第四話 氷の掌
どんよりとした曇り空の下、永田町の一角にそびえ立つ海攻会館。
灰色のコンクリートパネルが規則正しく並び、無機質な水平のラインを描くその外観は、まるで意思を持たない巨大な要塞のようだった。階層ごとに設けられた直線的なバルコニーと、右手に併設された茶色い無骨な非常階段が、人を寄せ付けない雰囲気を醸し出している。
その重厚なエントランスを抜け、伊丹は震える足を引きずりながら二階へと上がった。
エレベーターを使わなかったのは、誰かと乗り合わせるわずかな時間すら恐ろしかったからだ。額に浮かんだ脂汗を手の甲で拭い、廊下の最奥にある分厚い木製の扉の前に立つ。表札はない。しかし、ここが石橋の個人事務所であることは、政界の底辺を這う伊丹でさえ知っていた。
扉の手前には、番犬のごとく隙のないダークスーツに身を包んだ男が立ちはだかっていた。石橋の秘書である。
「お約束でしょうか」
氷のような声音で制止された伊丹は、しかし引き下がらなかった。血走った両目を見開き、荒い息を吐きながら男を睨み返す。全身から発散されるすえた汗の臭いと、文字通り死に物狂いの獣が放つ異様な熱気。
ただの陳情客ではない。ここで追い返したら、この男は自暴自棄になって何を仕出かすか分からない——破滅の縁に立つ人間の狂気を嗅ぎ取った秘書は、わずかに眉間を寄せ、警戒を解かぬままインカムに手を当てた。そして、扉の奥に君臨する絶対的な主へ、声を潜めて指示を仰いだ。
数秒の、伊丹にとっては永遠にも似た沈黙の後。秘書は小さく頷き、無言で一歩下がって重厚な扉を開け放った。
静かに押し開けられた扉の奥へ足を踏み入れた瞬間、伊丹は自身の場違いな感覚に息を呑んだ。
個人の事務所としては、あまりにも広大すぎる空間だった。床には分厚い絨毯が敷き詰められており、伊丹の荒々しい足音を完全に吸収してしまう。
だが、部屋の異様さはその広さだけではなかった。
冷ややかな威圧感を放つマホガニーの重厚なサイドボードの上には、地元群馬県・富岡製糸場の精巧なミニチュア模型が鎮座し、その隣には巨大な八ッ場ダムのジオラマがライトアップされて置かれている。
さらに、来客用の黒革の高級ソファには、こんにゃくをモチーフにしたゆるキャラ『にゃくっち』と、下仁田ネギの『ねぎ坊』のぬいぐるみが、無造作に、しかし特等席を占めるように並んでいた。
権力の最高峰に君臨する男の部屋に同居する、その不気味なほどの郷土への執着。圧倒的なスケールの空間に置かれた玩具たちが、部屋の主の底知れぬ狂気を静かに物語っていた。
窓際に置かれた巨大なデスク。背を向けていた革張りの回転椅子がゆっくりと回った。手には湯呑みが握られている。
「い、石橋先生……ッ」
伊丹は膝から崩れ落ちるように絨毯の上に手をついた。
「助けてください。俺は……官邸に、洗井に殺されます。戸頃さんのように、消されるんです……!」
石橋の表情は動かず、這いつくばる伊丹を昆虫でも観察するように見下ろしている。
「君は確か……洗井くんのところの伊丹くんだね。君の命の価値が、どれほどのものであるか。……それを証明するものは持ってきたんだろうな」
伊丹は弾かれたように顔を上げ、スーツの内ポケットから黒いUSBメモリを取り出した。
「これです……! ウチの陣営が、過去の選挙で首長や地方議員にばら撒いた実弾の完全なリストです。配布先、金額、すべて記録されています。これをお渡ししますから……どうか、私の命を保証してくださいッ!」
石橋はゆっくりと立ち上がり、伊丹の目の前まで歩み寄った。そして、差し出されたUSBメモリを無造作に二本の指で摘み上げる。
石橋は一言も発しなかった。背後の控え室へ視線を向けることすらしない。だが、奥の扉が音もなく開き、秘書が影のように滑り出てきた。長年この男に仕えてきた秘書は、主人のわずかな間と呼吸の変化だけで、次になすべきことを完全に理解していた。
石橋が傍らに無言で手を差し出すと、秘書はその指先から黒いプラスチック片を恭しく受け取り、デスクの端に置かれたノートパソコンのポートへと静かに挿入した。
数回の無機質なクリック音が響き、広大な部屋に短い緊張が走る。やがて液晶画面に詳細なデータが表示されると、秘書は短く頷いた。
石橋はモニターの青白い光に照らされた数字と名前の羅列を一瞥し、満足げに口角をわずかに上げた。
「……愚かなことだ」
石橋の静かな声が、再び伊丹を見下ろして響く。
「沈みゆく泥船の底に穴を開け、その木片にしがみついて助かろうとする。だがね、伊丹くん。その浅ましい生存本能こそ、私が最も好むものだ」
石橋はデスクの引き出しを開け、あらかじめ用意されていたかのような無地の茶封筒を取り出し、伊丹の足元に投げ落とした。
「中身は当面の資金と、明日のシンガポール行きの航空券だ。手配した人間に空港で接触しろ。……二度と、日本の土を踏むな」
「あ、ありがとうございます……! ありがとうございます……ッ!」
伊丹は封筒を掻き抱くようにして拾い上げ、何度も頭を床にこすりつけると、逃げるように部屋から転がり出ていった。
扉が閉まり、再び完全な静寂が戻る。
石橋は『ねぎ坊』のぬいぐるみが置かれたソファに腰を下ろし、まだ画面の開かれているパソコンを一瞥して秘書に命じた。
「月島へ連絡しろ。極上の特ダネだ」
「承知いたしました。そのままデータを渡しますか?」
「いや。少しばかり『味付け』をして流せ」
石橋は、湯呑みの残りを一息に飲み干し、冷たい笑みを浮かべた。
「ただの買収リストとして公表するだけでは、洗井は『秘書が勝手にやった』とトカゲの尻尾切りに走るだろう。だから、こう噂を添えるんだ」
秘書が黙って耳を傾ける。
「『洗井は、金で寝返った地元の議員たちを最初から信用していなかった。だからこそ、彼らの弱みを握り、将来にわたって絶対的な服従を強いるための脅迫材料として、この精緻なリストを自ら作成し、金庫に隠し持っていた』……とな」
秘書の目がわずかに見開かれた。
「なるほど……。選挙戦で身を粉にした身内に対し、総理自らが最初から刃を突きつけていた、と。……その噂が広がれば、金を受け取った議員たちは保身のために一斉に総理を告発し始めます。党の土台そのものが総理に牙を剥くことになりますね」
「そういうことだ。野党の追及など痛くも痒くもない。政治家を最も確実に殺すのは、『身内の反乱』だ」
「洗井の足元の梯子は、彼自身の傲慢さによって外される。……さて、彼がどこまで無様に転げ落ちるか、高みの見物といこう」
窓の外では、雨が降り始めようとしていた。
冷え切った石橋の掌の中で、国家のトップを破滅に導く小さな雷管が、静かにその時を待っていた。
その日の深夜。日付が翌日へと切り替わった直後の午前零時過ぎ。毎朝新聞本社、政治部フロア。
輪転機が回り始める直前の、特有の焦燥とインクの匂いが漂う空間の片隅で、月島は自身のデスクのパソコンモニターを無表情で見つめていた。画面には、数時間後に日本中を震撼させるであろう一面トップ記事のゲラが映し出されている。
『洗井総理、身内への買収リストを自ら作成・保管か——裏切りの恐怖、脅迫目的の疑い』
その見出しは、単なるスキャンダル報道の域を超え、一人の政治家の人間性を根底から破壊する刃として研ぎ澄まされていた。
「三日月……じゃなかった、月島デスク、お呼びですか」
フロアにやってきた八村が、怪訝な顔で月島の傍らに立った。
月島は視線をモニターに向けたまま、プリントアウトしたゲラの一枚を八村の胸に押し付けた。
「明日の朝刊の一面よ。あなたの名前で出す。洗井内閣はこれで終わる」
八村は受け取った紙面に目を落とし、数秒後、その端を握る手にぐっと力を込めた。特ダネを手にした記者の歓喜ではない。背筋に氷をねじ込まれたような、本能的な悪寒だった。
「……これは、あの水戸の第二秘書が持ち出したというデータですか」
「そうよ」
「おかしい。なぜ『総理が身内を脅迫するために自ら作成した』などという論調になっているんですか。秘書が保身のためにコピーしたデータを、総理自身の悪意にすり替えている。……この記事の出所は、石橋ですね」
八村の声が一段低くなった。
「総理を、身内の反乱で自滅させるためのリークだ。こんなものはスクープじゃない。権力者の盤上で行われる、ただの公開処刑への加担です」
月島はゆっくりと椅子を回転させ、冷え切った目で八村を見上げた。
「八村くん。私たちは正義の味方でも、思想家でもない。ただの『新聞記者』よ」
月島はデスクの上に置かれた赤いボールペンを指先で弾いた。
「買収リストが存在する。総理の陣営が裏金を配った。それは揺るぎない事実でしょう。新聞記者の仕事は、その事実を活字にして世に問うこと。その過程で誰がどんな思惑を持っていようが、記事になれば真実の一部になるの」
「……戸頃秘書官の死が、この騒ぎの陰で完全に隠蔽されてもですか」
八村の鋭い指摘に、月島の目がわずかに細められた。だが、彼女の表情が崩れることはなかった。
「輪転機はもう止まらないわ。行きなさい」
八村はゲラを握り潰すように丸めると、無言でフロアを後にした。窓の外では、東京の街が白々と夜明けを迎えようとしていた。
午前八時。首相官邸、総理執務室。
分厚い絨毯の上に、叩きつけられた毎朝新聞の朝刊が無残に散らばっていた。
「でっち上げだ!! 誰がこんな記事を書かせた!!」
洗井の怒声が、防音性の高い室内で虚しく反響した。彼の顔からは急速に血の気が失せ、皮膚の下の血管がすべて収縮しきったような、無惨に淀んだ色に沈んでいた。額からは脂汗が滝のように流れ落ちていた。
「私はリストなど作っていない! 御手洗や伊丹が、元はといえば指宿が勝手にやったことだ! なぜ私が、身内を脅迫するために裏帳簿を作ったことになっているんだ!!」
洗井は、国家のトップが座るにふさわしい艶光りする重厚な黒檀の執務机を、両手で力任せに叩きながら、部屋の片隅に控える小柳を睨みつけた。
「二十八号!今すぐ毎朝新聞に抗議しろ! 名誉毀損で訴えてやる!」
小柳は中指で眼鏡の位置を直し、感情の一切こもらない声で答えた。
「すでに対応を検討中ですが、記事には裏付けとなる詳細なデータの一部が掲載されています。事実無根と突っぱねるのは困難かと」
「勝利は我が手の中にあるんじゃなかったのか!」
「……また先ほどから、党内の各派閥から確認の電話が殺到しております。一部の県連からは、すでに総裁選の前倒しを求める声が上がっています」
「馬鹿な……!」
洗井はよろめきながら、窓際のソファに倒れ込んだ。
その時、執務室のドアが開き、阿田と古井が無言で入室してきた。
阿田は床に散らばる新聞を一瞥し、忌々しそうに舌打ちをした。
「リストは本物だ、洗井。……伊丹を取り逃がしたことで、相手に最高のカードを渡してしまったな」
「真山、お前の手回しが遅いからだ!」
「真山じゃない、阿田だ」
阿田の目は、すでに路傍の死骸を見るような冷たさを帯びていた。
「もはや誰がデータを作ったかは問題じゃない。この記事が出た以上、金を受け取った連中は『総理に弱みを握られている』という疑心暗鬼に陥る。保身のために、彼らは一斉に君を売り飛ばすだろう。君の足元は、もう完全に腐り落ちているんだよ」
洗井の唇が小刻みに震え始めた。
いくら同郷の茨城県筑西市(旧協和町)出身、且つ中高・大学の同級生とはいえ、阿田はこれまで、現職総理である洗井に対しては一線を引き、二人きりの時を除いては常に敬語を用いて接してきた。その阿田が、今、完全に言葉を崩している。それはつまり、国家の裏の治安機構を牛耳るこの男が、洗井という神輿を完全に見限ったという冷酷な事実を突きつけていた。
時を同じくして、永田町の政友党本部。
重厚な静寂に包まれた事務局長室の革張りソファで、指宿は向かいに座る檜山に淹れたてのブラックコーヒーを勧めていた。二人は新潟県麻阿園市出身、与者高校時代の同級生である。朝八時の党本部は、官邸の騒ぎが嘘のように静まり返っていた。
「……見事な手際だな。石橋は本当に恐ろしい絵を描く」
指宿が、立ち上る湯気越しに呟いた。
檜山はコーヒーカップを手に取り、目尻の皺を深くして、いつものように人の良さそうな笑みを浮かべた。
「これで洗井内閣は完全にジ・エンドだね。リストが世に出た以上、地方議員の反乱は止められない。党内も各県連も騒ぎ出すだろう。党そのものが火ダルマになる前に、洗井には早々に腹を切ってもらわないと」
檜山の言葉には、仮にも自分の上司である洗井に対する微塵の敬意も未練もなかった。
「トカゲの尻尾切りか」
「そうさ。“最高権力者”という大層な看板も、党という巨大な生き物を延命させるための、極上の『尻尾』にすぎないってことさ。阿田君たちもこれ以上は動けないだろうしね。♪お世話になりました〜……」
檜山は香りの強いコーヒーを一口すすり、満足そうに喉を鳴らした。永田町という巨大な生き物は、不要になった細胞をこうして無情に切り捨てていくのだ。
参議院議員会館、天馬事務所。
ジリリリリリリ……! ジリリリリリリ……!
ひっきりなしに鳴り響く電話のベルが、室内の空気を刃物のように切り裂いていた。
桂東はデスクの前に座ったまま、両手で耳を塞ぐようにして震えていた。いつもなら、ベルが一度鳴り終わる前に受話器を取る彼女の「テシテシ」という陽気な笑い声は、もう何日も聞いていない。
同期だった戸頃の「声」——死の直前の絶望的な叫びが、受話器の向こうに潜んでいるような気がして、彼女は電話に出ることができなくなっていた。
「桂東さん、少し休んでいて」
事務所の主である天馬が代わりに受話器を取り、電話をさばいていく。問い合わせの大半は、朝刊の買収リスト報道に関する地元からの確認や抗議だった。
ガチャリとドアが開き、八村が足早に入ってきた。
「天馬さん、見ましたか。今朝の記事。あの記事の仕掛け人は石橋です。洗井を身内の反乱で自滅させるための、完璧に計算されたリークだ」
天馬は受話器を置き、静かに八村を見つめた。
「石橋が、あのデータを……」
「ええ。このままいけば、洗井は数日以内に辞任に追い込まれるでしょう。石橋の描いたシナリオ通り、誰も傷つかず、党のダメージも最小限に抑えられて、総理のクビだけがすげ替わる」
八村の言葉に、デスクの前で頭を抱えていた桂東が、弾かれたように顔を上げた。
「待って……。洗井が裏金問題で辞めるなら、戸頃くんのことは? 戸頃くんがスキャンダルの濡れ衣を着せられて殺されたことは、どうなるの!?」
桂東の悲痛な叫びが、部屋に響き渡った。
八村は奥歯を強く噛み締め、視線を床に落とした。
「……買収スキャンダルの影に隠れて、有耶無耶にされるでしょう。公式には『過労による休養中の行方不明』のまま、永遠に」
それが、石橋の用意した「完璧な盤上」の真の恐ろしさだった。権力の頂点に立つ者の首を平和裏にすげ替えるため、一人の秘書の命が「必要経費」として処理されようとしているのだ。
天馬は、自身のジャケットの襟元で鈍い光を放つ金色の議員バッジにそっと指先を触れた。
国民の負託を受けた証であるその小さな金属の重みが、今は戸頃という一人の人間の命の重さとして、彼女の胸にのしかかっていた。
アニメ『ピュアラブ政治家』の主人公ヒカリなら、こんな時どうするか。いや、違う。これはアニメではない。血の通った人間が理不尽に殺され、その死さえも政治の道具として消費されようとしている現実だ。
「……石橋が用意したレールには乗りません」
天馬の口から出た言葉は、静かだが、芯に鋼のような強さを秘めていた。
八村がハッとして顔を上げる。
「天馬さん、まさか」
「明日、予算委員会で質問に立つ予定なの。持ち時間は三十分。そこで……戸頃秘書官の行方不明と、官邸の関与について、直接総理を追及します」
「馬鹿な!」八村が声を荒らげた。「そんなことをして、大丈夫なんですか。」
「それでも」
天馬は桂東の震える肩をそっと抱き、まっすぐに八村の目を見た。
「戸頃さんの命を、ただの『木片』として燃え尽きさせるわけにはいきません。私が政治家になったのは、誰かの描いたシナリオで踊るためじゃない。……私の信じる正義のやり方で、洗井総理の首を獲ります。そしてその後ろにいる石橋の首も……」
その決断からわずか一時間後。
天馬の携帯電話が鳴った。ディスプレイに表示されたのは、非通知。しかし天馬には、それが誰からの呼び出しか直感で理解できた。
再び、曇天の下の海攻会館。二階の広大な個人事務所。
天馬が足を踏み入れると、石橋は相変わらず部屋の奥のデスクに座り、巨大な八ッ場ダムのジオラマを見つめていた。水面を模した青いアクリル板に、LEDの冷たい光が反射している。
「天馬ちゃん。君が明日の予算委員会の質問通告を差し替えたと聞いてね」
石橋は振り返ることなく、穏やかな声で口を開いた。
「『戸頃秘書官の失踪に関する官邸の関与について』……。随分と、物騒なテーマじゃないか」
天馬は絨毯の上にしっかりと両足をつけ、背筋を伸ばして応えた。
「事実を確認するためです。国権の最高機関として、当然の責務だと考えています」
石橋がゆっくりと回転椅子を回し、天馬と正面から向き合った。その眼光には、微かな失望のような色が混じっていた。
「余計な火遊びはやめなさい。あの砂上の楼閣は、もう明日にも自重で崩れ落ちる。わざわざ君が泥をかぶって火の中に飛び込む必要はない。君は黙って、私が用意した新しい総理の下で、綺麗な政治家として咲いていればいいんだよ」
それは、強烈な威圧感を持った「命令」だった。石橋という太陽の周りを回る惑星でいれば、安全と地位を保証するという悪魔の契約。
しかし、天馬の目は決して逸らされなかった。
「お断りします。……洗井総理を失脚させるだけのゲームに、戸頃さんの命を消費させない」
天馬の言葉は、氷の張り詰めた湖面を割るような鋭さを持っていた。
「誰も傷つかない、綺麗な政治なんてありません。誰かが血を流したのなら、その責任は、光の当たる場所で裁かれるべきです。私は、私の信じる正義を貫きます」
天馬は深く一礼すると、一切の迷いを見せず、自らの意志でその重厚な扉を開け、部屋を出ていった。
一人残された広大な事務所。
完全な静寂の中、石橋は怒ることも、狼狽えることもなかった。ただ、口角をわずかに持ち上げ、喉の奥で低く笑った。
「……良識の府、か」
石橋は立ち上がり、来客用のソファへと歩み寄った。そして、特等席に鎮座する下仁田ネギのゆるキャラ『ねぎ坊』のぬいぐるみの頭を、長い指先でピンと弾いた。
「だがね、天馬ちゃん。無菌室の正義では、国家という巨大な船は動かせないんだよ」
ジオラマのライトアップが、永田町の闇を吸って生き長らえてきた老獪な男の顔に深い影を落としていた。
翌早朝、茨城県水戸市。
銀杏坂の洗井事務所では、御手洗が誰もいない薄暗い部屋で一人、火のついていないタバコをくわえていた。
電話線はすでに引き抜かれている。外には、連日の報道に群がるマスコミのフラッシュがチカチカと不気味な光を放っていた。
御手洗は、自身のスマートフォンに表示された「伊丹」の連絡先を見つめ、静かに削除ボタンを押した。
(終わったな……。俺たちの政治は、ここで)
すべてを悟った男の顔には、もはや絶望すら残っていなかった。
午前八時三十分。国会議事堂。
抜けるような青空の下、白亜の殿堂が朝日を浴びて厳かにそびえ立っている。
天馬は、胸に議員バッジを光らせ、大理石の廊下をまっすぐに歩いていた。その表情には、かつての「アニメに憧れる新人議員」の面影はない。一つの死を背負い、巨大な権力機構に単身で挑む、覚悟を決めた政治家の顔があった。
少し離れた後方から、桂東と八村が、祈るような目で見守っている。
第一委員会室の重厚な扉が、天馬の前に立ちはだかる。
最強の権力者が敷いた、完璧な盤上。そこへ自ら捨て駒となるべく飛び込むという行為が、どれほど無謀なことか、彼女自身が一番よく理解していた。彼女が放つ一石は、永田町という底なしの泥沼に波紋を呼ぶのか。それとも、ドンが支配する暗闇に、音もなく飲み込まれて終わるのか。
天馬は一度だけ深く深呼吸をし、冷たい金属の取っ手に手をかけた。
扉が押し開かれた瞬間、無数のフラッシュの瞬きと、怒号のような喧騒が、若き女性議員の全身を完全に飲み込んでいった。




