第52話 二分間
茂はポケットの中で、目覚まし時計の角を指で確かめた。
しゃがんだまま片方を取り出し、文字盤を覗き込み指先だけで時刻を合わせる。
2分後。
もう片方は予備としてジャケットに残した。
男が隠れている棚列から反対側。
広場へ抜ける通路のさらに影が濃いほう。
時計を指先で床に触れさせてから滑らせる。
時計は途中で止まり、棚の下の暗がりに吸い込まれた。
——まだ気づかない。
二足の黒い塊は別の動く点に意識を割いていて、腕で床を掴むようにして移動する。
見える場所を走らない。
柱の陰に入りディスプレイの裏を抜け、次の死角へ移る。
視界が切れる場所だけを選んでいた。
長い2分。
男を見る。黒い塊を見る。自分の位置を見る。
もう一度。
もう一度だけ、順番を変えて見る。
距離。遮蔽物。
逃げ道の幅。棚の場所。柱の影。
視界が切れる位置。
男へ視線を送り、黒い塊を確認し、すぐに自分の立ち位置へ意識を戻す。
同じ線を、何度もなぞる。
決め打ちすると外れた時に終わる。
代替を用意しないと――
茂は上着の前を片手で押しのけ、腰のホルスターに指を掛けた。
スプレーのグリップを確かめ安全ピンを抜く。
抜いたピンはデニムのポケットへ押し込んだ。
ホルスターの位置を少しずらす。利き手が最短で入る角度に寄せる。
引っ掛かりが出ないところまで出して、手で確かめた。
呼吸を整える。
大きく吸わない。小さく吐く回数を増やす。
走れる体にしておく。
男を見る。
まだ隠れている。顔が歪んでいる。
あれは、何かが起きた瞬間に飛び出す。止まられない。
茂は男と目を合わせた。
人差し指と中指で目元を指し、視線を示す。
そして頷く。
それで十分だった。
男の位置と、黒い塊の影、その間の空白を頭の中で並べ直す。
——2分。
時計の針が、見えない場所で揃った。
次の瞬間。
棚の奥で、目覚ましが鳴った。
短い電子音。細い音が床を這って広がる。
黒い塊が一瞬だけ止まった。
影が鳴ったほうへ寄る。反応は速い。だが二匹ともじゃない。片方が少し遅れる。
茂が動いた。
立ち上がらない。腰を浮かせたまま棚の角を抜けた。
槍の穂先は出さない。体の横に沿わせ死角の中を抜ける。
速度を上げるのは、男が《《使える》》状態になってから。
男が飛び出した。
棚の隙間から転がり出るみたいに通路へ出て、足がもつれて、立て直して走る。
叫ばない。叫べない。喉が固まっている。
黒い塊が追う。
二足。腕が長い。床を掴んで引き寄せるみたいに加速する。
人間の走りじゃない。
速い。短い距離ほど。
男はすぐ追いつかれた。
片方が正面へ回り、もう片方が背後へ回る。挟まれる。
通路の幅が男の逃げ道を消した。
背後に押され棚側へ滑る。
肩が当たる。
大きいほうが前に出て、覆いかぶさるように腕が伸びて男を掴んだ。
男の身体が引き止められる。
—— 今 ――
茂の速度が切り替わる。
棚の影を滑って距離を奪う。
男の身体が宙に浮いて落ちて、また浮く。床に当たる直前で引き上げられる。
終わらない。上へ引き戻される。
男の口が開く。声が出ない。
両手首が、左右から固定された。
引っ張られ肩が鳴る。
左が外れて裂けてぶら下がる。右も遅れて同じになった。
刹那、血が噴いた。
途切れず落ちて、床に線を引く。
腕を失った身体だけが落ちた。
今度は床が逃げない。
もう片方は落ちた男を見ている。
口元が緩む。笑いじゃない。ただ面白いという反応だけが出ている。
大きいほうの背後に入る。
真正面は取らない。横も取らない。
槍の長さを、隠したまま距離を奪う。
——届く。
槍を突き出さない。
体ごと寄せて刃先を滑り込ませる。
狙いはわき腹。胴の厚みの外側。骨の隙間。
刺さった。
手応えが返る。
止まった感触じゃない。中へ入っていく感触。
躊躇せず、トリガを引いた。
内部で圧が解放され、V-Gelが供給路を抜けガスポートから噴射された。
槍を抜かない、抜けばジェルが逃げる。
刺したまま角度だけを変え、体重を預け直す。
男のことはもう見ない。
視線を戻さない。
今見るのはもう一体の動きだけだ。
槍を刺したままの塊を盾みたいに使う。
抜かない。距離だけをずらす。
空いた手が腰へ落ちる。
ホルスター。指先でグリップを確かめて、引き抜く。
間合いは約3m。
近い。射程圏内。
スプレーのレバーを倒す。
フォームの泡が、勢いよく噴き出した。
白い線となって飛び、散らずそのまままとわりつく。
顔面に当たり泡が貼り付く。目と鼻、口元に広がって薄い膜みたいになった。
剥がそうと動くほど伸びて残る。
塊が顔を振る。振っても剥がれない。
前脚で掻こうとして、泡がさらに伸びる。指の間に絡む。
呼吸が乱れ吸うたびに音が変わる。
視界が消え頭の向きが迷う。
身体だけが前へ出ようとして足が空振りする。
槍越しの重さが変わる。
刺さっているほうの脚が沈んで、身体が傾く。
立っていられなくなって、床へ崩れた。
茂はそれに合わせるだけだ。
6秒。
最後まで使い切る。
噴射が途切れて、レバーから指を離した。
使い切ったスプレーを捨てた。床に落ちて転がる。
槍は抜かない。
刺したまま、体重だけを預けて固定する。
手がチャンバーへ。
ロックスリーブを押し下げて左へ捻ると、カチッという音とともに薬室が開いた。
排莢。
指で摘んで、抜く。
空のカートリッジが落ちる。
ポケットからV-Gelを1本。
カートリッジを薬室へ落とし込み、押し戻して右へ捻ると完全にロックされた。
数秒。
槍先は刺さったまま、次弾が装填された。
茂は槍を抜く。
抜いて下がり、死体と距離を空ける。
視線は無意識にフォームを噴いた方へ流れた。
白が顔面に貼り付いたまま、頭を振っている。
掻くが剥がれない指に泡が絡む。
息が吸えてない。
吸おうとして、それが出来ていない。
巻き込まれない位置へ回る。正面を取らない。軸線を外す。
まず、槍が届かない距離で止める。
次の一歩で、刺せる距離へ入る。
ここからは速さを捨てる。確実に処理する。
正面を外したまま腰の横へ入る。
骨盤の外側を狙う。
槍を深く刺し抜けない深さで止めた。
トリガを引きV-Gelが叩き込まれる。
まだ暴れている。だがもう前には進めない。動くたびに体が崩れる。
遅れて、内部が裂ける。筋が切れて、重さの置き場が消える。
身体が音もなく沈む。
倒れる。
追わない。刺したまま角度だけを変える。体重を預け直す。
最後に動きが途切れる。
痙攣みたいなそれが少しだけ続いた。
茂の胸に、何かが入る。
静かに上がってくる。腕へ、背へ。
力が満ちる感覚が、確かにある。




