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第二話 張り子の虎

冷たい雨が、永田町のアスファルトを黒く塗りつぶしていた。

「そもそも、あの選挙区での現金配布は、指宿のジジイが仕切ったことじゃないか。党の金で地方議員を縛っただけだ。それをなぜ、総理であるこの俺が怯えなければならない」

洗井は相も変わらず、密室という安全地帯でのみ牙を剥いていた。権力の頂点に座りながらも、その背中は常に何かに追われているかのように丸まっている。焦燥と保身——己の器の小ささを隠しきれない男の苛立ちが、執務室の空気を澱ませていた。

『ヒラメ男』

永田町の一部で、洗井は密かにそう呼ばれている。上である石橋の顔色ばかりを窺い、下には徹底して冷酷。エリート特有の傲慢さで武装しているが、いざという時の胆力は皆無だった。

洗井は忌々しげに舌打ちをした。

「石橋のジジイが素直に法案に賛成していれば、野党もマスコミもそっちに気を取られ、こんなスキャンダルなど容易に揉み消せたものを。群馬の村議会、県議会上がりの田舎者が、通産省出身の俺をコケにしやがって……」

「ひぃっ……」

部屋の隅から、空気を漏らすような情けない音が響いた。政務秘書官の戸頃だ。極度の恐怖でずんぐりとした巨体を震わせ、額からは滝のように汗が流れ落ちている。

「お前が怯えてどうする、この無能が」

洗井の濁った瞳が、一瞬にして戸頃を射抜いた。

「そもそもお前の管理が甘いから、こんな情報が漏れたんだろうが。古井や二十八号の足元にも及ばん。政務秘書官のくせに、ただ震えているだけの無能が」

「も、申し訳ございません総理……っ。わたし、私が必ず……」

「もういい、消えろ。お前の顔など二度と見たくない」

戸頃は弾かれたように立ち上がり、執務室を逃げ出した。

重い扉が閉まる音を聞き届け、阿田が口元に薄い笑みを浮かべた。

「……さて。データは消せても、人間の記憶は消せません。あの『口の軽い人間』たちを、どう“処理”するかですね」


時計の針は、数時間前に遡る。

六本木にある高級ホテルの地下駐車場。阿田は、エンジンを切った黒塗りのハイヤー、『品川914 ご ・・89』のナンバープレートをつけたレクサスLS600hlの後部座席で、窓の外に立つ二人の男と対峙していた。

暴力団『竜燕會』組長の木森と、その懐刀である新川だ。木森が纏う、命のやり取りすらも日常の退屈な作業としか捉えていないような底知れぬ虚無感に対し、銀縁眼鏡をかけた新川の佇まいは、一流企業の法務部員かのように理知的で、一切の感情が削ぎ落とされていた。

「対象は一人。今夜中にお願いします。」

阿田が窓を数センチだけ開け、温度を感じさせない声で告げた。

「随分と急な話じゃねえか。こっちも事を動かすには準備が要る」

木森が葉巻の煙を吐き出しながら、探るように目を細める。

「報酬は金じゃありません」阿田は視線を新川へ移した。「二課と組織犯罪対策部のガサ入れを、向こう半年間完全に止めます。名目は何とでも……いかがでしょう」

新川の眼鏡の奥の瞳が、微かに光を帯びた。

「……十分な対価です。木森の親父、引き受けましょう」

新川は静かに一礼すると、事務的な作業をこなすかのような足取りで、闇の中へと消えていった。


「おい伊丹。そっちのシュレッダー、詰まってるぞ。早く市長の後援会名簿を処分しろ」

「わかってますよ、御手洗みたらしさん」

御手洗みたらいだよ!」

洗井の地元・茨城県。銀杏坂沿いに佇む水戸事務所では、公設第一秘書の御手洗と、公設第二秘書の伊丹が、汗に濡れたシャツを肌に張り付かせながら、機械のように証拠隠滅作業を繰り返していた。

『〇〇市長:五百万円』『△△議員:三百五十万円』

生々しい数字と企業名が並んだ裏帳簿が、次々と鋭利な刃に吸い込まれ、ただの紙屑へと変えられていく。この紙片の一枚一枚が、誰かの人生を狂わせる毒を含んでいるというのに、だ。

「まったく……」

御手洗はネクタイを乱暴に緩め、ため息をついた。

「ボスが選挙に弱すぎるから、こんな泥水をすする羽目になる。俺と同じ協和の出身じゃなきゃ、とっくにこんな事務所なんか辞めている」

「本当ですよ」

伊丹が、ひしゃげたハードディスクをゴミ袋に放り込みながら同意する。彼の脳裏には、数ヶ月前、地方議員たちに分厚い茶封筒を手渡して回った際の記憶がこびりついていた。脂ぎった作り笑い、札束の重み、そして手を握った時に感じた汗の感触。それは消し去っても消し去れない、罪の感触だった。

「そもそも、首長や地方議員に『実弾』を配って回ったのは俺ですけど、大元は党本部の指宿さんからの指示でしょう。なんで俺たちがこんなコソコソと……」

「馬鹿、声が大きい」

御手洗がスリッパで伊丹の頭を叩いた。

「世間的にはな、これはすべて『戸頃の独断』として処理されることになってる。党本部も、官邸も、そこでうちのボスも、全員がすでに口裏を合わせているんだ。あの、いつもビクビクしている無能……戸頃が全部泥を被る。そういう筋書きだ」

紙を裁断する無機質な機械音だけが響く中、二人の顔に、永田町の中枢に対する諦めと、暗く冷たい嘲笑が浮かんでいた。


「——ああ、そうだ。帳尻は綺麗に合ってるよ」

静まり返った党本部の一室。政友党事務局長の指宿高雄は、受話器を耳に当てたまま、唇の端だけで弧を描いた。

仕立ての良いスリーピースのスーツに身を包んだその佇まいは、教養ある老紳士そのものだ。柔和な顔立ちの奥にはしかし、組織のためならいかなる犠牲も厭わない絶対的な冷酷さが、氷のように静かに横たわっている。

「洗井くんをかばう? まさか」

指宿は手元のボーンチャイナのカップを持ち上げ、音もなく一口飲んだ。

「私が茨城で『実弾』をばら撒かせたのは、彼を見込んでのことじゃないよ。内閣総理大臣たる我が党の総裁が、選挙区で敗れて比例復活など……政友党の歴史における汚点にしかならない。すべてはあくまで、政友党という組織の体面を守るため。ただそれだけだ」

指宿は静かに目を細め、窓ガラス越しに永田町の夜景を見下ろした。

「……あとは官邸側で、不用意な『ゴミ』が散らからないように、くれぐれも綺麗に掃除しておいてくれ。頼んだぞ、檜山」

指宿は静かに受話器を戻した。カチャリ、という硬質な音が、主のいなくなった回線に終わりを告げる。

彼はゆっくりと立ち上がると、高級な調度品が並ぶ部屋の片隅へ歩いた。そこには不釣り合いな小型の電子レンジが置かれている。指宿は戸棚から市販のパックご飯を取り出すと、手慣れた動作でフィルムを少しだけ剥がし、レンジの中へと滑り込ませた。

無機質な駆動音とともにターンテーブルが回る。数十秒の後、静寂を破るように電子音が鳴った。

熱を持ったプラスチック容器から、湯気とともに米の匂いが立ち上る。指宿はそれを、デスクの引き出しの奥から取り出した茶碗へと無造作に移し替えた。一流の職人が手がけたことが一目でわかる、繊細な絵付けが施された見事な高級磁器だった。

最高級の和食器と、量産されたプラスチックの飯。その徹底的に不釣り合いな組み合わせを、指宿は気にする様子もなかった。ご飯の上から市販のお茶漬けの素をさらさらと振りかけ、年季の入った急須から熱いお茶を注ぐ。あられが水分を吸って小さく弾けた。

指宿は箸を手に取ると、躊躇なくそれを啜り始めた。ズズッ、ズズズッ、と品のない音が、誰もいない事務局長室に響く。

一人の人間の社会的抹殺を冷徹に承認した直後とは思えないほど、その横顔は穏やかだった。最後の一粒まで綺麗に平らげると、指宿は満足げに小さく息を吐いた。


同じ頃、赤坂の閑静な一角に佇む高級料亭『松影』の奥座敷。

雨だれが笹の葉を叩く微かな音だけが、広大な日本庭園を包み込んでいた。

縁側に腰を下ろした石橋は、手にした麩を細かくちぎり、暗い池面へと静かに落としていた。水面が揺れ、巨大な錦鯉が音もなく姿を現す。

背後の襖が開き、秘書が膝行して近づいた。

「洗井が、水戸で証拠隠滅に走っているとの報告が入りました。また、警安協の阿田の動きも不穏です」

報告を聞いても、石橋の老練な顔にわずかな動揺すら浮かぶことはなかった。ただ、麩を投げる指先だけが正確なリズムを刻んでいる。

「若いのというのは、どうしてこうもすぐ、見え透いた泥遊びをしたがるのかね」

石橋は、どこか楽しむような、しかし底知れぬ冷たさを孕んだ声で呟いた。

「洗井は自分が捕食者だと思い込んでいる。だが、牙の磨き方も知らない猟犬は、いずれ自分の尾を噛みちぎって死ぬ運命にあるのだよ。……泳がせておけ。我々はただ、一番美味い肉が落ちてくるのを待っていればいい」

石橋の静かな笑い声が、雨音の中に溶けていった。秘書は、その背中から発せられる圧倒的な『静の恐怖』に、思わず身震いをした。


「♪何もかも〜忘られないよ〜……お世話になりました〜……」

深夜の官邸。重厚な絨毯が足音を吸い込む廊下に、ひどく場違いな歌声が響いた。

両手を後ろで組み、上機嫌で歩いてきたのは、事務の副長官・檜山だった。国の命運を左右する謀略の舞台で、その軽快な足取りは異質ですらある。

前方を無表情で歩いてくる小柳と古井の姿を認めると、檜山はピタリと歌を止め、人畜無害な笑顔を作った。

「やあ、優秀なお二人さん。夜遅くまでご苦労様」

古井と小柳が立ち止まり、一礼する。

「いやあ、さっき高校の同級生——党本部の指宿から電話があってね。党の『金庫』の帳尻は、綺麗に合ったそうだよ。あとは官邸側で、不用意な『ゴミ』が散らからないように、しっかり掃除しておいてくれってさ」

檜山は目尻を下げて笑うと、再び「♪お世話になりました〜……」と口ずさみながら暗い廊下の奥へと消えていった。

残された小柳は、冷たく光る眼鏡の奥で感情のない瞳を瞬かせた。

「……勝利は我が手の中にあらん。古井さん、阿田会長への連絡は?」

「すでに。……『警安協』の裏の顔が動くはずだ」


冷たい雨が、容赦なく戸頃の全身を打ち据えていた。

官邸の裏口から飛び出した後、彼はタクシーを拾うことすらできなかった。激しく行き交う車のヘッドライトが、まるで自分を狩り立てる追跡者の無機質な眼光のように思えてならなかった。どこを見ても、自分を監視する目が光っているような錯覚に陥る。

雨水を吸って鉛のように重くなった既製品のスーツは、歩を進めるたび、水を張った革靴とともに不快な音を立てた。

(切られた……。俺は、トカゲの尻尾にされる)

極限の恐怖と孤独が、戸頃の思考を鈍らせていく。その時、かつて政策秘書研修を共に受けた同期の顔が脳裏に浮かんだ。打算と陰謀が渦巻く永田町で、彼女だけは損得勘定抜きで自分に接してくれた。

震える太い指で公衆電話に硬貨を押し込み、記憶を頼りに桂東の携帯電話の番号をプッシュする。

プルルッーガチャッ。

「……はい、もしもし」

ワンコールも鳴り切らないうちにつながった。不測の事態が常態化している永田町を長年生き抜いてきたベテラン秘書の習性か、彼女はプライベートな時間であっても電話に出る早さが異常なほど際立っていた。自宅でくつろいでいたのだろう、声そのものは少し気が抜けていたが、通話ボタンを押す反射神経だけは現役そのものだった。その声を聞いた瞬間、戸頃は思わず泣き崩れそうになった。

「け、桂東さん……俺だ、戸頃だ……」

「あら、戸頃くん? どしたのこんな遅くに。あ、総理のパワハラでついに胃に穴でも開いた?」

「助けてくれ……! 限界だ……もう限界なんだ。茨城の買収、俺が首謀者にでっち上げられようとしてる。違うんだ、あれは党本部の指宿と、官邸が……!」

「ちょっと、戸頃くん? 冗談よね……? 息が荒いけど、今どこにいるの?」

「俺は殺される! サッチョウの連中と、あの阿田って男が……!」

戸頃が叫んだ、その時だった。

ドンドンッ

電話ボックスのガラスが、鈍い音を立てて叩かれた。

戸頃がビクッと肩を跳ね上げ、振り返る。雨に濡れたガラスの向こうに、黒いレインコートを着た男——新川が立っていた。

銀縁眼鏡の奥で光る双眸は、一切の感情を削ぎ落としたインテリヤクザ特有の無機質さを帯びて、ただ静かに戸頃を見下ろしている。背後には組長の木森が、傘も差さずに葉巻の煙を吐き出しながら佇んでいた。

「あ……ああ……っ」

「戸頃くん!? どうしたの!? もしもし!」

受話器から桂東の焦った声が響く。

新川が、懐から黒光りするサイレンサー付きの拳銃を、淡々と引き抜いた。それはまるで、長年繰り返してきた日常の作業の一部であるかのように。

「け、桂東さん……逃げろ、永田町は……狂って……」

それが、戸頃がこの世に残した最期の言葉だった。

くぐもった破裂音が響いた直後、受話器の向こうからは、ただ不規則な雨音だけが聞こえてきた。

「戸頃くん……? もしもし……?」

自宅のソファで電話を握りしめていた桂東の顔から、血の気が引いた。

ドサリ、という重い何かが倒れる音。そして、一方的に通話が切断される電子音。

桂東の指先が小刻みに震え始めた。ただならぬ事態が起きたことだけは、長年永田町を生き抜いてきた本能が理解していた。戸頃の「俺は殺される」という切迫した絶叫が、耳にこびりついて離れない。

彼女は無意識のうちにベッドサイドのメモ帳を引き寄せ、震える手でボールペンを握った。

インクがかすれるほどの筆圧で、彼女は書き殴った。

『茨城』

『買収』

『指宿(党本部)』

『アダ(警安協)』

『サッチョウ』

桂東は震える指でスマートフォンの画面を弾くように操作し、『天馬薫子』の文字を探し当てた。祈るような気持ちで、その連絡先をタップする。無機質なコール音が、冷え切った部屋に響き始めた。

数回のコールバックの後、若く張り詰めた声が響く。

「もしもし、桂東さん? こんな時間にどうしたの」

「天馬先生……っ! た、大変です、戸頃くんが……総理の政務秘書官が殺されました!」

「……ええっ!?」

電話の向こうの天馬の声色が、一瞬にして若き政治家としての鋭利なものへと変わる。桂東は泣きじゃくりながらも、戸頃から聞いた最後の言葉と、書き留めたメモの内容を必死に伝えた。

すべてを聞き終えた天馬は、短い沈黙の後に告げた。

「……桂東さん、今すぐ家の鍵とチェーンをしっかりかけて、朝まで絶対に外に出ないで。警察にもまだ連絡しないでね。『警安協』が絡んでいるなら、どこから情報が漏れるか分からないから。……あとは私が動く」

通話を切った天馬は、息をつく間もなく別の番号を呼び出した。


同じ頃、都内のマンションの一室。

床に積まれた国会の委員会資料の山を避けながら、毎朝まいちょう新聞の記者、八村尚将は深夜の静寂の中でノートパソコンに向かっていた。参議院政友党の番記者である彼は、若手ながらその執拗な取材姿勢で知られている。特に、党の絶対的権力者である石橋に公然と楯突く天馬の動向には、かねてより強い関心を抱いていた。

テーブルに置かれたスマートフォンが短く震えた。画面には『天馬薫子』の文字が表示されている。

「はい、毎朝新聞の八村です」

名乗ると同時に、押し殺したような重い声が耳に飛び込んできた。

「八村さん、夜分遅くにごめんなさい。天馬です」

「天馬さん? どうされました、こんな深夜に」

八村はキーボードを叩く手を止めた。毎朝新聞の政治部記者である以上、彼が受ける電話の先には、常に政治的な思惑が絡んでいる。

「ついさっき、総理秘書官の戸頃さんが殺されたかもしれない」

その言葉に、八村の身体が硬直した。

「殺された……? 戸頃秘書官が、ですか? どういうことです」

「戸頃さんからね、桂東さんの携帯に電話があったの。『茨城の買収事件をでっち上げられる』『殺される』と。その直後、銃声のような音がして途切れたそうよ」

まだどこも報じていない、永田町の超極秘事項だ。八村は手元の取材ノートを引き寄せ、ボールペンを握った。思考が一瞬にして冷徹な分析モードへと切り替わる。

「……その話、他に誰かに?」

「いいえ。警察もすでに『警安協』の阿田という男に握られている可能性があるから、身内にもまだ話していないわ」

「賢明なご判断です。……茨城の買収、党本部の指宿、そして警安協……」

八村は小さく呟きながら、キーワードを書き殴った。

「八村さん。桂東さんはひどく怯えている。彼女には自宅から一歩も出ないよう言ってある。警察も当てにならない今、この情報を客観的に追えるのはあなたしかいない。……どうか、この闇の正体を暴いてちょうだい」

「……承知しました。こちらのルートですぐに裏取りに動きます」

通話を切ると、八村は窓のブラインドを少しだけ開けた。街灯の光が入り込み、乱雑な部屋の様子を薄暗く浮き彫りにする。

「党本部の指宿、警安協の阿田、そして神輿の洗井……。随分と派手な遊びをしてくれたもんだ」

八村は小さく呟いた。新聞記者として、このスクープの価値と、それに伴う危険性を秤に掛けていた。その口元には、巨大な権力の綻びを見つけた獲物を前にした狩人のような、鋭い笑みが浮かんでいた。

ケイゾクのメインテーマ『CONTINUATION』が流れる豪奢な部屋。

阿田は革張りのソファに深く身を沈め、ブランデーグラスを傾けていた。

テーブルの上に置かれたスマートフォンが、短く一度だけ振動した。画面に表示された『処理完了』の四文字。

阿田は口元に薄い笑みを張り付けると、グラスに残った琥珀色の液体を一息に飲み干した。喉を焼くアルコールの熱が、心地よい。

「……さて。これでアイツも、少しは安心して眠れるだろう」

阿田は立ち上がり、窓の外に広がる東京の夜景を見下ろした。

光の海の向こうにそびえる、暗闇に沈む国会議事堂。その頂点に君臨する“張り子の虎”の寿命を、自分たちが今夜、ほんの少しだけ延命させてやったのだ。

「だが……あの石橋裕雄が、この程度の小細工で大人しく引き下がるとは思えないがね」

阿田の言葉は、誰の耳にも届くことなく、冷たい夜の空気の中へと溶けていった。


翌朝。厚い雲が日差しを遮り、永田町は薄暗い空の下にあった。

総理執務室。洗井は革張りの椅子に深く背中を預け、デスクの上の冷めたコーヒーに口を付けた。

控えめなノックの音が響き、阿田が静かに入室してくる。その表情はいつもと変わらず、完全に張り付いた無表情だった。

「失礼します。あれ、今日、戸頃さんは出勤されてないんですか」

阿田は淡々と切り出した。洗井は鼻で笑い、面倒そうに手を振った。

「ああ、そういえばいないな、真山」

「……阿田です、総理」

「あぁ、分かっている。いても役に立たなかったからな。何の影響もないだろう」

「本人と連絡は?」

「取るわけないだろう」

洗井は吐き捨てるように言った。

「では昨夜から行方がわからない、というわけですね」

「そういうことになるな」

二人が視線を合わせたとき、互いの口元には微かな笑みが浮かんでいた。抱えていた懸念材料が、表向きは『行方不明』という形で処理されつつあることに、洗井は暗い安堵感を覚えていた。これで茨城の件を追及される要素は消えた。野党が騒ぎ立てたところで、すべての不都合な真実を背負わされた男は、永遠に反論することのできない暗闇の底へと葬り去られているのだから。


同じ頃、茨城県の水戸事務所。

徹夜で帳簿の裁断作業を終えた御手洗と伊丹は、膨大なゴミ袋の山の中でパイプ椅子に座り込んでいた。

伊丹が疲れ切った声で口を開いた。

「戸頃さん、いつ辞めるんですかね。戸頃さんいなくなれば『みたらし』さんが政策秘書じゃないですか。そしたら俺が公設第一ですよ」

「『みたらい』だよ!」

御手洗がうんざりしたように声を荒らげた。

「まぁ、なるべく早く幕引きを図るんじゃないか。傷は浅いうちがいい」

「そうですよね。あのビビりじゃ、これ以上は持たないでしょうし」

伊丹は気楽そうに笑った。自分たちが守ろうとしている組織の闇が、どれほど深いものかを知る由もない。二人はただ、戸頃が政務秘書官と政策秘書を辞めるだけだと思い込んでいた。しかし、現実にはその男がすでにこの世から抹殺されているという凄惨なギャップが、静かに横たわっているのだった。


料亭『松影』。

雨は上がり、空気が澄んでいた。石橋は濡れた縁側に立ち、庭のししおどしが竹を叩く音を聞いていた。

「戸頃の処理、完了したとのことです。しかし……」

背後に控えていた秘書が書類を差し出した。

「戸頃が死の間際、天馬の秘書に泣きついていたようです。竜燕會が意図的にその事実を官邸に隠蔽している節があります」

石橋は書類には手を伸ばさず、庭の木々を見たまま頷いた。

「想定通りだ。洗井は目先の血痕を拭い去ることしか頭にない。暴力という劇薬を使えば、必ず副作用が起こるという事の基本すら忘れている」

石橋はゆっくりと振り返り、その老練な顔に穏やかな笑みを浮かべた。

「その天馬の秘書、泳がせておけ。洗井の陣営が彼女の存在に気づき、ボロを出すまでな。……洗井の首を取るための『剣』は、外の人間が握っていた方が都合がいい」

「はっ……。かしこまりました」

石橋は再び庭へと視線を戻した。

「指宿が党の体面を守ろうと足掻き、洗井が玉座にしがみつき、阿田が闇で踊る。……ああ、なんと愚かで愛おしい連中か。この国の最高権力など、所詮は私が盤上で転がすための玩具に過ぎない」

永田町という場所は、一度入り込めば容易には抜け出せない構造になっている。

そこで真に警戒すべきなのは、表立って牙を剥く者ではない。安全な場所から糸を引き、他者が自滅するのを待っている者たちだ。

雨は上がった。だが、事態が収束したわけではない。新たな動きが水面下で始まろうとしていた。

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