第八話 静かな廊下
入口のドアは半開きで止まっていた。
割れたガラス。動かない空気。外光だけが、床へ薄く差し込んでいる。
境界を越えた瞬間、音が変わった。
外のざわめきが遠のく。
建物の中は静かだった。
靴底が何かを踏む。
ガラスか、陶器の破片。その下に、形の分からない残骸。
わずかな音が、壁と天井に反響する。
目が暗さに慣れていく。頭の中では、必要な処理だけが進んでいた。
恐怖はない。
必要がない。
たぶん。
角の先に伸びる廊下――閉所、スタングレネードの使いどころ。
分岐の先に気配。
手が円筒を掴む。躊躇なく安全ピンを引き抜くと、乾いた金属音が鳴った。
投擲。
次の瞬間――――閃光。
音が空間を叩き潰した。
閃光と衝撃音が廊下を裂き、世界は一瞬だけ白く剥落した。
視界が輪郭を失う。数秒の空白のあと光と形がゆっくりと戻り始めた。
その先に、倒れている人影があった。
エプロンをつけた女性。
――すでに呼吸はない。
血より先に異様さが目に入る。形はある。だが、生きている人の姿勢じゃない。
そのすぐ横に、動かない小さな身体。
さらにもう三つ。
動かない。
悲鳴はなかった、泣き声も。静寂だけが沈んでいた。
光の余韻で視界の戻りが僅かに遅れる。
茂の視線が固定され状況を理解するまでに、少しだけ時間がかかった。
死亡五名、それだけが確定する。
音がない。
悲鳴も、泣き声も、足音も。
それでも気配だけは消えない。奥ではない、壁の向こう。
茂は視線を動かさないまま歩き出した。
動かない保育士も、小さな身体も、そのまま視界の外へ押しやる。
死んでる。立ち止まる理由はない。判断も必要ない。
分岐の先にある扉――閉鎖された空間。
気配がある、迷いはない。
手が円筒を掴む。
確認はしない――損をする。
安全ピンを引き抜き、部屋に投げ込んだ。
フラッシュと衝撃音。
空間が再び揺れる。
破裂の余波が減衰し、形が戻る。
倒れた家具、散乱した物、そして――人影が二つ。登録駆除従事者。
一人は動かない。姿勢も呼吸もない。
死んでる。
残った一人が僅かに揺れていた。動いているが、呼吸が怪しい。
生存、だけどすぐに死ぬ気がする。
なんとなく。
視線が一瞬だけ止まる。死にかけている。それだけだった。
中年の登録駆除事業者。代わりはいくらでもいる。
救助優先度。
ゼロ――
茂はそのまま背を向けた、靴音だけが静かな部屋に残る。
次の扉の向こうには、気配はなかった。音もない。空間の圧も変わらない。
ここには要らない。
槍を構えたまま侵入する。
視線は角と遮蔽物をなぞり、そのまま室内へ滑り込む。
倒れた机と散乱した椅子の下に、小さな影が三つあった。
寄り添うように重なっている男女の園児。
手を繋いでいた。
逃げようとした道の先で倒れている。
少女の腹部は損壊し、確かに食べた痕が残っていた。
少年二人の外傷は軽微だったが、致命傷は頸部に集中している。
室内は異様な静寂に満ちていた。
視線が固定され、判断にわずかな時間がかかった。
噛まれた跡、ちぎれた場所、壊れ方。
推定中型。
四足。
廊下を数歩扉の向こうに気配がある。
手が円筒を掴み、ピンを引き抜きそのまま投擲。
白い閃き――破裂音が閉鎖空間を満たす。
扉を押し開けると視界の中に、人影。床と壁際、机の陰に屈んだ人が固まっていた。
保育士が2名、園児が沢山。
……多い。何人いるんだ?
動きが止まっている。
耳を押さえ、目を閉じ、身体を縮めたままの集団。
反応は遅い。聞こえていない。見えてもいない。
わざわざ立たせる必要はない。
邪魔だ。
茂は近くの保育士の肩に手を置き、床へ押し戻した。
「そのまま。動くな」
聞こえてる感じはない。無理か。
役に立たないな。
泣き出しかけた園児を、保育士が反射で抱き寄せて口を塞いだ。
それでいい。大人しく固まってろ。
今ここで必要なのは避難じゃない。余計に動かないこと。
視線はもう次を探している。
それだけだった。説明はない。慰めもない。
大事なのは合理性だけ。
感情は必要ない。
茂は振り返らない。すでに廊下。次の気配を探していた。
静まり返った廊下。
さっきまで反響していた音が遠い。壁の向こうに消えたように感じた。
歩調は変えない。
エアフォースワンの足音だけが一定で連続する。
視線は止まらない。角、壁際、開口部、遮蔽物を順に追っていく。
警戒は継続している。
違和感は小さい。
でも消えない。
呼吸は変わらない。
ただ、視線だけが僅かに長く留まった。
いる。
廊下の奥。
光の切れ目に、黒い影があった。
壁の影とは違う。
そこだけ、何かの輪郭を持っている。
質量のあるなにか。
足は止まらない。
速度も落とさない。
ただ、次の一歩が慎重になる。
指先の感覚だけが変わった。槍を握る手に自然と力が入る。
意識してそうしたわけじゃない。周囲に反応しただけ。
音はないが気配だけは明確で、その位置がはっきりと浮かび上がる。
歩く速さは変えない。呼吸も乱さない。
視線を奥の影に固定した。
次の瞬間を、待つ――




