第51話 距離二十メートル
茂は石井の目を見た。
「無理そうなら、戻ってきます」
逃げるための言い訳じゃない。帰還の許可を取りに来た言い方でもない。
中で判断して無理なら戻る。そう告げただけだった。
石井は頷くのが遅れた。
何か言いたいけど言えない。そんな顔だった。
「……分かりました。戻ったら必ず声を掛けてください」
茂は返事を短くして、ケースを足元に置いた。
留め具を外しケースを開く。
黒いシャフトを引き出し、二分割の継ぎ目を合わせる。
噛み合う位置が勝手に決まる。
カチ、と固定の音だけが鳴る。
一度だけ捻って確かめる。
回らない。抜けない。
締めたという感覚じゃなく、最初からそうだったみたいな感触。
チャンバーの蓋を少しだけずらして中を確かめる。
雑にやると、あとで馬鹿を見るのは自分だ。
異常なし。
上着のポケットから、渡された布を取り出した。
2ホールの黒いバラクラバ、目の位置がきっちり抜かれている。
ニット帽を外すと空調の風が額へ当たった。
代わりにそれを被る。
布が頬と顎に張り付く。
外の空気が少し遠くなる。
呼吸が自分に返ってくる。
口元の布がわずかに膨らんで戻る、その反復が変に落ち着くことに気づいた。
――静かだ。
恐怖は消えない。ただ余計な情報が削れる。
邪魔が減る。
自分を内側に押し込むための物だ。
――使える。
次に、眼。
スマートグラスを掛けた。視界の端に表示が出る。
指で一度だけ操作した。
録画開始。
視界の端に「REC」消えない。
槍を持ち上げ握り直した。重さが腕に戻る。
そのまま規制線の内側へ足を向けた。ここから先は近接だけの仕事だ。
規制線の内側に入ると、明るさの質が変わったように感じた。
天井灯は生きている。
店の明かりも残っている。
なのに、そこはもう買い物をする場所ではなかった。
穂先を棚から逃がして茂は進む。後ろは身体に沿わせた。
ゆっくり進む。速く動けば見つかる。
遅ければ背景に紛れる。
茂は自分の速度を店内の静けさに合わせて落とした。
曲がり角の手前で止まる。
棚の高さ。死角のでき方。通路がどこまで見えるか。見えている場所ではなく、見えない場所を先に潰す。
角の向こう。棚の裏。柱の影。
そこにいる前提で茂は進んだ。
槍は前に出さない。
体の横。先端を壁にも棚にも触れさせない。触れた瞬間、全てが台無しになる。
距離を詰める。
目標は20m以内。そこから先は気づかれる確率が跳ね上がる。
生活用品の棚に、小さい箱が並んでいる。目覚まし時計。安物。軽い。
立ち止まらず、指先だけでそれを掴む。ひとつ。もうひとつ。
同じサイズ。選ばない。迷わない。
ジャケットのポケットに滑り込ませる。右、左、押し込んだ。
顔を上げ、棚の隙間越しに通路の先を読む。黒い塊の気配がまだ遠い位置で止まっている。
――入った。20m。
ここから先は、息の速度で動く。
床は白く、照明も明るい。
それでも見通せない。
柱とディスプレイが、視界を細かく切っている。
腰を落としたまま、身体を低くして進む。這うように、少しずつ。
槍は長い。先端を先に出さないように。
止まって、見る。
動いて、止まる。
――いた。
通路の先。広場に近いあたり。
二足の影が二つ。腕が長い。床を掴むみたいに移動して、視界から消えてまた出る。
距離はだいたい15m。
近い。近いのに、届かない。届かないのに気づかれたら終わる距離。
茂の位置から隠れている人間も見える。
棚の下。カウンターの陰。柱の背。
動かない点が十や二十じゃきかない。息を殺して目だけでこちらを見ている。
その中にひとり崩れているのがいた。
20代半ばくらい。
男。頬が引きつって、口が閉じられない。歯が見えているのに声は出ていない。
棚と棚の隙間――商品を抜いた跡の細い空洞に身体を押し込んでいる。
腕が震えている。膝も震えている。
今にも発狂しそうな顔だ。
目が潤んで焦点が合っていない。呼吸だけが速い。
あれは、動く。
自分で止まれない。
我慢が切れた瞬間に、勝手に飛び出す。
茂は棚の角に身体を寄せた。
男の位置をもう一度だけ確認する。棚板の隙間。目はこっちを探している。
助けを求める目ではない。その段階はもう過ぎている。
次に何が起きるのか。誰がそれを決めるのか。
それだけを待つ目だった。
茂はポケットの重さを確かめた。目覚まし時計が2つ。軽い。
視線を外さないまま、呼吸を一度だけ落とした。
迷いは、ここで終わる。
――《《あれ》》を使う。




