第46話 職域の外側
それは、すでに三重に引かれていた。
歩道と車道を分け、その奥でもう一段余白を取る。赤色灯は回っていないが無線の音だけが切れずに続いていた。
警官の数が多い。
立っている者、歩いている者、誘導している者。誰も前に出ない。全員が外へ向けて動いている。
「こちら通れません」
「店、閉めてください」
「裏へ回ってください」
声は低く怒鳴りも急き立てもせず、ただ人を遠ざけていた。
規制線の内側交差点の奥に黒い塊がある。
鹿に似た体型。肩が異様に高い。首は短く頭部が重い。枝分かれした角が左右に張り出し、標識の高さで揺れている。
区分を当てるなら大型より上だ。
距離はまだ遠いのに大きい。角の広がりだけがはっきり分かる。
害獣は動かない。
四肢は踏ん張るように開かれ、重さがそのまま地面に落ちている。呼吸のたびに胸郭が上下し、体重がアスファルトへ押し付けられる。
交差点が一つ止まる。信号が落とされ、警官が手で流れを変える。人も車も溜まらない。
無線が短く鳴る。
「住民、残り二世帯」
規制線の外で茂はただ立っていた。
「もう少し下がってください。避難中です」
声だけが飛んでくる。
それだけだった。
茂は数歩位置をずらした。視界がほんの少し変わる。
規制線の内側に、紺の車両が二台止まっている。いつからあるのかは分からない。
側面に小さく白い文字。県警本部の所属表記。警告色も番号も目立たない。
業務車両としての最低限だけが残っている。
その周囲に人影。
九名がすでに配置についている。
全員、紺の戦闘服。厚手で光を吸う生地。
ブーツは土を噛み同じ場所を踏み続けている。
顔は見えない。バラクラバ、ヘルメット、ゴーグルで完全に覆われている。
銃は出ているが構えられてはいない。
M700が二挺。
それぞれに観測手が付いて、二人一組で、同じ方向を見ている。
標的との距離は百を超えている。
一人はスコープを覗き続け、もう一人は周囲と端末を交互に確認する。
役割は入れ替わらない。
スコープ付きのM870《ショットガン》が五挺。
銃口は下むき。
照準器付きの時点で弾種は明らかだ。
銃は構えられていないが、いつでも動かせる位置にある。
撃たない状態で、撃てる準備だけが整っている。
「距離、百二十」
低い声。確認だけ。
「背面、構造物。先、無人」
言葉は短く説明はない。すでに共有は終わっていた。
誰も今来た感じがしない。ずっとここで待っていたように見える。
無線の量が少しずつ減っていく。
人の気配が薄れ、動きが終わりに近づいていく。
さっきから位置が変わっていない。銃の角度もそのまま。
「まだだ」
理由は言われない。
無線が短く鳴った。
言葉はない。
合図だけだ。
二つの銃口が同時に跳ねた。
次の瞬間、乾いた衝撃が二つ重なった。重い発砲音。
距離、百十。
近すぎず、遠すぎない。
呼吸が止まる。
音は一つに聞こえた。鋭く、短い。
重さのある弾が同時に届く。
害獣の胴が沈んだ。
皮膚が裂け中で何かが壊れる感触が距離を越えて伝わる。
前脚が崩れ、体重が前に流れる。
踏みとどまる力がもう残っていない。
重い衝突音とともに倒れた。舗装が鈍く鳴り質量だけが地面へ張り付く。
二挺の銃口は下がらない。観測手も視線を切らない。
「倒れた」
短い声。
まだ終わりじゃない。
五人が同時に動く。
スコープ付きの散弾銃が持ち上がる。銃口は安全な角度に逃がされていた。
距離を詰める。走ってはいない。歩幅が揃う。
害獣は動かない。
だが完全に止まってはいない。
距離が縮む。10、8、5。
一人が止まり、銃口が静かに頭部へ向いた。
一発。
至近の発砲音とともにスラグの鈍い衝撃が叩き込まれた。
反応はない。
誰も叫ばない確認だけが行われる。
無線に短い確認が入る。
空気が戻り止まっていた時間が動き出す。耳鳴りはない。だが音が戻らない。
害獣は倒れている。
四肢は崩れ体重が舗装に沈みきっている。呼吸の動きは見えない。
銃口は下がったまま、構えは解かれない。
規制線もそのままだ。一本も外されていない。
人を戻す声が、まだ出ていない。
無線が鳴る。
短い応答がいくつか返るが内容までは届かない。
誰も「終了」とは言わない。
さっきから、立ち位置が変わらない。
観測手と狙撃手の視線だけが外れない。
風が一度強く吹いて、誰かがようやく息を吐く。
それでも空気は緩まない。
規制線の外側で茂は見ていた。倒れた害獣ではない。
人の配置と動かない理由を。
ここから先は数字と記録の仕事だ。
ここに自分の役割はない。
刺していない。動いていない。判断もしていない。
だからここに残る意味はない。
茂は視線を外し規制線の向こう側へ一歩下がる。
背後で無線が鳴る内容は聞こえない。
茂は振り返らず、歩き出す。
交差点を一つ越えたところで空気が変わる。現場の外だ。
いい物を見た。
今日はそれでいい。




