた。


「……抜けた」


 女子が泣きそうな顔で振り返る。


「追って、来てませんか?」


「今は来てない」


「助かったんですか?」


「まだ。扉に入るまで助かったとは言わない」


 徹はそう言った。


 言ったが、胸の奥では少しだけ力が抜けていた。


 小型モンスターはやり過ごした。


 通信は不安定でも、マリーは向こうにいる。


 この通路は保守扉につながっている。


 なら、あとは扉まで行くだけだ。


 旧通路の先に、金属製の扉のようなものが見えた。


 退避スペース側の保守扉。


 たぶん、あれだ。


「……見えた」


 男子が呟く。


 女子の顔に、かすかに光が戻る。


「扉……!」


「走るな」


 徹はすぐに言った。


「見えたときが一番危ない。足元を見る」


「はい」


 二人は頷く。


 それでも、さっきまでとは足取りが違っていた。


 絶望の中に、出口が見えた。


 それだけで、人は少し動ける。


 扉の向こうから、金属音がした。


 がこん。


 ロックが一つ外れる音。


 マリーがいる。


 向こうで開けようとしている。


 徹は思わず、短く息を吐いた。


「……よかった」


 小さな声だった。


 誰に聞かせるつもりもない声。


 それでも、初心者二人には届いたらしい。


 女子が、涙の滲んだ目で笑いかける。


「もう少しですね」


「ああ」


 徹は頷いた。


 やっと、助かる。


 そう思った。


 その瞬間。


 旧通路の奥で、重い音が響いた。


 ご、ん。


 岩の奥を、巨大な何かが叩いたような音だった。


ご、ん。


 岩の奥を、巨大な何かが叩いたような音だった。


 徹は足を止めた。


 女子も、男子も止まる。


「……今の」


「見るな」


 徹は低く言った。


「扉を見る」


 そう言いながら、徹自身は振り返っていた。


 旧通路の奥。


 暗がりのさらに奥。


 さっき小型モンスターをやり過ごしたはずの方角から、低い振動が近づいてくる。


 ごん。


 今度は、はっきり近かった。


 足元の小石が跳ねる。


 古い標識が、かたかたと揺れる。


 壁の亀裂から、ぱらぱらと砂が落ちた。


 徹の端末が、遅れて警告音を鳴らす。


【警告】


【大型反応接近】


【推奨探索ランク外】


【即時退避】


「……浅層だろ、ここ」


 徹は思わず呟いた。


 端末の表示は赤く点滅している。


 帰路表示は乱れ、通信は不安定。


 それでも、その警告だけは妙にはっきりしていた。


【大型ボス反応】


【ドラゴン種推定】


 女子が息を呑んだ。


 男子の顔から血の気が引く。


「ドラゴン……?」


「声を出すな」


 徹は即座に言った。


 だが、もう遅かった。


 闇の奥で、小型モンスターが甲高い鳴き声を上げた。


 逃げる音。


 爪が石床を引っかく音。


 さっきまで徹たちを追っていた小さな影が、必死に通路を駆け戻ろうとする。


 次の瞬間。


 闇の奥から伸びた巨大な爪が、石床ごと小型モンスターを叩き潰した。


 どんっ。


 旧通路が跳ねた。


 女子が悲鳴を上げかける。


 徹は彼女の肩を押さえた。


「見るな。前だけ見ろ」


 自分の声が震えているのが分かった。


 無理もない。


 闇の奥から、巨大な頭が現れた。


 岩のような鱗。


 裂けた口。


 赤黒く光る目。


 通路に収まりきらない体を、無理やり押し込むように進んでくる。


 ドラゴン。


 徹でも分かった。


 これは、駄目だ。


 小型モンスターとは違う。


 音や光でどうにかなる相手ではない。


 見つかったら終わる。


 触れられたら終わる。


「扉まで、あと何歩」


 徹は言った。


 女子が、涙を浮かべながら保守扉を見る。


「五歩……いえ、六歩くらい」


「足は」


 徹は男子を見る。


「痛いです。でも、動けます」


「なら動け」


 徹はロープを短く持った。


「二人で行け。女子は男子の腕を支えろ。男子は痛くても黙るな。止まるなら言え」


「トオルさんは」


「後ろを見る」


 女子が何か言いかける。


 徹は遮った。


「行け」


 強い声になった。


 二人が動き出す。


 ゆっくり。


 慎重に。


 けれど、さっきよりも速く。


 保守扉は見えている。


 向こうでマリーが開けようとしている。


 扉の奥から、金属音がした。


 がこん。


 一つ目のロックが外れる音。


 女子の顔に、ほんの一瞬だけ希望が戻った。


 助かる。


 そう思ったのが、徹にも分かった。


 徹も、思った。


 あと少しだ。


 あと数歩で、二人は扉へ届く。


 その瞬間。


 ドラゴンの赤い目が、こちらを向いた。


 全身の血が冷えた。


 見られた。


 ドラゴンの喉が鳴る。


 音ではない。


 振動だった。


 胸の奥を直接揺らされるような、低い振動。


 女子の足が止まりかける。


「止まるな!」


 徹は叫んだ。


「扉だけ見ろ!」


 ドラゴンの視線が、声に反応して徹へ動く。


 徹に考える暇はなかった。


 今、二人を見るな。


 俺を見ろ。


 徹は端末を握りしめた。


 緊急ブザー。


 最大音量。


 指が震える。


 押した。


 びいいいいいいいっ!


 旧通路に、甲高い音が響き渡る。


 ドラゴンの目が細くなる。


 徹を見る。


 完全に、徹を見た。


「こっちだ!」


 声が裏返った。


 それでも叫んだ。


「俺を見ろ!」


 ドラゴンが、一歩進む。


 床が砕けた。


 古い石板が割れ、水たまりが跳ねる。


 徹は後ずさりしそうになった。


 だが、足を止めた。


 下がれば、二人との距離が詰まる。


 下がるな。


 囮なら、囮らしく立て。


 そう考えた瞬間、自分が何をしようとしているのか理解して、胃が冷えた。


 囮。


 自分が。


 戦えないのに。


 けれど、今ここでできる役割は、それしかなかった。


 徹は端末を左へ投げた。


 がつん、と岩に当たる。


 ブザー音がそちらへ転がっていく。


 ドラゴンの目が、ほんの一瞬だけ動いた。


 ほんの一瞬。


 それだけ。


 だが、足りた。


「今!」


 二人が動く。


 扉へ向かう。


 あと三歩。


 あと二歩。


 そのとき、扉の向こうで二つ目の金属音が鳴った。


 がこん。


 ロックが外れる。


 あと一つ。


     ◇


 保守扉の向こう。


 マリーは最後のロック表示を睨んでいた。


「まだ?」


「い、今、最後の認証が……!」


「早く」


「やってます!」


 管理スタッフの声は裏返っている。


 端末には赤い警告が出ていた。


【大型反応接近】


【ドラゴン種推定】


【推奨探索ランク外】


 コメント欄は、もはや悲鳴だった。


『ドラゴン!?』

『浅層だぞ!?』

『初心者講習だぞ!?』

『バックアップ君逃げろ』

『無理だろこれ』

『マリー様、早く!』


 マリーは見ていない。


 見られるはずがない。


 保守扉の向こうに、徹がいる。


 戦えない徹がいる。


 初心者二人を逃がそうとしている徹がいる。


 どうせ、また自分の怪我を後回しにする。


 また「仕事だから」で済ませる。


 そういう人だと、分かってしまう。


 だから怖い。


「権限は」


「あと十秒!」


「五秒で」


「無茶です!」


「五秒」


 マリーは扉に手を当てた。


 指先が白くなる。


 そのとき、扉の向こうから声が聞こえた。


 通信越しではない。


 金属越しに響く、徹の声。


「こっちだ!」


 マリーの表情が止まる。


「俺を見ろ!」


 意味を理解した。


 徹が、囮になっている。


 初心者を逃がすために。


 戦えないくせに。


 ドラゴンを前にして。


「……開けて」


「あと少しで」


「開けて」


 マリーの声から、温度が消えた。


「今すぐ」


 管理スタッフが、最後の承認を叩くように押す。


【保守扉 開放可能】


 表示が出る。


 マリーは開放ボタンを待たなかった。


 剣を抜く。


 白銀の刃が、保守扉のロック部分を一閃した。


「マリーさん!?」


 スタッフの悲鳴。


 だが、マリーは止まらない。


 切断されたロックが弾ける。


 扉がわずかに開く。


 その隙間に指をかけ、マリーは力任せにこじ開けた。


 ぎぎぎ、と金属が悲鳴を上げる。


 冷たい空気。


 砂埃。


 血の匂い。


 そして、ドラゴンの低い唸り。


     ◇


 徹は、扉が開く音を聞いた。


 開いた。


 マリーが開けた。


「二人とも、入れ!」


 徹は叫ぶ。


 女子が男子を支え、扉へ飛び込むように進む。


 白い手が伸びた。


 マリーの手だ。


 まず女子を引き入れる。


 次に男子。


 二人が扉の向こうへ消える。


 よかった。


 徹は、心底そう思った。


 次は自分。


 そう思って、足を動かそうとした。


 だが。


 ドラゴンが、徹の前に立ちはだかっていた。


 いつの間にか、距離を詰めていた。


 巨大な頭が、徹を見下ろしている。


 赤い目。


 裂けた口。


 熱い息。


 逃げ道は、ない。


「……あ」


 声にならない音が漏れた。


 徹はロープを握った。


 意味はない。


 分かっている。


 こんな相手に、ロープで何ができる。


 それでも、手放せなかった。


 ドラゴンの口が開く。


 赤い光が、喉の奥に集まる。


 徹の体が動かない。


 足が震えている。


 膝が笑っている。


 怖い。


 怖いに決まっている。


 死ぬ。


 今、たぶん死ぬ。


 それでも、徹は背後を見なかった。


 二人は扉の向こうへ行った。


 なら、役目は果たした。


 そう思った瞬間。


 白い影が、徹の前に割り込んだ。


 風が爆ぜた。


 視界が白く染まる。


 ドラゴンの吐き出しかけた赤い光が、白銀の斬撃に叩き割られた。


 轟音。


 熱風。


 徹の体が後ろへ吹き飛ばされる。


 だが、熱は届かなかった。


 目の前に、白い背中があった。


 《天使》マリー。


 剣を抜いている。


 いつもの配信で見る、綺麗な構えではなかった。


 もっと低く。


 もっと荒く。


 怒りを、そのまま刃にしたような立ち姿だった。


「マリー……?」


 徹が声を出す。


 マリーは振り返らない。


 ドラゴンだけを見ている。


 その手が、震えていた。


 恐怖ではない。


 怒りで。


「トオル」


「何だ?」


「怪我」


「浅い。たぶん」


「たぶんじゃない」


「初心者二人は?」


「無事」


「よかった」


 徹は、本当にそう言った。


 その瞬間、マリーの肩がわずかに震えた。


 ゆっくりと、彼女が振り返る。


 徹の血の滲んだ袖。


 裂けた制服。


 震えている足。


 それらを一つずつ見て。


 マリーの表情が、完全に変わった。


 コメント欄が、止まったように見えた。


 次の瞬間、爆発する。


『マリー様!?』

『ドラゴン止めた!?』

『バックアップ君、血!』

『やばい、天使がキレてる』

『これ本気のやつだ』


 マリーはコメントを見ていない。


 ただ、ドラゴンへ向き直った。


 白い剣に、光が集まる。


 空気が震える。


 旧通路の壁が、びりびりと鳴る。


「私のサポートに」


 低い声。


 怒りと、恐怖と、安堵が混ざった声。


「何をしたああああああああああああああああああっ!」


 旧通路が、白い光で埋まった。


旧通路が、白い光で埋まった。


 音が消えた。


 いや、消えたように感じただけだ。


 次の瞬間、轟音が遅れて届いた。


 どんっ。


 壁が震える。


 床が跳ねる。


 天井から砂と小石が降った。


 徹は思わず腕で顔をかばう。


 白い光の向こうで、ドラゴンの巨体が後ろへ押し戻されていた。


 あれほど大きかったはずの爪が、地面を削る。


 硬い鱗に、白銀の光が食い込む。


 ドラゴンが吠えた。


 空気が揺れる。


 耳の奥が痛い。


「下がって」


 マリーの声がした。


 低い。


 冷たい。


 けれど、徹に向けた声だけは、ぎりぎり抑えているように聞こえた。


「トオル。下がって」


「初心者は?」


「二人とも扉の向こう。無事」


「怪我は」


「後で見る」


「足首の子は――」


「後で見る!」


 マリーが振り返った。


 その顔を見て、徹は言葉を止めた。


 怒っている。


 いや、怒っているだけではない。


 心配している。


 焦っている。


 怖がっている。


 それを全部、無理やり押し込めて、剣を握っている顔だった。


「今は、あなた」


「……俺?」


「そう」


 マリーは短く言う。


「あなたが下がらないと、私は戦いにくい」


 それは、命令だった。


 いつもの淡々とした指示ではない。


 感情を押し殺した命令。


 徹は頷き、痛む腕を押さえながら後ろへ下がった。


 足が震えている。


 うまく歩けない。


 それでも、退避スペース側の扉へ向かう。


 扉の向こうから、初心者の女子が泣きそうな声を上げた。


「トオルさん!」


「こっち見なくていい!」


 徹は振り返らずに言った。


「奥へ下がれ! 足首のやつ座らせて、壁から離せ!」


「は、はい!」


「救急ポーチ、予備のテープ入ってる! 使える人に渡して!」


「トオル!」


 マリーの声が飛ぶ。


「指示は後!」


「でも」


「後!」


「……了解」


 徹はそれ以上言わなかった。


 言えなかった。


 マリーが前へ出たからだ。


 白い装備の背中。


 細いはずなのに、今は旧通路のすべてを塞いでいるように見えた。


 ドラゴンが、赤黒い目でマリーを見る。


 喉の奥に、また赤い光が灯る。


 吐く気だ。


 徹でも分かった。


「マリー!」


「見てる」


 短く返ってきた。


 次の瞬間、ドラゴンの口から赤い炎が放たれた。


 狭い旧通路を埋め尽くす、熱の奔流。


 逃げ場はない。


 だが、マリーは逃げなかった。


 剣を両手で構える。


 白銀の光が、刃から翼のように広がった。


「断つ」


 小さな声。


 それだけだった。


 白い斬撃が、炎を縦に裂いた。


 熱が左右へ割れる。


 壁が焼け、床の水が一瞬で蒸発する。


 徹の頬に熱風が叩きつけた。


 だが、届かない。


 マリーの背中の後ろだけ、熱が途切れている。


 コメント欄が、端末の割れた画面に流れていた。


『炎を斬った!?』

『ドラゴンブレス正面から割ったぞ』

『マリー様、本気だ』

『いや本気すぎる』

『バックアップ君、まだ指示してるの何』

『下がれって言われてるだろ!』


 徹はコメントを見ていない。


 見ている余裕がない。


 腕が痛い。


 頬も熱い。


 背中もまだ痛い。


 それでも、視線だけは動いていた。


 ドラゴン、マリー、扉、初心者二人、退路、崩れそうな天井。


 何もできない。


 けれど、見ることだけはやめられない。


「トオル!」


 マリーが叫ぶ。


「本当に下がって!」


「下がってる!」


「まだ近い!」


「これ以上下がると扉の前が詰まる!」


「……っ」


 マリーが一瞬だけ息を呑む。


 その一瞬を、ドラゴンは逃さなかった。


 巨体に似合わない速さで、前足を振る。


 爪が、白い光の壁を削った。


 火花のように光が散る。


 マリーの体が、半歩だけ後ろへ滑った。


「マリー!」


「大丈夫」


 返事は早かった。


 だが、徹には分かった。


 大丈夫ではない。


 狭すぎる。


 ここは旧通路だ。


 マリーが本来の速度で動くには、壁も天井も近すぎる。


 しかも背後には徹がいる。


 扉の向こうには初心者がいる。


 避けられない。


 押し込めない。


 だから、正面から止めるしかない。


 徹は歯を食いしばった。


 自分が邪魔だ。


 それが分かる。


 分かるから、余計に悔しい。


「トオル」


「何だ!」


「扉の向こうへ」


「でも」


「行って」


 マリーはドラゴンを見たまま言う。


「あなたがそこにいると、私は怒りすぎる」


「……怒りすぎる?」


「そう」


 マリーの剣に、さらに光が集まる。


「加減できなくなる」


 徹は言葉を失った。


 その声が、本気だったからだ。


 マリーは今、ドラゴンを倒すことよりも、徹がそこにいることに意識を引っ張られている。


 それが分かった。


 だから、徹は動いた。


 足を引きずる。


 扉へ向かう。


 白い手が伸びてきた。


 初心者の女子ではない。


 管理スタッフだった。


「こちらへ!」


「自分で歩ける」


「いいから!」


 徹はその手を借り、保守扉の向こうへ倒れ込むように入った。


 床に膝をつく。


 同時に、マリーが動いた。


 今までとは違った。


 守るために正面で受けていた動きではない。


 徹が後ろへ抜けたことで、足が自由になった。


 剣が低く沈む。


 白い残像が走る。


 マリーの姿が、消えたように見えた。


 次の瞬間、ドラゴンの前足の鱗が弾けた。


 があああああっ!


 ドラゴンが吠える。


 マリーはもう、そこにいない。


 壁を蹴り、天井すれすれを飛び、ドラゴンの横へ回る。


 旧通路の狭さを、むしろ足場にしている。


 白い光が何度も走り、硬い鱗が砕け、赤黒い血が飛んだ。


『速い』

『見えない』

『さっきまで守りながら戦ってたのか』

『バックアップ君が下がった瞬間これ』

 コメント欄が騒ぐ。


 マリーは見ていない。


 ドラゴンだけを見ている。


 いや。


 違う。


 時々、ほんの一瞬だけ、徹の方を見る。


 徹がそこにいるか。


 倒れていないか。


 血が増えていないか。


 それを確認してから、またドラゴンへ向かう。


「こっち見るな!」


 徹は思わず叫んだ。


「前見ろ!」


 マリーの肩が、ぴくりと動く。


 それでも、返事はしない。


 代わりに、白い斬撃がドラゴンの爪を叩き落とした。


 巨大な爪が、床に突き刺さる。


 ドラゴンが後退する。


 旧通路が悲鳴を上げる。


 天井から石が落ちる。


「崩れる!」


 徹が叫んだ。


「マリー! 天井!」


「分かってる!」


 初めて、マリーが少しだけ声を荒げた。


 ドラゴンが暴れれば、旧通路ごと崩れる。


 長引かせられない。


 マリーは剣を構え直した。


 白い光が、刃だけでなく、背中の周囲にも広がる。


 翼のように。


 けれど、きれいではなかった。


 眩しすぎる。


 鋭すぎる。


 怒りで形を持った光だった。


「動かないで」


 マリーが言った。


 誰に向けたのか分からない。


 徹か。


 初心者か。


 管理スタッフか。


 それとも、ドラゴンか。


 次の瞬間、マリーは真正面から踏み込んだ。


 ドラゴンが口を開く。


 赤い光。


 ブレス。


 マリーはその中へ突っ込んだ。


「おい!」


 徹が叫ぶ。


 白い光が、赤い光を割る。


 炎の中を、マリーが進む。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 剣を振り上げる。


 ドラゴンの赤い目が、見開かれたように見えた。


「二度と」


 マリーの声が、炎の中から聞こえた。


「触らないで」


 白銀の剣が、振り下ろされた。


 轟音。


 旧通路全体が白く染まる。


 ドラゴンの咆哮が、途中で切れた。


 光が収まったとき、巨大な体は通路の奥へ叩き伏せられていた。


 完全に消滅したわけではない。


 だが、動かない。


 鱗は砕け、角の片方が折れている。


 赤い目の光も、弱くなっていた。


 マリーは剣を下ろさない。


 肩で息をしている。


 白い装備の端が、焦げている。


 頬に、細い傷が一本あった。


 徹はそれを見た瞬間、立ち上がろうとした。


「マリー、怪我――」


「座って」


 即答だった。


「いや、お前も」


「座って」


「……はい」


 徹は座った。


 勢いに負けた。


 初心者二人も、管理スタッフも、誰も何も言えない。


 コメント欄だけが、爆発していた。


『ドラゴン沈めた』

『天使、怖い』

『でもかっこいい』

『私のサポート、完全に私物扱いで草』

『草じゃない、泣いてる』


 マリーはゆっくり振り返った。


 ドラゴンを背に。


 白い剣を下ろさないまま。


 まっすぐ徹のところへ歩いてくる。


 徹は、なぜか少しだけ身構えた。


 怒られる。


 そう思った。


 マリーは徹の前で止まる。


 血の滲んだ袖を見る。


 頬の傷を見る。


 制服の裂け目を見る。


 それから、徹の目を見る。


「トオル」


「何だ?」


「無茶をした」


「してない」


「した」


「初心者二人を逃がしただけだ」


「それを無茶って言う」


「でも、必要だっただろ」


 マリーは黙った。


 徹も黙る。


 旧通路の奥で、ドラゴンの巨体がかすかに崩れる音がした。


 管理スタッフが、慌てて声を上げる。


「撤退します! 全員、退避スペースへ!」


 その言葉で、ようやく時間が動き出した。


 初心者の女子が泣きながら徹へ頭を下げる。


「ありがとうございました……!」


 足を痛めた男子も、震える声で言った。


「俺、助かりました。本当に」


「まだ戻ってない」


 徹は言った。


「礼は、外に出てからでいい」


 マリーが徹を見る。


 怒ったような。


 泣きそうな。


 それでいて、少しだけ呆れたような顔だった。


「トオル」


「今度は何だ?」


「本当に、そういうところ」


「何が?」


「後で言う」


「今言えよ」


「後で」


 マリーは短く言って、徹の腕に手を伸ばした。


 今度は、強く掴まない。


 傷に触れないように、そっと支える。


「立てる?」


「立てる」


「嘘なら怒る」


「……少しきつい」


「最初からそう言って」


 マリーの声が、ほんの少しだけ震えた。


 徹は返事に困り、視線を逸らす。


「悪い」


「謝るのも後」


「後が多いな」


「今は戻る」


 マリーは徹を支えたまま、退避スペースの方へ向き直る。


 先頭には管理スタッフ。


 真ん中に初心者たち。


 その後ろに徹。


 そして最後尾に、マリー。


 いつもの隊列とは逆だった。


 徹はそれに気づいて、少しだけ笑いそうになる。


「今日は俺が後ろじゃないんだな」


「黙って歩いて」


「了解」


 マリーは短く言った。


「私が後ろを見る」


 その声は、まだ怒っていた。


 けれど、徹の腕を支える手は、ひどく慎重だった。


退避スペースへ戻るまでの数分間、徹はほとんど何も言わなかった。


 正確には、言えなかった。


 腕が痛い。


 背中が痛い。


 頬が熱い。


 それに、足がまだ震えている。


 ドラゴンの赤い目が、まぶたの裏に残っていた。


 あれは、本当に死ぬと思った。


 今、たぶん死ぬ。


 そう思った瞬間の冷たさが、まだ胸の奥にある。


「トオル」


「何だ?」


「顔色が悪い」


「普通だろ」


「普通じゃない」


「いや、まあ、さっきドラゴンいたしな」


「軽く言わないで」


 マリーの声が低くなる。


 徹は反射的に口を閉じた。


 怒らせた。


 いや、怒っているのは最初からだった。


 ただ、その怒りの向きが、少しだけ徹にも向いた気がした。


 退避スペースには、すでに救護スタッフが到着していた。


 初心者たちも、管理スタッフも、配信用ドローンも、ようやく同じ場所に戻ってきている。


「負傷者確認!」


 管理スタッフが声を上げる。


「初心者一名、足首捻挫疑い! 一名、擦過傷! トオルさん、腕部裂傷、頬部擦過傷、落下による打撲疑い!」


「俺は後でいいです」


「駄目」


 マリーが即答した。


「いや、初心者の方が」


「駄目」


「足首の子、先に」


「その子はもう見てる」


 マリーが顎で示す。


 見ると、足を痛めた男子も女子の腕も、すでに処置が始まっていた。


 徹は少しだけ息を吐いた。


「ならいいか」


「よくない」


「何が?」


「あなた」


「俺?」


「そう」


 マリーは徹の腕を見た。


 血の滲んだ袖。


 破れた布。


 そこから覗く傷。


「すぐ処置」


「分かった」


 徹は素直に頷いた。


 ここで逆らっても無駄だ。


 というより、マリーの目が怖い。


 救護スタッフに促され、徹は簡易ベンチに座った。


 袖を切られ、傷を洗われる。


「痛みますよ」


「はい」


 消毒液が触れた瞬間、徹は肩を跳ねさせた。


「っ」


「痛い?」


 マリーがすぐに聞く。


「いや、大丈夫」


「痛いんでしょ」


「痛い」


「最初からそう言って」


「はい」


 隣で、初心者の女子が小さく笑った。


 涙の跡が残った顔で。


「トオルさん、怒られてる」


「怒られてない」


「怒ってる」


 マリーが言った。


「怒ってた」


「今は?」


「まだ怒ってる」


「そうか」


 徹は返事に困った。


 コメント欄が、ようやく普通の速度に戻り始めていた。


『生きてる……』

『よかった、本当によかった』

『バックアップ君、普通に怪我してる』

『本人だけ軽く済ませようとしてるの草』

『草じゃない、怒られろ』

『私のサポートに何をした、今年一番震えた』


 配信ドローンは距離を取っている。


 マリーが無言で下げさせたからだ。


 それでも、コメントは止まらない。


 徹はちらりと端末を見て、すぐに目を逸らした。


「……あんまり見られたくないな、これ」


「配信は管理側判断で一時制限中」


「そうなのか」


「当然」


 マリーは言った。


「あなたの怪我を見世物にするつもりはない」


「……助かる」


 徹がそう言うと、マリーは一瞬だけ目を伏せた。


 怒っているはずなのに。


 その表情は、少しだけ違って見えた。


     ◇


 救護処置が一段落すると、初心者二人が徹の前に立った。


 足を固定された男子は、スタッフに支えられている。


 女子は、何度も息を整えてから頭を下げた。


「あの、本当にありがとうございました」


 男子も続く。


「俺、足が動かなくて。トオルさんがいなかったら、たぶん……」


「やめろ」


 徹は短く言った。


 二人が顔を上げる。


「そういうのは、外に出てからでいい」


「でも」


「まだ終わってない。ゲートを出るまで探索中だろ」


 それは、講習でマリーが言っていた言葉だった。


 戻れる人が続けられる。


 倒すことより、戻ること。


 徹が言うと、マリーが少しだけ目を細めた。


 女子は唇を噛み、それから頷いた。


「はい。じゃあ、外に出たら、もう一回言います」


「一回でいい」


「言わせてください」


「……好きにしろ」


 徹は視線を逸らした。


 照れくさい。


 礼を言われるのは、どうにも慣れない。


 男子が、少しだけ笑った。


「トオルさん、戦えないって言ってましたけど」


「戦えないぞ」


「でも、守ってくれました」


「逃がしただけだ」


「それを、守ったって言うんだと思います」


 徹は返事に詰まった。


 何か言い返そうとして、やめる。


 隣でマリーが見ている。


 下手なことを言うと、また怒られそうだった。


「……まあ、生きて戻れたならよかった」


 徹がそう言うと、初心者二人はもう一度頭を下げた。


     ◇


 第一浅層ゲートから外に出たとき、空気の匂いが変わった。


 湿った岩と土の匂いではない。


 舗装された床。


 人の声。


 機械音。


 外の空気。


 徹は、ようやく本当に息を吐いた。


「出た……」


 思わず漏れた声だった。


 隣の初心者女子が、同じように息を吐く。


「外です……」


 足を固定された男子も、スタッフに支えられながら小さく笑った。


「生きてる……」


「縁起でもないこと言うな」


 徹が言うと、女子が泣きながら笑った。


 その様子を見て、周囲のスタッフも少しだけ表情を緩める。


 だが、マリーだけはまだ緩んでいなかった。


 ゲートを出ても、剣を完全には収めていない。


 視線は何度も徹へ向く。


 腕。


 頬。


 足元。


 顔色。


 確認しすぎだろ、と徹は思った。


 だが、言わなかった。


 言えばたぶん怒られる。


 管理責任者らしき人物が、マリーのもとへ駆け寄ってきた。


「マリーさん、今回の件については――」


「後で」


 マリーは切った。


「今は負傷者の搬送と、残った参加者の確認」


 声が低い。


 責任者が言葉を飲む。


「それと」


 マリーは振り返らずに言った。


「浅層講習ルートにドラゴン種が侵入した理由。封鎖通路が崩落した理由。旧退避路のロック解除が遅れた理由。全部、報告をください」


「はい……」


「早く」


「はい!」


 責任者が走っていく。


 徹はその背中を見送りながら、ぼそりと呟いた。


「仕事できるな」


 マリーが振り返る。


「何?」


「いや、良いリーダーだなって」


「……」


「何だよ」


「今それを言う?」


「他に何て言えばいいんだよ」


 マリーは少しだけ口を開き、閉じた。


 そして、深く息を吐く。


「もういい」


「何が?」


「今は、いい」


 徹は首を傾げた。


 コメント欄がそのやり取りを拾っていた。


『良いリーダー』

『そこじゃない』

『違う、そうじゃない』

『命がけで助けられてその感想』

『バックアップ君、認識が鋼』

『マリー様、今ツッコミを飲み込んだ』


 マリーはちらりとコメント欄を見て、すぐに配信ドローンへ向き直った。


「本日の初心者講習は、緊急事態発生により中止します」


 声は、配信の《天使》のものに戻っていた。


 少しだけ硬い。


 けれど、崩れてはいない。


「参加者は全員生存。負傷者はいますが、救護対応中です。詳細は管理側の正式発表を待ってください」


 そこで一度、言葉を切る。


 そして、マリーはほんの少しだけ視線を下げた。


「今日、初心者たちはよく声を出しました。遅れを伝えました。怖いと言えました。だから戻れました」


 徹は顔を上げる。


 マリーは続けた。


「そして、トオルが後ろを見ていました」


 コメント欄が一気に流れる。


『バックアップ君!』

『今日のMVP』

『戦えないのに一番大事な仕事してた』

『戻れる人が続けられる、マジでこれ』

『私のサポート』


 マリーは最後のコメントを見たのか、見ていないのか。


 少しだけ目を細めた。


「以上です」


 配信が一時停止される。


 ドローンのランプが赤から灰色に変わった。


 その瞬間、マリーは《天使》の顔をやめた。


「トオル」


「何だ?」


「病院」


「いや、救護室でいいだろ」


「病院」


「そこまでじゃない」


「病院」


「……はい」


 徹は逆らうのをやめた。


     ◇


 翌日。


 学校。


 徹は、左腕に包帯を巻いた状態で登校した。


 頬には小さな絆創膏。


 背中の打撲は、制服の下なので見えない。


 医者には「しばらく安静」と言われた。


 それを聞いた徹は、そういうわけにもいかないと思った。


 口には出さなかった。


 出したら、マリーに本気で怒られる気がしたからだ。


 教室に入ると、三枝が立ち上がった。


「稲垣!」


「声でかい」


「お前、その腕!」


「ちょっと擦った」


「擦った包帯じゃないだろ、それ」


 クラスの視線が集まる。


 昨日の配信を見ていた者も多いらしい。


 というより、ほぼ見ていたらしい。


「ドラゴンって何?」


「浅層講習で出るやつじゃないだろ」


「マリーさん、めちゃくちゃキレてなかった?」


「私のサポートって言ってなかった?」


「言ってない」


 徹は即答した。


 三枝が目を細める。


「いや、言ってたぞ」


「聞き間違いだ」


「全国の視聴者が?」


「配信の音声が乱れてたんだろ」


「都合よく乱れすぎだろ」


 徹は鞄を机に置く。


「とにかく、俺は大した怪我じゃない」


「そのセリフ、昨日マリーさんに怒られてなかった?」


「怒られてない」


「怒られてたよ」


 徹は返事をしなかった。


 実際、怒られた。


 病院へ行くまで、処置中、帰り際。


 合計で、たぶん六回くらい。


 なぜか、全部「無茶をした」に分類されていた。


「でもさ」


 三枝が、少しだけ真面目な顔になる。


「本当に無事でよかったな」


 徹は一瞬、言葉に詰まる。


 からかいでもなく、茶化しでもない声だった。


「……まあな」


「初心者の子たちも助かったんだろ?」


「ああ」


「なら、よかった」


「そうだな」


 徹は席に座る。


 教室の空気が、少しだけ柔らかくなった。


 そのとき。


 教室の後ろの扉が、静かに開いた。


 綾瀬茉莉が入ってくる。


 いつものように、静かな足取り。


 いつものように、控えめな表情。


 けれど。


 徹を見た瞬間、その足が止まった。


 視線が、徹の包帯へ向く。


 頬の絆創膏へ向く。


 それから、徹の顔へ向く。


「……稲垣くん」


「何?」


「怪我」


「大したことない」


 茉莉の表情が、ほんの少しだけ動いた。


 ぴくり、と。


 クラスの何人かが、それに気づいた。


 三枝も気づいた。


 徹だけが、気づいていない。


「本当に?」


「ああ。病院でも、しばらく安静って言われただけだ」


「それは、大したことあります」


「そうか?」


「あります」


 茉莉の声は小さい。


 けれど、妙に強かった。


 徹は少しだけ困ったように頬をかく。


「いや、でもマリーもちゃんと病院行かせてくれたしな。良い上司だよ」


 教室が、静かになった。


 三枝が目を閉じた。


 近くの女子が口元を押さえた。


 男子の一人が小さく「出た」と呟いた。


 茉莉は、徹を見ていた。


「……良い、上司」


「ああ」


「……」


 茉莉は一度、目を伏せる。


 何かを飲み込むように。


 それから、小さく頷いた。


「そう、ですね」


「だろ?」


「はい」


 茉莉は自分の席へ向かう。


 その背中を見ながら、三枝が小声で言った。


「稲垣」


「何?」


「お前、一回ちゃんと怒られた方がいいぞ」


「昨日怒られた」


「足りない」


「何でだよ」


 三枝は答えなかった。


 代わりに、綾瀬茉莉の方を見た。


 茉莉は席に着き、ノートを開いていた。


 授業の準備。


 の、はずだった。


 けれど、ノートの端に、細い文字が一つだけ書かれている。


 怪我。


 その横に、もう一つ。


 無茶。


 茉莉はその二つの文字をじっと見つめた。


 そして、ゆっくりとペンを握り直す。


 黒く塗りつぶすことはしなかった。


 代わりに、その下へ小さく書き足す。


 心配。


「……」


 書いてから、茉莉ははっとしたようにペンを止めた。


 頬がわずかに赤くなる。


 慌ててノートを閉じる。


 隣の女子が首を傾げた。


「綾瀬さん?」


「……復習です」


「まだ何も始まってないよ?」


「予習です」


「そっか……真面目だね」


「はい」


 茉莉は小さく頷いた。


 徹は前の席で、三枝に包帯を突かれそうになって抗議している。


「触るな。痛いだろ」


「痛いんじゃん」


「それは痛い」


「マリーさんに言え」


「何でだよ」


「言え」


「言わない」


 教室に、いつものようなざわめきが戻っていく。


 昨日、白い光に満ちていた世界が、今は黒板の文字と、机を引く音と、誰かの笑い声に戻っている。


 それが少しだけ、不思議だった。


 徹は前の席で、三枝に包帯を突かれそうになって抗議している。


「触るな。痛いだろ」


「痛いんじゃん」


「それは痛い」


「マリーさんに言え」


「何でだよ」


「言え」


「言わない」


 いつもの声。


 いつもの教室。


 けれど、茉莉の目には、昨日の徹の姿がまだ残っていた。


 血の滲んだ袖。


 震えていた足。


 それでも、背後を振り返らなかった背中。


――初心者二人は?


 自分のことより先に、そう聞いた声。


 茉莉は、閉じたノートの上にそっと手を置いた。


 中には、三つの文字が残っている。


 怪我。


 無茶。


 心配。


 黒く塗りつぶすことはできなかった。


 消そうとしても、たぶん、消えない。


「……良い上司」


 茉莉は、小さく呟いた。


 徹がそう言った言葉。


 徹が、たぶん本気でそう思っている言葉。


 茉莉はその言葉を、胸の中でゆっくり転がしてみる。


 上司。


 リーダー。


 サポート。


 専属。


 どれも、間違いではないはずなのに。


 昨日、扉の向こうで通信が切れた瞬間。


 ドラゴンの前に立つ徹を見た瞬間。


 血の滲んだ袖を見た瞬間。


 胸の奥が、冷たく縮んだ。


 あれは、きっと。


 仕事の心配だけではなかった。


「……」


 茉莉は、そっとノートを引き寄せる。


 ページは開かない。


 ただ、表紙の上から指先でなぞる。


 誰にも見えないように。


 誰にも聞こえないように。


 自分にさえ、まだはっきりとは聞こえないように。


「……違います」


 小さな声だった。


 けれど今度は、何を否定したのか、茉莉自身にも分かりきってはいなかった。


 チャイムが鳴る。


 徹が前で「やべ、教科書忘れた」と呟き、三枝が呆れた声を出す。


 いつもの昼前の教室。


 何も変わっていないようで。


 でも、茉莉のノートの中には、消せない文字が一つ増えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ