第三話 記者の眼
深夜の毎朝新聞社。首都の眠りとは無縁の不夜城にあって、時刻はすでに午前二時を回っていた。
蛍光灯が等間隔で冷たい白光を落とす中、終電や深夜のハイヤーを捕まえるべく足早に退社していく記者たちの足音が、すり減ったリノリウムの床に無機質に反響していた。日中の怒号や電話のベルが飛び交う喧騒が嘘のように静まり返った政治部フロアには、今や紙屑と古びたインクの乾いた匂い、そして終わりのない権力闘争の観測に付き合わされる者たち特有の、泥のように濃密な疲労感だけが沈殿している。
そんな虚無的な静寂の中、フロアの片隅にある島で、若手記者の八村はただ一人、充血しきった血走った目でパソコンのモニターを凄絶なまでに睨みつけていた。
デスクの月島久里子は、深夜の当直室で淹れたばかりの安っぽいブラックコーヒーが入った紙コップを二つ持ち、キーボードを叩く乾いた、しかし異様なほど切迫した音だけが響く島へと、足音を忍ばせて歩み寄った。
「八村くん、少し休んだら? コーヒー、淹れてきたわよ。いくら特ダネの匂いがするからって、そんなに根を詰めすぎたら、記事を書き上げる前にあなたが倒れちゃうわ」
月島がそっと紙コップをデスクの端に置くと、八村は弾かれたように顔を上げた。その眼窩は深くくぼみ、無精髭が顎を覆っていたが、新聞記者としたて抑えきれない業火がギラギラと燃え盛っていた。
「三日月……じゃなかった、月島デスク……! ありがとうございます、でも、休んでいる場合じゃありません。戸頃政務秘書官の行方不明の件です」
八村は、周囲に誰もいないことを確認してから、ひどく興奮した様子で声を潜め、前傾姿勢になった。
「官邸は『度重なる激務と体調不良による休養』などと白々しく発表していますが、これは単なる失踪なんかじゃない。僕が追っている総理の地元での大規模な現金配布事件……あの裏金工作の首謀者に仕立て上げられ、官邸の口封じのために“消された”可能性が極めて高いです。僕の独自ルート、戸頃の関係者の皆さんはの証言でも、彼が失踪直前まで何者かの影に怯え、極度の恐怖に錯乱状態に陥っていたという裏が取れました。彼は『殺される』と口走っていたそうです。この線で紙面を大々的に割けば、洗井政権の根幹を根底から揺るがす、戦後最大級の特大スクープになります!」
月島の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、鋭利な刃物のような冷ややかな光が走った。しかし彼女はすぐさま、若き記者の純粋な熱意と正義感を、まるで成長を喜ぶ我が子を見るような、限りなく温かい慈愛の眼差しで受け止めてみせた。
「あなたのその真実を追求する執念、毎朝新聞の記者として、本当に頼もしいわ」
「じゃあ、この原稿で……! 明日の朝刊、一面トップを差し替えましょう!」
八村は椅子から身を乗り出し、プリントアウトしたばかりの熱を帯びたA4用紙の束を突き出した。
「でもね、八村くん」
月島の声は、残酷なほど優しく、そして絶対的な説得力を持っていた。
「遺体も上がっていない、確たる物証もない、関係者の証言も匿名にとどまっている今の段階で、政権中枢による『暗殺』や『拉致』を匂わせるような扇情的な記事は絶対に出せない。それは毎朝新聞の、報道機関としての品位と信用に深く関わる問題よ。もし官邸から名誉毀損で訴えられ、反証されたら、新聞社が吹き飛ぶわ。巨大な権力の闇を暴くには、まず私たちが誰よりも冷徹で、冷静でなければならない。記事は一旦、責任を持って私が預かるわね」
月島は完璧に作り上げられた優しく理性的な微笑みを浮かべながら、八村の震える手からプリントアウトした原稿を静かに、しかし力強く抜き取った。
八村は悔しそうに唇を噛み締め、何かを言いかけたが、反論する言葉を見つけられず、「……分かりました。僕が焦りすぎました。引き続き、決定的な証拠を探します」と渋々頷き、力なく自席の椅子へと背中を預けた。
その後ろ姿を見送った瞬間、月島の表情からスッと一切の温度が消え去った。温厚な上司の仮面が剥がれ落ち、そこには永田町の泥水で幾度も手を汚してきた、冷酷な政治部デスクの素顔が現れた。
月島は周囲の気配を殺し、手元のデスクの鍵付き引き出しをわずかに開ける。
そこには、乱雑に押し込まれた取材ノートや資料の束の奥に、現政権の影の支配者たる石橋の秘書から定期的に、そして秘密裏に渡される分厚い茶封筒——官房機密費という名の、マスコミを手懐けるための莫大な「飴」が、圧倒的な質量を持って鎮座していた。
戸頃が「死んだ」ことなど、月島はとうの昔に知っている。彼がどこで、誰の手によって、どのように処理されたかさえ、大体の想像はついている。
新聞というメディアは正義の味方ではない。時には政権与党である政友党に擦り寄って正義を気取り、ある時はガス抜きのように計算され尽くした軽微な批判記事を載せて大衆の不満を逸らす。すべては石橋が描いた、盤上の冷酷なシナリオ通りに動いているのだ。
(あなたの記者としての情熱は眩しいけれど、八村くん。あなた一人の正義感で、この国の根深く腐敗したシステムには絶対に勝てないわ。……無駄死にする前に、私が芽を摘んであげているのよ。悪く思わないでね)
月島は冷たい、自嘲気味な笑みを浮かべ、八村が徹夜で書き上げた血の滲むような渾身の原稿を、一切の躊躇なく、無造作に大型シュレッダーの吸い込み口へと放り込んだ。鋭い刃が紙を切り刻む甲高い音が、深夜のフロアに空しく響き渡った。
同日、午前九時。日本の最高権力の中枢、首相官邸の総理執務室。
窓から差し込む朝の光の中、洗井は、数日ぶりに肩にのしかかっていた重い鉛の荷が下りたような、清々しく晴れやかな顔で、イタリア製の最高級シルクのネクタイを締め直していた。
長らく自分のすぐ横に立ち、洗井の怒号を浴びるたびに小刻みに震え、鬱陶しい脂汗を滝のように流していた無能な部下——戸頃の姿は、もうこの執務室のどこにもない。
茨城での選挙買収。その裏金工作の実行犯として、洗井は激しいパワハラの末に、戸頃にすべての泥を被せた。そして最後は、トカゲの尻尾として見事に、かつ物理的に切り捨ててやったのだ。野党が国会でどれだけ声を枯らして騒ごうが、マスコミが疑惑を書き立てようが、死人に口なしである。戸頃がこの世から消滅した以上、洗井へと繋がる導火線は完全に断ち切られた。
「総理、出発の時刻となりました」
戸頃の死により、急遽、政務担当秘書官を兼任することになった首事務秘書官の小柳が、一切の感情を排した、機械のように正確で無機質な声で告げた。小柳の冷ややかな切れ長の目には、前任者の不幸に対する同情など微塵も存在しない。
「ああ。ここからは、私のための華麗なる外交の舞台だ。国民に、強いリーダーシップを見せつけてやらねばな」
洗井は上機嫌で革張りの椅子から立ち上がり、スーツの皺を伸ばした。
官邸の正面車寄せには、周囲の空気を圧迫するような威圧感を放つ、黒塗りの巨大な車体が静かに待機していた。
内閣総理大臣専用車、トヨタ・センチュリーUWG60型。5.0リッターV8エンジンとモーターを組み合わせたハイブリッドシステムは、アイドリング中であることを全く感じさせないほどに無音である。職人の手による漆黒の塗装は鏡のように周囲の景色を反射し、重さ数十キロにも及ぶ特殊防弾・防爆ガラスのドアが、要塞の門のような重厚な音を立てて洗井と小柳の身体を呑み込んだ。
ナンバープレートは『品川 963 か ・311』。
「これより本隊、出発する」
SPの胸元に付けられた無線機から、警護官の無機質で緊張感に満ちた声が飛ぶ。車列のフォーメーションは、針の穴を通すような完璧な計算によって構築されていた。
露払いとして白黒のパトカーがサイレンを鳴らさずに先行し、その後ろに警視庁警備部警護課の精鋭が乗る覆面パトカーであるレクサスLS600hが、猛禽類のように鋭く張り付く。そして総理車の後方には、後部からの自爆テロや追突を防ぐための、文字通り強靭な動く壁として、ランドクルーザー200系の重装甲覆面車両がピタリと追従した。
ルーフに展開された赤色灯の強烈な反射が、小雨に濡れたフロントガラスを舐めるように照らす。車列が進むルート上の信号は、警視庁の交通管制センターによってすべて青に強制操作され、交差点には制服警官が等間隔で立ち塞がり、一般車両や歩行者を完全に排除している。車間距離を1メートルたりとも狂わせることなく、巨大な鉄の塊たちは無滑走のまま、一定の恐るべき速度で、目的地である赤坂方面へと滑るように流れていった。
赤坂・迎賓館赤坂離宮。
クリスタルシャンデリアの眩い光の下、洗井はバカラのグラスを手に、国賓として来日した赤道スンガイ共和国の『建国の母』スンガイ=キンと向き合っていた。
両国の関係強化をアピールするための、予定調和の会談。しかし、随行員たちが少し離れた場所で歓談を始めたとき、キンはふと声を落とした。
「洗井総理とこうして表舞台でお会いするのは、初めてになりますね」
「ええ。あなたが赤道スンガイ共和国であれほどの地位を築かれるとは、想像もしておりませんでした」
洗井は作り笑いを浮かべたまま答えた。二人が会うのは初めてではない。外務省が用意した資料には記されていないが、洗井はキンの過去を知っていた。
「すべては、かつて日本で得た学びのおかげです」キンは静かに微笑んだ。「私の双子の姉、澄子が残した教訓が生きているのですよ」
洗井の眉が微かに動いた。
「『母の泉』……ですか。残念なことでした。かつて私の地元、茨城の山奥で彼女が築き上げたものは」
「ええ。姉は、人の抱える業や罪を見抜く目を持っていました。ですが、その力は時に悪事に利用され、最後は無惨に潰された」
キンの黒い瞳が、真っ直ぐに洗井を射抜いた。洗井はグラスを握る手に力を込めた。
「総理」キンはさらに声を低くした。「私にも、姉と同じ力があるようです。あなたの背後には、ひどく濁った暗い水が見えます。……冷たく、不気味に淀んだ水。まるで、誰にも助けを求められず、絶望の中で息絶えた人間の……無念が混ざり合ったような、強烈な死臭がします」
洗井の呼吸が止まった。
脳裏に浮かんだのは、執務室で命乞いをしていた戸頃の青ざめた顔だった。死んだはずの彼が、暗い水底から自分を引きずり込もうとしている錯覚に陥る。
「……何を突然」
洗井は無理やり薄ら笑いを作ったが、額には冷や汗が滲んでいた。
「政治家というものは、常に泥水をすする商売です。時には非情な決断も下さねばならない。キン様がご覧になったのは、私が国を背負ってきた勲章のようなものでしょう」
「そうですか。それは失礼いたしました」
キンは深く追求することなく、再び柔和な「おかあさま」としての顔に戻ってグラスを傾けた。
同じ頃、プレスエリアの最前列にいた月島のスマートフォンが短く震えた。
画面を開くと、石橋からのメッセージが表示されている。
「明日の朝刊、洗井の外交成果を持てる限りの語彙で褒めちぎれ。彼を、決して降りられない高い木の上に登らせておけ」
月島は画面を伏せ、唇の端をわずかに歪めた。
「……無様なダンスを踊らされているとも知らずに」
誰の手のひらの上にいるのか、洗井は気づいていない。月島は視線を落とし、手元の手帳にただ事実だけを書き留めた。
その夜。神保町の裏路地にある古い喫茶店。営業時間を過ぎた薄暗い店内の奥で、八村は冷めたコーヒーを前に座っていた。
ドアベルが鳴り、二人の人物が入ってくる。天馬と、その秘書の桂東だ。
「夜分に呼び出して悪かったわね」
天馬が向かいの席に座った。八村は手帳を開きながら言った。「桂東さん、戸頃さんが失踪直前に残した言葉を教えてください」
桂東は怯えたような目で周囲を見回し、震える声で話し始めた。
「……昨夜、彼から電話あつて。ひどく錯乱していて、『俺は殺される』『サッチョウの連中と、阿田って男に追われている』と叫んでいました。その直後です。車のガラスを叩くような音がして、彼が『逃げろ、あいつらは悪魔だ!』と言った直後……」
桂東は両手で顔を覆った。
「プシュッ、という、空気が漏れるような鈍い音がしました。おそらく、サイレンサーを付けた銃の音です。その後は、彼が倒れる音と雨の音だけが聞こえて……」
「阿田、ですか」八村のペンが止まる。「洗井総理の裏の汚れ仕事を請け負うフィクサーですね。彼らが直接動いているとなれば、警察すら官邸の意のままに動いているということか」
「ええ。だから警察には通報しないよう、桂東さんに言ったの」天馬が鋭い視線で八村を見た。「戸頃さんを行方不明として処理しているということは、官邸と阿田の組織が完全に結託している。そして、総理の選挙区で買収の資金を用意したのは、恐らく党事務局長の指宿よ」
「党本部の資金、官邸の権力、そして警察の裏組織。鉄のトライアングルですね」八村は手帳を強く閉じた。「だが、彼らの作ったシナリオにも脆い部分があるはずです。現金配布の実行部隊である地元事務所に、必ず証拠や綻びが残っている……!」
八村はそこまで一気にまくし立てた後、奥歯をギリリと噛み締め、両手で自身の頭を抱え込んだ。
「……しかし、今の僕には水戸へ飛ぶ権限がない。参議院政友党の番記者という首輪をつけられている以上、デスクの許可なく持ち場を離れて県外の取材に向かうことなど不可能です。ましてや、月島デスクがそれを許すはずがない」
真実がすぐそこにあると分かっていながら、新聞社という巨大な組織のシステムに縛り付けられ、身動き一つ取れない。特ダネを追う猟犬としての矜持をへし折られた無力感が、八村の背中を重く押し潰していた。
「記者の肩書きなんて、組織の後ろ盾がなければただの紙切れ同然だ……。情けないですよ、僕は」
自嘲気味に吐き捨てた八村に対し、天馬は冷めたコーヒーカップを見つめたまま、静かに口を開いた。
「あなたが無力なわけじゃないわ、八村くん。相手は現職の秘書官すら躊躇なく消す連中よ。単独で動けば、あなた自身の命すら危うい。今は、その首輪に命を守られていると思うしかないわ」
八村はそれ以上何も言えず、深く冷たい雨が打ち付ける窓の外の暗闇を、血走った目でただ力なく睨みつけていた。
数時間後の翌朝。茨城県水戸市。
銀杏坂沿いにある洗井の地元事務所は、安い蛍光灯の光が白々しくビニール張りの床を照らし、徹夜作業による煙草のヤニと埃っぽい空気が充満していた。
連日の証拠隠滅作業——大量の領収書や裏帳簿の処分——で疲労の極致にある御手洗は、パイプ椅子に深く腰掛け、壁掛けの小さなテレビのニュース番組を、充血した目でぼんやりと眺めていた。
「——続いてのニュースです。洗井総理の政務秘書官を務める戸頃氏が、体調不良を理由に休養に入ったことがわかりました。現在、戸頃氏は関係者や家族とも一切連絡が取れない状態が続いており、警察は失踪の可能性を含めて慎重に……」
「……ほら見ろ」
御手洗は、すっかり冷めきったインスタントコーヒーの紙コップを啜りながら、心の底からの安堵のため息をついた。
「俺の言った通りだろ、伊丹。党本部と官邸は、戸頃を『行方不明』ってことにして、この件を有耶無耶にする気だ。あの脂ぎった豚がすべての罪を抱えたまま、この世のどこかに消えてくれれば、茨城の買収の件は完全に迷宮入りだ。俺たちにお鉢が回ってくることはない」
だが、部屋の隅からの返事はない。
伊丹の顔からは完全に血の気が失せ、古い蝋細工のようにどす黒く変色していた。目に見えない巨大な手に首を絞められているかのように壁に背をすりつけ、白目がむき出しになるほど見開かれた両眼には、純粋な恐怖だけが張り付いている。ひゅう、ひゅうと、喉の奥から空気が漏れるような浅く早い呼吸音だけが、静まり返った部屋に異様に響いていた。
「おい、どうした伊丹。具合でも悪いのか。徹夜続きだからな、奥のソファで少し寝てこい」
「み、『みたらし』さん……」
伊丹の声は、極度の恐怖で乾ききった喉から無理やり絞り出されたように、ひどく掠れていた。
「行方不明って……戸頃さん、本当にただどこかに隠れてるだけだと思いますか……?」
「『みたらい』だよ!」
「あの人が、自分から家族への連絡を絶つなんて絶対にあり得ない。だって、あんなにビビりで、代議士の顔色ばかり窺っていた小心者じゃないですか! もし本当に追い詰められたら、警察でも野党でも、誰かにすがりついてでも助けを求めるはずだ……。それなのに、誰も居場所を知らない、連絡もつかないなんて……」
伊丹の全身が、まるで極寒の地に放り出されたように、ガタガタと小刻みに震え始めた。
「消されたんですよ……っ! 買収の件を全部押し付けられて、口封じのために……プロの手で、跡形もなく消されたんだ!」
「馬鹿野郎!!」
御手洗がパイプ椅子を蹴り倒して立ち上がり、伊丹の胸ぐらを乱暴に掴んで壁に押し付けた。
「声が大きい! 外に漏れたらどうする! 滅多なことを口にするな! いいか、戸頃はノイローゼで失踪した。それだけだ。俺たち末端には一切関係ないことだ!」
「関係ないわけないでしょう!!」
伊丹は泣き叫ぶように、御手洗の手を狂ったような力で振り払った。
「首長や地方議員たちに実弾を配って歩いたのは、実行犯は俺たちなんですよ!? もし、もし警察や特捜部の捜査がここまで及んだら、次に『トカゲの尻尾』として切られるのは……俺たち末端の秘書じゃないですか!!」
その言葉に、御手洗の動きが完全に止まった。
頭の片隅で必死に否定し、見ないふりをしていた最悪の恐怖の可能性を、伊丹の狂乱した言葉が冷酷に突きつけてきたからだ。権力の頂点にいる者たちが、自分たちのような使い捨ての駒の命を、路傍の石ころ程度にしか思っていないことなど、長年永田町の濁った水流を飲んで生きてきた彼らには、痛いほど分かっていたのだ。
「……だから、言っただろ」
御手洗は、自分に言い聞かせるような低い声で呻いた。
「だから昨日、徹夜で、裏帳簿のデータも、パソコンのハードディスクも全部ドリルで穴を開けて、書類はすべてシュレッダーにかけて、完全に消し去ったんじゃないか。現金配布の証拠はもう、この世のどこにも存在しないんだ。俺たちが警察に捕まる理由も、上の連中から消される理由もないはずだ」
「……ありますよ」
伊丹が、焦点の全く合わない、虚ろな目で宙を睨みながら呟いた。
「なんだと?」
伊丹は震える足で自身のスチールデスクに向かうと、一番下の引き出しを乱暴に開け、その奥の底板をマイナスドライバーで強引にこじ開けた。埃まみれの空間から彼が取り出したのは、安価で小さな、どこにでもある黒いUSBメモリだった。
「なんだ、それは……まさか」
「保険です……」
伊丹はUSBメモリを両手で包み込むように、祈るように握りしめ、顔を引きつらせた異様な笑いを浮かべた。
「戸頃さんのように捨て駒にされた時のために……裏帳簿のエクセルファイルのオリジナルデータと、党中枢から秘密裏に投下された裏金工作のすべての資金経路を暴ける口座明細と通帳の写し、配布先のリストまで、全部コピーして残しておきました。ハードディスクを壊す直前に……」
「お前っ……!!」
御手洗の顔から、一気に血の気が引いた。全身の毛穴から嫌な汗が噴き出す。
「なんて馬鹿なことを! それが見つかったら、それこそ本当に俺たち……上に殺されるぞ!!」
「だから! これを官邸への交渉材料にするんです! もし俺たちを切り捨てようとしたら、このデータをマスコミにぶちまけるって脅してやる……! そうすれば、俺たちは守られる!」
伊丹の目は完全に狂気を帯び、血走り、正常な判断能力を失っていた。御手洗は膝から崩れ落ちそうなほどの絶望的な表情で、伊丹の手にある、その小さな黒い記憶媒体を見つめた。
伊丹は恐怖のあまり、自分たちの命を守るための『盾』を手に入れたつもりでいる。だが、長年政治の裏側を見てきた御手洗にははっきりと分かっていた。それは盾などではない。自分たちの破滅を確約し、殺し屋を呼び寄せる、恐るべき時限爆弾そのものだということに。
同日の朝。
総理執務室で、洗井は紅茶を飲みながら毎朝新聞の朝刊を広げていた。
『洗井総理、確かな外交手腕を発揮。歴史的合意』
一面トップの見出しと、キンと握手する自分の写真。記事は月島久里子の署名入りで、政権の安定と手腕を手放しで称賛していた。戸頃の失踪など一言も触れられていない。
「はははっ」洗井は満足げに笑い声を上げた。「見たか小柳。あの何かと小煩い毎朝新聞すら我が政権に靡いた。すべては完璧だ。私の足場はかつてないほど盤石になったぞ」
小柳は無表情のまま、深く一礼した。洗井は高級革張りの椅子に深く体重を預け、最高権力者だけが味わうことのできる、全能感という名の甘美な毒に酔いしれていた。
その時、総理執務室と厚い壁一枚を隔てたすぐ隣——官房長官執務室。
内閣官房長官の石橋は、洗井と全く同じ、インクの匂いが残る毎朝新聞の朝刊をデスクに広げていた。しかし、その顔に浮かんでいるのは歓喜ではなく、獲物を罠に追い詰めた猟師特有の、冷徹な観察者の笑みだった。
石橋は、洗井を絶賛する月島の記事の行間をなぞるように指を滑らせ、小さく鼻で笑った。
「長官」
防音の施された静寂な室内に、襖を開けるような微かな音を立てて、秘書官が歩み寄った。
「月島には指示通り、洗井総理を礼賛する記事を書かせました。先ほど隣の様子を窺いましたが、総理は新聞を前に大変ご機嫌の様子です。」
「そうか。おめでたい男だ」
石橋は新聞から目を離さず、感情の起伏を削ぎ落とした声で応じた。彼にとって、隣室で全能感に浸っている総理大臣は、チェス盤の上の扱いやすい歩兵に過ぎない。
「それから、もう一点報告が」秘書官は声を一段と落とした。「毎朝新聞の八村が、天馬、その秘書と接触したとのことです。我々はどう動きますか。」
石橋は、ゆっくりと新聞を畳んだ。その流れるような動きには、一ミリの無駄もなかった。
「放っておけ」
「しかし長官——」
「放っておけ」
録音された音声をそのまま再生したかのように、石橋は同じ言葉を繰り返した。声のトーン、音量、そして無機質な響きに至るまで、最初の一言と全く同じだった。声を荒らげるわけではない。しかし、感情の揺らぎを一切排除したその静かな反復は、いかなる反論も許容しない底知れぬ凄みを帯びていた。秘書官は息を呑み、開いた口を無言で噤んだ。
石橋はデスクの上の冷たいクリスタル製ペーパーウェイトに視線を落とした。
「洗井は完全に冷静さを失っている。戸頃を消せばすべてが片付くと思い込むあたりが、彼の限界だ。地元の秘書たちが勝手に『保険』を残している可能性すら計算に入れていない。阿田という狂犬を暴走させればさせるほど、それは洗井自身の首を絞める絞首刑の縄になる」
石橋の眼鏡の奥にある瞳には、一片の慈悲も、躊躇もなかった。永田町という冷酷な巨大システムにおいて、生き残るのは常に「最も冷酷な計算ができる者」だけだ。
「人間を最も確実に、そして残酷に壊すにはどうすればいいか分かるか?」
石橋は静かに問いかけ、自ら答えを出した。
「偽りの万能感を与え、誰よりも高い崖の縁まで、自らの足で歩かせることだ。自分が世界の頂点にいると錯覚したその瞬間に、足元の梯子を外す。落ちていく最中に初めて、自分が騙されていたことに気づくんだ。その時の絶望の顔は、実に見応えがあるぞ」
石橋はデスクのペン立てから、一本の万年筆を抜き取った。
「洗井には、もう少しだけ勝者の夢を見させておけ。彼が有頂天になって、天をも掴めると確信したその瞬間に、私は彼を吊り上げている見えない糸から、静かに指を離す。……自分がただの操り人形だったという絶望すら抱く暇を与えずに、な」
隣の部屋から微かに聞こえる洗井の笑い声は、間もなく始まる破滅へのカウントダウンを刻む、哀れな道化の足音にしか聞こえなかった。




