第一話 参議院のドン 石橋裕雄
六月七日水曜日、午前九時四十一分。政友党参議院議員の天馬薫子は、走っていた。
目的は九時四十五分から始まる議員総会への出席だ。議員会館の自室を飛び出し、専用エレベーターで地下一階へ下りる。カフェのある広い連絡通路を抜け、短いエスカレーターを三回乗り継げば国会議事堂に着く。だが、議事堂の敷地に入ったからといって遅刻が免除されるわけではない。開始時刻までに控室の椅子に座っていなければ、それは明確な規律違反とみなされる。
政友党の控室は正門側にある。不運なことに、議員会館からは最も遠い配置だった。
『議員総会』という名称はいかにも重々しいが、実態は本会議での賛否を幹部が指示するだけの、形骸化した儀式にすぎない。政友党は与党だ。内閣が提出する閣法には賛成し、野党が提出する議法には反対する。そんなことは暗黙の了解であり、わざわざ集まるまでもない。参議院議員会長が形式的な司会を務め、議運理事、参議院国対委員長、政審会長、参議院幹事長が順番に定型文を読み上げ、十時からの本会議へ向かう。それだけのことだ。
走りながらスマートフォンを取り出すと、政策担当秘書の桂東睦子からメッセージが入っていた。
「南熱海から人引きの干物が届きました。遅刻したら骨しか残しませんよ。テシテシ」
文字の羅列から、桂東の皮肉めいた笑い声が容易に想像できた。
「わかってるわよ! 今走ってるから!」
天馬は息を切らしながら小声で吐き捨て、画面を乱暴に暗転させてポケットにねじ込んだ。
重厚な扉を抜け、赤い絨毯の敷かれた本館の廊下に出る。ここから先は一種の迷宮だ。法案成立に向けて根回しに奔走する各省庁の“トンビ”たちが、分厚いファイルの束を抱えて早足で歩き回り、番記者たちが閉ざされたドアの前に群がっている。すれ違う議員たちは、腹の底で何を企んでいるかなど微塵も感じさせず、ただ口角だけを上げて「いやあ、先生、昨日はどうも」と中身のない挨拶を交わしていく。
(やっぱり、何度来ても慣れない。愛野ヒカリちゃんみたいにはいかないなぁ……)
天馬の脳裏に、自身の政治家としての原点であるアニメ『ピュアラブ政治家』の主人公が浮かぶ。彼女なら、この永田町の淀んだ空気さえも魔法で浄化してしまうだろう。だが、現実は違った。
控室の重い木製ドアを押し開け、滑り込んだのは九時四十四分。間一髪だった。
天馬は小さく息を吐き、空いている椅子に腰を下ろそうとした。
その瞬間、異変に気づいた。
——空気が、異常なほどに重い。
普段なら家庭の愚痴やゴルフのスコアといった雑談でざわついているはずの空間が、水を打ったように静まり返っていた。居並ぶ先輩議員たちの背中はこわばり、誰もが息を潜めている。
天馬はダークスーツの波の隙間から、部屋の最前列——幹部席の様子を窺った。
そこに、その男がいた。
ペラリ。彼が手元の資料を一枚めくる。ただそれだけの微かな音が、百人以上が密集する部屋の隅々にまで届いた。咳払い一つ聞こえない。誰も彼から視線を逸らすことができない。彼が静かに呼吸をするたびに、この部屋の酸素がすべて彼に奪われていくような、圧倒的で暴力的な支配力。
内閣官房長官 兼 参議院政友党幹事長
内閣総理大臣臨時代理就任順位 第一位
石橋裕雄。いくら参議院幹事長を兼任しているとはいえ、閣僚である石橋が毎回この総会に出席する義務はない。彼がわざわざこの場に足を運んでいる事実が、明確な「特別な意図」の存在を示していた。
「……それでは、時間になりましたので」
司会役の参議院議員会長が、強張った表情で口を開いた。普段の機械的な進行が、今日はまるで葬儀の弔辞のように重苦しく響く。議運理事、国対委員長、政審会長。誰もが言葉を選び、逃げるように自身の報告を終えていった。
そして。「最後に、石橋幹事長からご挨拶があります」重い腰を上げた石橋がゆっくりと立ち上がり、マイクの前へ歩み出た。
「おはようございます」
温かみがありながらも、三半規管に直接触れてくるような独特の響きを持った声だった。その第一声が発せられた瞬間、百人近い議員たちの呼吸が完全に停止したことを、天馬は肌で感じ取った。
「衆議院で早々に可決され、参議院に送付された例の重要法案。衆議院での採決の際は、洗井総理もこれで一安心だと、たいそう喜んでおられましたよ」
穏やかな口調。しかし、その言葉の裏に潜む絶対零度の冷徹さに、天馬は背筋を凍らせた。
「しかしね。私は総理に申し上げたんです。衆議院を通ったからといって、法律が成立したわけではありませんよ、と。我々参議院が『NO』と言えば、衆議院の苦労など、一瞬にして紙屑になる。……違うかね?」
沈黙。誰も答えないのではない、答えることができないのだ。
「参議院は良識の府です。衆議院の勢力図だけで事を決めようとするやり方に、もし『良識ある』我々が苦言を呈したら、どうなるか。……衆院で三分の二の議席を持たない内閣は、再可決もできず、即座に死に体となる」
マイクを通した石橋の声は、どこまでも優しかった。まるで孫に童話を読み聞かせる老人のような響きがあった。
「我々が持っているのは、ただの反対票ではありません。総理の首をいつでも刎ねることができる『拒否権』です。……参議院を笑う者は参議院に泣く。どうか皆さん、今日の本会議では、その重みを噛み締めながら、ボタンを押していただきたい。私からは、以上です」
「は、はい! ありがとうございました!」
司会の参議院会長が慌てて頭を下げる。
直後、石橋は自席には戻らず、そのまま静かに控室を後にしていく。天馬の目の前を、皺一つない完璧にプレスの効いた高級スーツが通り過ぎた。すれ違いざま、微かに白檀の香りが鼻腔をくすぐった。
扉が閉まると同時に、嵐が去った後のように控室に安堵の溜息が充満した。
隣に座っていた二回生の先輩議員が、ハンカチで額の汗を拭いながら小声でぼやいた。
「ハルさん、相変わらずおっかないなぁ……」
「しっ! バカ、裕雄の『ヒロ』だ。本人に聞かれたら、次の選挙で公認外されるぞ」
天馬は、膝の上に置いた自分の手が微かに震えていることに気づいた。
(これが、永田町のリアル。……私が戦わなきゃいけない相手)
“ピュアラブ”など、どこにも存在しない。そこにあるのは、冷徹な権力構造と、絶対的な「拒否権」の行使だけだ。
天馬薫子は強く唇を噛み締め、本会議場へと続く重い扉を睨みつけた。
「投票の結果を報告いたします。投票総数、二百四十八票。白色票一、青色票二百四十七。よって本案は否決されました。」
議長の無機質な声と、名もなき議員たちのどよめきが本会議場を包み込んだ。ほぼ全会一致の否決。
その瞬間、ひな壇に並んで座る二人の男の間に、残酷なまでの対比が明確に浮かび上がった。
内閣総理大臣の洗井理人は、己の右顔面が意思に反して痙攣するのを止めることができなかった。膝の上で組まれた両手は、白血球を失ったかのように蒼白になるまで固く握りしめられている。当然だった。この法案の否決は、単なる政策上の頓挫ではない。衆議院での神経をすり減らすような根回しも、野党との裏交渉もすべて水泡に帰し、洗井内閣が事実上の死を迎えたことを意味するからだ。額にじわりと冷汗が滲む。視線は定まらず宙を泳ぎ、突きつけられた絶望的な現実をどうにか咀嚼しようと足掻いていた。
対照的に、隣に座る石橋の佇まいは周囲の動揺が嘘のように静謐そのものだった。
彼は平素と変わらぬ、柔和な好々爺然とした微笑を口元に湛えている。狼狽する首相を嘲るわけでもなく、ただ淡々と前を見据えていた。それはまるで、自ら設計した精密機械が寸分の狂いもなく作動し、標的の息の根を止めたことを確認する職人のような、静かで冷酷な余裕だった。洗井の政治生命が絶たれたこの歴史的瞬間すら、石橋にとっては自らの盤石な支配力を証明する、ささやかな確認作業の一つに過ぎないのだ。
天馬以外の全議員が、青ボタンを押した。
石橋は「反対してください」とは一言も明言していない。だが、天馬以外の政友党議員は、石橋の“言外の指示”に従った。否、“自身の身を守るために石橋の意向を忖度した”という表現の方が正確だろう。参議院、ひいては政友党に身を置く以上、石橋の意向は絶対である。“石橋に気に入られたいから指示に従う”のではない。“石橋に睨まれたくないから指示に従う”のだ。
党の要職である参議院幹事長と、政府の要職である官房長官の兼任。参議院全体を掌握するだけでなく、内閣情報調査室=インテリジェンスと、官房機密費という“合法的な裏金”までをも手中に収めている。
参議院での否決により、法案は衆議院へ差し戻される。だが、衆議院における政友党の議席は二百三十六。定数四百六十五の過半数を辛うじて維持している状態であり、再可決に必要な三分の二、すなわち三百十二議席には遠く及ばない。 加えて、ねじれ国会状態であり、身内にすら反旗を翻された内閣に、野党が協力するメリットもなかった。
この法案は廃案。洗井内閣は死に体だ。
閣法が参議院で否決され、しかも与党自らが反対に回るという超異例の事態。この非常事態のシナリオライターである石橋は、基本的に衆議院の国会運営には口を挟まない。“官房長官である前にいち参議院議員である”というアイデンティティがそうさせるのか。あるいは、“衆議院が可決した法案を参議院で否決する方が自身の影響力をより強く行使できる”と考えるからか。
本会議場から吐き出される人の波の中で、控室で隣にいた二回生の先輩議員が歩調を合わせて横に滑り込んできた。周囲の目をひどく気にしながら声を潜めているが、その顔は信じがたいものを見るように引き攣っていた。
「天馬ちゃん……あんた、まさか白と青押し間違えたわけじゃないよな?」
「いえ、自分の意思です。あの法案は、我が党が公約に掲げていたはずです。それを政局のために否決するなんて——」
「馬鹿野郎! 声が大きい!」
先輩議員は慌てて天馬の言葉を遮り、忌々しげに舌打ちをした。
「いいか、ここじゃあな、ハルさん、じゃなかった、石橋さんが『黒』と言えば、白でも黒なんだよ。お前、自分が誰に喧嘩を売ったか分かってるのか? ただの造反じゃない、明確な反逆だぞ。悪いことは言わん、明日からしばらく大人しくしておけ。俺まで巻き込まれたらたまらんからな……」
それだけ吐き捨てると、先輩議員は疫病神から逃れるように足早に去っていった。すれ違う同僚議員たちの視線も、天馬を見るというよりは、まるで『歩く死体』を観察するような冷ややかなものに変わっていた。
「また石橋幹事長の意向……? 私たちの意思はどこへ行くのよ!」
会館事務所に戻った天馬は、デスクに積まれた法案資料の山を睨みつけた。彼女のバイブルであるアニメ『ピュアラブ政治家』の主人公なら、もっとキラキラと国を変えているはずだった。だが現実は、党議拘束、“石橋の意向”という名の見えない鎖に繋がれている。
「先生、お茶が入りましたよ。静岡茶です」
独特の間合いで湯呑みを置いたのは、政策秘書の桂東だった。
その時、事務所の電話が鳴った。
プル……「はい天馬事務所!」
桂東が受話器を取る速度は、音速を超えていた。
「あ、はい……はい。承知いたしました。」
桂東は受話器を置くと、不敵に笑った。
「テシテシテシテシ。幹事長室からです。今すぐ院内幹事長室に来てくれとのことです。」
「ねえ桂東さん、私間違ってるのかな。参議院の良識って何?」
「さあ。私はただ次の選挙のために、南熱海の兄や姉にも頼んで票を固めるだけですから。」
(怒鳴られる。干される。最悪、離党勧告……)
議事堂内の参議院幹事長室へ向かう廊下を歩きながら、天馬の心臓は早鐘のように鳴り続けていた。足取りは鉛のように重い。自身のバイブルのヒカリちゃんなら、こんな時でも胸を張って悪に立ち向かうのだろうが、現実の永田町を覆う空気はあまりにも息苦しい。
幹事長室の前に立つ屈強なSPが、無言で天馬を一瞥し、重厚な扉を開いた。
「失礼いたします。幹事長、お呼びでしょうか……」
絞り出すような声で室内へ足を踏み入れると、そこはひどく静まり返っていた。微かに香る白檀の匂い。部屋の奥、黒革の豪奢なソファに深く腰掛けていた石橋が、手元の書類からゆっくりと顔を上げた。秘書の姿すらない、完全な一対一の空間だった。
天馬は雷が落ちるのを覚悟し、無意識に身構えてキュッと目を瞑った。
だが、沈黙を破った石橋の口から出たのは、拍子抜けするほど温和な声だった。
「やあ天馬ちゃん。急に呼び出して悪かったね。どうだ最近は。ちゃんと飯は食ってるか?」
「え、ええ。なんとか。幹事長、ご用件は……?」
「元気な若者からパワーを分けてもらおうと思ってね。昼飯、よかったら一緒にどうだ。」
素直に受け取るなら、若者を応援する、そのパワーにあやかろうとする老年の言葉だ。しかし永田町文学として行間を読めば、その意味は全く違ってくる。
天馬は石橋から放たれる圧倒的なオーラに気圧され、慄いた。
「私一人を脅すのに、この人は怒声も罵倒も必要としない。」
昼食を共にしながら、石橋は選挙区事情、後援会の規模、資金の流れなど、“政治家・天馬薫子”のすべてを諳んじてみせた。
天馬はまたも石橋の言葉、その行間に怯えた。
「困ったことがあれば、なんでも相談しなさい。僕にできることがあれば、必ず力になる。」
食事が終わったところで、優しい笑顔と共に右手が差し出された。石橋は決して「決めたことには従ってもらうよ」のような明確な言葉は口にしない。
相手に行間を読ませる、そして確実に従わせる。これが石橋裕雄の政治手法だ。
他の政治家が同じことをしてもただの“面倒見のいいお人好し”で終わってしまうところ、潤沢な政治資金、政官財に張り巡らされたネットワーク、参議院政友党幹事長・内閣官房長官というポストが持つ権力の強さが故、石橋は相手の“拒否権”を完全に封じることができるのだ。
差し出された石橋の右手には、老人特有の薄いシミが浮き出ていた。しかし、爪の先まで完璧に手入れが行き届いており、その肌には異様なほどの生気が宿っていた。
天馬の脳内で、けたたましい警鐘が鳴り響いていた。
——握ってはいけない。
この手を握ることは、自らの信念に対する完全な敗北を意味する。「NO」と突きつけ、踵を返してこの部屋から立ち去ること。それこそが、彼女がバイブルとしてきた『ピュアラブ政治家』のヒカリの生き方であり、天馬自身が信じる「正義」のはずだった。
だが、天馬の身体は鉛のように重く、指一本すら動かすことができなかった。
視界の隅で、事務所のデスクに積み上げられた法案資料の山や、地元有権者の顔がフラッシュバックする。
もしここで、この手を拒絶すればどうなるか。
明日には党紀委員会にかけられ、離党勧告が出される。メディアは「若き造反議員の浅はかな末路」と面白おかしく書き立てるだろう。次の選挙での公認は当然剥奪され、企業からの献金もピタリと止まる。
「正しいこと」を貫いて政治生命を絶つか。「正しくないこと」に目を瞑って生き延びるか。
それすらも美しい自己欺瞞に過ぎないのだと、天馬の冷徹な理性が囁いた。政治家という生き物は、生き延びなければ何一つ変えることはできない。バッジを失えば、“ただの人”に成り下がる。
(私が戦うためには……まず今はこの人に、首輪をつけられるしかない)
震える右手が、ゆっくりと持ち上がった。
自分の意志で動かしているはずなのに、まるで他人の腕を見下ろしているかのような、奇妙な遊離感があった。
「……ご指導、よろしくお願いいたします」
乾ききった声、本心と最も遠い位置にある言葉が、自らの唇から滑り落ちた。
石橋は満足げに目を細め、天馬の手を包み込むように握りしめた。
その手は、ひどく温かく、そして柔らかかった。だが、その温もりは天馬の体温を急速に奪い、心臓を真綿で締め付けるような息苦しさをもたらした。天馬は絶望と共に気付いてしまった。自らをギリギリのところで繋ぎ止めていた「良識」という名の細い糸が、今、音を立ててプツリと切断されたことに。
一方その頃、国会議事堂から少し離れた首相官邸。
重厚なオーク材の扉で閉ざされた密室に、獣のような怒号が反響した。
「どうなってるんだ! 真山!いや、真山じゃない、阿田!」
洗井は、執務デスクの前に立ち尽くし、ネクタイを荒々しく引きむしった。極度のストレスと睡眠不足で目は血走り、こめかみにはべっとりと脂汗が滲んでいる。
無理もなかった。内閣支持率は危険水域へと急落し、週刊誌が火をつけた致命的なスキャンダルの火種は、消えるどころか延焼を続けている。おまけに野党は、先ほどの参議院での法案否決を盾に、問責決議案の提出を嬉々としてチラつかせていた。
感情の赴くまま周囲に当たり散らす洗井の姿は、もはや最高権力者のそれではなく、追い詰められた哀れな男でしかなかった。
「総理、真山じゃなくて阿田です」
ヒステリックな洗井の怒声とは対照的に、来客用の高級ソファからは、極めて軽く、どこか飄々とした声が返ってきた。
一般社団法人『警備安全協会』(通称『警安協』)会長・阿田哲治。
警察庁長官まで上り詰めた後、警安協を創設した男であり、洗井の中高、大学の同期でもある。
警察庁の中枢を渡り歩いたかつての凄みは微塵も感じさせず、上質なイタリア製のスーツを着こなし、まるで休日のカフェにでもいるかのように深く足を組んでいる。
「俺に怒鳴っても、事態は何も変わりませんよ」
同級生とはいえ、現職の内閣総理大臣である洗井には敬語を使う。それが阿田の流儀だった。
阿田は薄く笑い、悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「それより、ご安心を。例の件は、我がサッチョウの『優秀な彼ら』が粛々と処理していますから」
阿田の視線の先、執務室の壁際に、二人の男が彫像のように直立していた。
警察庁から派遣された事務秘書官である小柳秀喜と、内閣情報官の古井明夫だ。
小柳秀喜という男の存在感は、およそ生身の人間が発するそれとは異なっていた。先祖代々警察官僚を輩出してきた一族の直系であり、彼自身が数えて二十八代目にあたるという。長きにわたり国家権力の中枢に組み込まれてきた血脈は、世代を重ねるごとに人間らしい情や迷いを削ぎ落とし、純粋な官僚としての機能だけを抽出することに成功したかのようだった。洗井が彼を「二十八号」と呼んでいるのは、単なる世代数のもじりではない。生きた人間ではなく、入力された目的を冷徹に遂行するためだけに稼働する精巧なシステム——それが小柳という男の本質だった。
隣に立つ古井とともに、小柳は一切の感情を排したような無機質な顔つきで、洗井の取り乱しぶりを冷ややかに観察している。
やがて小柳が、中指で神経質に眼鏡の位置を押し上げ、ひどく抑揚のない、まるで台本を読み上げるような声で口を開いた。
「勝利は我が手の中にあらん。……総理、ご安心ください。スキャンダルの発火点となる元データは、古井さん指揮のもと、内調が既に確保いたしました。デジタル上の痕跡は全て消去済みです」
古井も無言のまま、薄気味悪いほど正確な角度で一礼する。小柳は淡々と、しかしその奥にゾッとするような冷酷さを孕んだ声で言葉を継いだ。
「あとは、そのデータを持っていた『口の軽い人間』をどう処理するか、ですが……」
「処理」という無機質な単語が執務室に落ちた瞬間、その場に居たたまれない空気を醸し出していた一人の男の肩が、ビクッと大きく跳ねた。
政務秘書官、洗井の政策秘書である戸頃伊智朗だ。
「ひぃっ……」
戸頃の顔色は、もはや土気色を通り越して青白かった。額からは滝のように汗が流れ落ち、ずんぐりとした巨体を縮こまらせて震えている。スキャンダルの出処は、元を正せばこの戸頃の派閥内の管理不足から生じたほころびだった。
「そ、総理……! わ、私が……私が責任を持って、その者の口を塞ぎますから……っ!」
必死に取り繕おうと擦り寄る戸頃に対し、洗井は汚物でも見るかのような一瞥をくれ、容赦なく言葉を吐き捨てた。
「オマエじゃ頼りないんだよ!!」
怒声に撃たれ、戸頃はビクンと身をすくませて押し黙る。洗井は荒い息を吐きながら、血のにじむような力でデスクの縁を握りしめた。
「いいか……すべては、参議院で例の法案が通ればチャラになるんだ。あの法案さえ成立すれば、マスコミの目も逸らせる。党内の不満も抑え込める。……だが! あの男が……あの石橋のジジイが、どうしても首を縦に振らない!!」
洗井の悲痛な叫びが、厚い絨毯に吸い込まれていく。
圧倒的な権力を持つ参議院のドン・石橋の「拒否権」の前に、総理大臣であるはずの自分が手も足も出ないという絶望。情報統制も、裏工作も、石橋が反対票を投じるよう仕向けた現実の前では、何の役にも立たなかった。
重苦しい沈黙が、執務室を支配した。
洗井の荒い呼吸だけが響く中——突如、ひどく場違いで、軽快な歌声が室内に流れた。
「♪お世話になりました〜……」
全員の視線が、執務室の奥の窓際へと向かう。
事務担当の内閣官房副長官 檜山慎太郎だ。
彼は、崩壊寸前の内閣の危機的状況などまるで他人事であるかのように、両手を後ろで組み、窓の外にそびえ立つ国会議事堂の白亜の塔をのんびりと見ていた。
「♪なんとな〜く〜なんとな〜く〜夢のような〜幸せ〜」
能天気で、どこか狂気すら感じさせる場違いな檜山の歌声。
洗井はその背中を絶望的な目で見つめながら、己の内閣が今、音を立てて崩れ落ちていくのをただ感じていることしかできなかった。




