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第4話 天使、理由も分からず機嫌が悪い



 翌朝。


 稲垣徹が教室に入った瞬間、クラスの空気が変わった。


「来たぞ」

「天使の専属」

「のど飴係」

「マリー様の後ろの男」


「最後の言い方、なんか嫌だな」


 徹は鞄を下ろしながら、普通に突っ込んだ。


 昨日の配信は、かなり伸びたらしい。


 《天使》マリーの試験配信に参加し、途中で遭難者を救助し、その場で正式採用。


 切り抜き動画のタイトルは、だいたいろくでもなかった。


『無能力サポート、天使の専属になる』


『マリー様「私のサポートに触るんじゃないわよ」発言まとめ』


『のど飴係、正式採用』


 最後のやつを作った人間とは、一度話し合う必要がある。


「稲垣、マリー様に“私のサポート”って言われたんだろ?」

「言われたな」

「どうだった?」

「どうって?」

「ドキッとした?」

「いや、虫がいたし」

「虫に負けるなよ、ときめき」


 クラスメイトが呆れたように言った。


 徹としては、あの場面で恋愛方面に脳を使える人間の方がすごいと思う。


 鎧虫が後ろから来ていたのだ。


 ときめきより命である。


「でもさ、マリーって実際可愛いよな」

「それはそう」

「そこは即答なんだ」

「事実だからな」


 徹が席に着くと、前の席を三枝が当然のように占拠した。


「おはよう、のど飴係」

「おはよう、昨日助けられたパーティー代表」

「肩書きが重い!」

「生きてるからセーフ」

「基準が重い!」


 いつものやり取り。


 だが、徹の隣では、いつも通りではない人物が一人いた。


 綾瀬茉莉である。


 ぼさぼさの黒い長髪。

 長い前髪。

 小さく丸まった背中。

 机の上には教科書と筆箱。


 見た目はいつも通り、教室の空気に溶け込んでいる。


 しかし内心は、まったく溶け込んでいなかった。


(私のサポート……)


 昨日、自分が言った言葉が頭の中で反復されている。


(私のサポートに、触るんじゃないわよ)


 言った。


 確かに言った。


 配信中に。

 コメント欄が爆発している中で。

 徹の前で。


(違う。あれは状況的に自然。専属サポートだから。業務上の呼称。恋愛的意味はない。ない。ないはず)


 茉莉は机に視線を落としたまま、シャープペンを握りしめた。


 ぱきん。


 芯が折れた。


 ぱきん。


 二本目。


 ぱきん。


 三本目。


「綾瀬」


 隣から声をかけられ、茉莉は肩を跳ねさせた。


「……は、はい」

「今日、筆記用具と喧嘩してる?」

「……してない」

「今、三連敗してたけど」

「……戦ってない」

「ならいいけど」


 よくない。


 全然よくない。


「昨日の配信、見た?」

「……見た」


 本人です。


 とは言えない。


「マリー、やっぱすごかったな」

「……うん」

「でも、あいつ少し無理してたかもな」

「……え?」


 茉莉は思わず顔を上げた。


「最後の方、声ちょっと張りすぎてた。あと、救助のあと動きは普通だったけど、息を整える時間が短かった」

「……気づいたの?」

「サポートだからな。気づかないとまずいだろ」

「……そう」


 茉莉は胸の奥が、少し変な感じになった。


 昨日の配信後、確かに疲れていた。


 コメントを見て嬉しくなって、平気な顔をしていたけれど、救助後は少しだけ呼吸が乱れていた。


 それに気づいたのは、たぶん徹だけだ。


(そういうところ……)


 ずるい。


 何がずるいのかは分からない。


「だから次は、休憩をもう少し早めに入れる」

「……マリーに、言うの?」

「言う。聞くかは分からないけど」

「……聞くと思う」

「そうか?」

「……たぶん」


 聞く。


 絶対に聞く。


 徹に「休め」と言われたら、たぶんマリーは少し文句を言いながら休む。


 そして、のど飴を要求する。


 要求する自信がある。


「綾瀬、マリーに詳しいな」

「……配信、見てるから」

「なるほど」


 危なかった。


 茉莉は内心で冷や汗をかいた。


     ◇


 昼休み。


 徹の机の周りは、いつもより賑やかだった。


 弁当を広げた徹の前に、三枝が座る。

 その横に、クラスの女子が二人ほど来た。


「稲垣くん、昨日の配信見たよ」

「どうも」

「すごかったね、救助のとこ」

「俺はほぼ引っ張っただけだけどな」

「でも冷静だったじゃん」

「冷静というか、慌てても荷物は軽くならないから」


 女子が笑った。


「何それ」

「稲垣くんって面白いよね」

「そうか?」

「うん。あと、なんか大人っぽい」


 三枝が横から言う。


「やめとけ。こいつ大人っぽいんじゃなくて、バイトに魂を削られてるだけだから」

「失礼だな。魂はまだ二割くらい残ってる」

「八割削れてるじゃん」

「高校生って大変なんだね」


 女子たちがまた笑う。


 徹も普通に笑っていた。


 その様子を、隣の席で茉莉が見ていた。


(…………)


 徹が女子と話している。


 別におかしくない。


 徹は社交的だ。

 誰とでも普通に話す。

 自分にも普通に挨拶してくれる。


 だから、女子と話していても不思議ではない。


 不思議ではない。


(距離、近くない?)


 いや、普通だ。


 席の周りに集まっているだけだ。


(今、笑った)


 笑うだろう。


 会話をしているのだから。


(……私の時より、よく笑ってない?)


 それは、たぶん、茉莉の会話量が少ないからだ。


 茉莉は自分で自分に説明した。


 説明したが、胸の奥がむずむずする。


 これは何だろう。


 体調不良だろうか。


 昨日の疲労が残っているのかもしれない。


 マリーは無敵だが、綾瀬茉莉は無敵ではない。


「綾瀬さんも昨日の配信見た?」


 急に女子の一人が話しかけてきた。


 茉莉は固まった。


「……み、見た」

「マリー様かっこよかったよね」

「……うん」

「稲垣くんもすごかったよね」

「……うん」


 その「うん」は、少しだけ強かった。


 徹がこちらを見る。


「綾瀬?」

「……なに」

「今ちょっと声大きかった」

「……気のせい」

「そうか」


 徹はそれ以上追及しなかった。


 助かった。


 だが、助かっていない。


 心臓が忙しい。


「稲垣くんってさ、マリー様のことどう思ってるの?」


 女子が何気なく聞いた。


 茉莉の呼吸が止まった。


 やめて。


 聞かないで。


 いや、聞いて。


 でもやめて。


「どうって、すごい人だと思う」

「それだけ?」

「可愛いとは思う」

「おっ」

「でも、恋愛とかそういうのとは違うぞ。画面で見てたスターだし、仕事相手だし」

「真面目ー」

「仕事だからな」


 徹は普通に答えた。


 茉莉は、なぜか少しだけほっとした。


 同時に、少しだけ落ち込んだ。


(恋愛とかそういうのとは違う)


 それは当然だ。


 徹はマリーの正体を知らない。


 昨日今日で恋愛になる方がおかしい。


 徹は誠実だ。


 正しい。


 正しいのに。


(……なんで、ちょっと嫌なんだろう)


 茉莉はおにぎりの包装を開けようとして、逆側から裂いた。


 海苔が死んだ。


「綾瀬、大丈夫か?」

「……大丈夫」

「おにぎり、爆散してるけど」

「……食べれば同じ」

「強い」


 強くない。


 かなり弱い。


 少なくとも今の茉莉は、戦闘力だけなら昼休みの海苔に負けている。


     ◇


 放課後。


 綾瀬茉莉は、いつものように誰よりも早く教室を出た。


 ただし、今日はいつもより足音が硬かった。


 貸しロッカーで白いコートに着替える。


 髪を整え、髪留めをつけ、古びたナイフ――神剣ヴァリアントを腰に差す。


 鏡の前に立つ。


 そこには、教室でおにぎりの海苔を敗北させた女子はいない。


 白いコートを着た《天使》マリーがいた。


「……私に不可能はない」


 声に出す。


 けれど、今日は少しだけ決まりが悪い。


(恋愛とかそういうのとは違う)


 徹の声が頭に残っている。


「……別に」


 マリーは鏡の中の自分に言った。


「別に、そういう話じゃないし」


 そういう話ではない。


 自分は徹を専属サポートとして採用した。

 仕事上の関係だ。

 信頼できる人材だから必要としている。


 それだけだ。


 それだけのはずだ。


 なのに、昼休みに女子と笑っていた徹の顔を思い出すと、なぜか胸のあたりがもやもやする。


「……体調不良ね」


 マリーは結論を出した。


 違う。


 だが、本人はまだ知らない。


 ダンジョンでは無敵でも、恋愛では圧倒的にポンコツであることを。


     ◇


 第一ゲート横のカフェ。


 徹が到着すると、マリーはすでに席についていた。


 白いコート。

 整った髪。

 いつもの堂々とした姿。


 ただし、雰囲気が少し違う。


「遅いわ」


 マリーが言った。


「集合五分前だけど」

「遅いものは遅いわ」

「時計見て?」

「気分の問題よ」

「時間の概念が感情に負けてる」


 徹は向かいに座った。


 マリーは腕を組んでいる。


 不機嫌。


 少なくとも、いつもより機嫌が悪い。


「何かあったか?」

「別に」

「疲れてる?」

「別に」

「喉?」

「別に」

「腹減ってる?」

「別に」

「全部別にで返すのやめないか。会話が詰む」


 マリーはぷいと顔をそらした。


 徹は少し考える。


 昨日の疲労か。

 配信後の反響が大きすぎて気が張っているのか。

 あるいは、学校で何かあったのか。


 正解には、当然たどり着かない。


「とりあえず、これ」

「何?」

「のど飴。はちみつレモン」

「……」


 マリーはちらりと見る。


「いらないのか?」

「……いる」


 受け取った。


 機嫌は悪いが、のど飴は受け取る。


 徹は少し安心した。


 まだ大丈夫そうだ。


「今日は配信なしだよな?」

「ええ。装備の買い出しと打ち合わせ」

「正式採用されたし、必要な物を揃える感じか」

「そうよ。あなた、今の装備だと危なっかしいもの」

「俺、戦わないぞ」

「戦わなくても危ないの。昨日も前に出たでしょう」

「あれは救助」

「救助でも危ない」


 マリーはじっと徹を見る。


「あなた、自分の危険を軽く見すぎ」

「そうか?」

「そうよ」

「でも、できる範囲でしかやってない」

「その“できる範囲”が広いのが問題なの」


 徹は少し驚いた。


 思ったより真面目な声音だったからだ。


 マリーは視線を落とす。


「私は前に出る。戦えるから。強いから。でも、あなたは違う」

「まあ、能力ないしな」

「だから、装備を整える」


 マリーは端末を出した。


 表示されたリストには、防刃ジャケット、軽量ブーツ、予備通信機、救助用ベルト、耐毒手袋などが並んでいる。


「結構あるな」

「当然でしょ。私のサポートなんだから」

「のど飴係じゃなくて?」

「それも含む」

「含まれた」

「重要任務よ」


 少しだけ、いつもの調子に戻った。


 徹は笑った。


「分かった。買い出し付き合う」

「付き合うんじゃないわ。あなたの装備よ」

「予算は?」

「私が出す」

「いや、それは悪い」

「必要経費」

「でも高いだろ」

「私の配信収益をなめないで」

「強い」

「強いのよ」


 マリーは胸を張った。


 その顔は、やはり《天使》マリーだった。


 堂々としていて、自信満々で、少し偉そう。


 でも、徹を危険に晒したくないという気持ちは、ちゃんと本物だった。


「じゃあ、せめて後で報酬から少しずつ引いてくれ」

「面倒ね」

「仕事の契約はきっちりした方がいい」

「本当にサポート向きね」

「よく言われる」

「私に」

「主にマリーに」


 マリーは少し笑った。


 機嫌は、だいぶ戻っている。


 徹はそう判断した。


 ただし、なぜ機嫌が悪かったのかは分からない。


 まあ、分からないこともある。


 人には事情があるのだ。


     ◇


 装備店へ向かう途中、二人は第一ゲート前の大型ビジョンの下を通った。


 画面には、昨日の切り抜きが流れていた。


『私のサポートに、触るんじゃないわよ』


 白い光が走り、鎧虫が消し飛ぶ。


 コメント欄の再現エフェクトが画面を埋める。


『言ったああああ!』

『私のサポート!』

『公式!』

『トオルくんそこ代われ』


 マリーの足が止まった。


 徹も止まる。


「すごい再生数だな」

「……そうね」

「この場面、人気なんだな」

「……そうみたいね」

「マリー、かっこよかったもんな」

「……」


 マリーは少しだけ顔をそらした。


「当然でしょ」

「でも、あれ言うのちょっと恥ずかしくないか?」

「なっ」


 マリーの肩が跳ねた。


「は、恥ずかしくないわよ。事実を言っただけだもの」

「俺、マリーのサポートだしな」

「そうよ」

「仕事上の」

「……そうよ」


 なぜか少し声が小さくなった。


 徹は首を傾げる。


「やっぱ疲れてる?」

「疲れてない」

「ならいいけど」

「よくない」

「どっちだ」


 マリーは歩き出した。


 白いコートの裾が揺れる。


「今日は、ちゃんとした装備を買うわ」

「はいはい」

「あと、のど飴も買う」

「俺の装備より真剣に選びそうだな」

「喉は命よ」

「はいはい、天使様」

「分かってるじゃない」


 マリーは少しだけ得意げに笑った。


 その横顔を見て、徹は思う。


 やっぱり、可愛いところはある。


 でも、それは恋愛というより、仕事相手の意外な一面を見た時の感覚に近かった。


 装備店の自動ドアが開いた。


 店内に入った瞬間だった。


「あっ……!」


 受付の女性が目を見開いた。


「マリー様!」


 その一声で、店内の空気が変わる。


「え?」

「本物?」

「天使だ……」


 装備を見ていた攻略者たちが、一斉に振り返る。


 奥から店長らしい中年男性が慌てて飛び出してきた。


「マリー様! お待ちしておりました!」


 深々と頭を下げる。


 周囲の客がざわつく。


「店長が頭下げたぞ」

「やっぱ別格なんだ……」

「サインもらえるかな」

「空気読め。今仕事中だろ」


 そんな声が聞こえる。


 徹は少しだけ引いた。


(思ったよりすごい人だった)


 いや。


 知ってはいた。


 配信登録者数は何百万。

 切り抜きは毎日ランキング入り。

 駅前の大型ビジョンにも映る。


 でも。


 実際に目の前で見ると、想像以上だった。


 マリーはそんな視線など気にした様子もなく、店長へ歩み寄る。


「届いた?」


「はい!」


 店長は、まるで宝物でも扱うように、黒い金属ケースを両手で持ってきた。


 テーブルへ静かに置く。


「こちらになります」


 ごとり。


 鈍い音が響く。


 徹が首を傾げた。


「これって?」


 マリーは当然のように答えた。


「あなたの装備よ」


「俺?」


「専属サポート用」


 徹はケースを見る。


「サポートって専用装備あるのか?」


 その問いに答えたのは店長だった。


「ございます。ですが――」


 一拍置く。


「一般には流通しません」


「え?」


「一流攻略者ほど、絶対に手放さない装備です」


 店内が静かになる。


 一人の攻略者が、小さく呟いた。


「……あれか」

「まさか」

「サポート装備?」


 別の攻略者が息を呑む。


「嘘だろ」

「あれを使わせるのか?」


 徹だけが話についていけない。


「そんなにすごいのか?」


 店長はゆっくり頷いた。


「攻略者は強いだけでも務まります。ですが」


 店長の声が、静かに響いた。


「最高の攻略者は、最高のサポートがいて初めて完成します」


 誰もがケースを見つめている。


 店長は少しだけ笑った。


「そして、この装備を注文されたのは、日本でただ一人」


 徹は思わずマリーを見た。


 マリーは胸を張る。


「当然でしょう」


 それだけ言って、ふっと笑った。


「私のサポートなんだから」


 その一言に、店内の攻略者たちが一斉に徹を見る。


「……」

「……」

「……」


 その視線だけで分かった。


 これは、とんでもないことらしい。


 徹は苦笑した。


「……急に緊張してきた」


 マリーはくすりと笑う。


「安心しなさい」


 そう言って。


 ケースの留め具に手を掛ける。


「私が選んだんだから」


 カチリ。


 静かな音が店内に響く。


 ゆっくりと蓋が開き――


 徹の目が、大きく見開かれた。


「…………え?」

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